第62話 した事が無いから
大事な事を思い出してみれば、気持ちが固まるのは早かった。好きになったけど、許されない相手。
既婚者に恋をしても、諦めるしかない。その辛さも思い出す事が出来た。今はもう、諦める前の想いを取り戻せた。
リサ姉みたいな人と結婚がしたい。こんな人と、ずっと一緒に生きて行きたい。俺の奥底にあった気持ちは、完全に失われていなかった。
捨てたと思っていた感情は、ずっと奥底に押し込んでいただけだった。だから俺は、こんな曖昧な関係を続けて来たのだろう。
心のどこかで、ずっとこのまま続けば良い。そう思っていたのは、俺の中に残り続けていたから。初めて好きになった日の想いが。
変に大人へと成長した事で、俺は誤魔化すのが上手くなっただけだった。付き合えたら嬉しいんじゃない。付き合いたいんだ。
下手くそな恋愛をしたから、本音と向き合う事から逃げていた。逃げる理由を探してしまっていた。
ごちゃごちゃと、余計な事を考えている場合では無かった。確かにリサ姉は、あまり残された時間がない。だけどまだ、30歳だ。
時間が残されているのだから、俺が頑張れば良いだけの話だ。資金的な問題は、副業かバイトでもやれば解決出来る。
(たったそれだけの事だった。世間の余計な事を、気にし過ぎていた)
失敗した人達の事ばかりを見て、失敗した後の事を気にしてしまっていた。上手く行っている人達だっているのに。
10歳以上離れた夫婦だって、世の中には沢山居る。あまり話題になり難いというだけでしかない。ただそれだけでしかない。
そもそも俺達は、何年も一緒に過ごせていた。ここ数年で知り合っただけの関係じゃない。お互いの失敗も、色々と見て来た。
何が出来ない事か、苦手な物は何か。癖や考え方だって、殆ど知っているじゃないか。何故俺は、普通の恋愛を考えていた?
彩智と付き合う事と、リサ姉と付き合う事はイコールじゃない。交際前から積み重ねて来た条件が、全然違うじゃないか。
(見るべき所を間違えていた。最初から俺は、誰よりもリードした位置に居た)
リサ姉と初めて肉体関係を持った日から、チャンスはあったのだ。ただ余計な常識が、世間一般的な視点が邪魔をしていた。
特殊な場合を、計算に入れられていなかった。どうやったら俺とリサ姉が、今更失敗するというのか。弱い所だって、お互い知っているのに。
俺がちゃんとリサ姉を大切に出来るのか。そんな事を悩む必要なんて無かった。だって10年以上経っても、大切な人のままなのだから。
1年や2年の関係だったなら、どうなるか分からない。だけど俺達は、そんな浅い関係じゃない。どうやって今更、雑に扱う事が出来る?
雫さんのように凄く綺麗な人と関係を持っても、気持ちが揺れ動く事は無かった。結局俺の心の中心にあったのは、いつもリサ姉だった。
「いらっしゃい一輝、どうしたの今日は?」
「ちょっと相談したい事がありまして」
俺は今、雫さんの家へやって来ている。今日は雫さんの家へ来る曜日じゃない。本当ならリサ姉と過ごす日で、今日は夕方からお祭りに行く。
だからこそその前に、どうしても相談しておきたかった。ここ最近、ずっと考えていた事。3人で過ごしている間も、考え続けていた事。
もう慣れた雫さんの家で、向かい合って座る。リビングの綺麗なテーブルを挟み、俺は最初から本題を告げる。
「告白って、どうやるんですか?」
「……ふぅん。そういう事ね」
俺は自分の過ちに気付いた。順番を間違えていた。リサ姉が譲らないから、付き合えない。確かにそれはそうだろう。
最初からそう言われていたからな。だけどそれは、俺が付き合って貰えない本当の理由じゃない。俺はまだ、告白すらしていない。
告白してフラれて、仕方ないからセフレという関係になったわけじゃない。まだやるべきステップを、一度も踏んでいない。
俺は恋愛が下手くそで、経験値が足りていない。それは分かっている事だ。でも下手なりに、やれる事をやらないと。
「もう理沙を焦らさなくても良いの?」
「意味はきっと、あったと思います。だけど、もう十分です」
俺は今になって、彩智の気持ちが少し分かった。相手の気を引こうとする気持ちが。俺と同じで彩智も、恋愛が下手だったのだろう。
お互い初めての恋人で、交際という行為を良く分かっていなかった。ある意味では、似た者同士だったのかも知れない。
今俺がやっている事は、彩智と付き合っていた時と似ている。相手から持ちかけられた事だから、全部言われるがまま従った。
だけどそれではダメなんだ。俺がどうしたいのか、リサ姉にどうして欲しいのか。全然話し合えていない。同じ過ちを犯している。
雫さんとの関係は、確かに得る物が多かった。女性との接し方を中心に、色んな事を教えて貰えた。だけどもう、十分だろう。
「そう……なら後は、貴方の気持ちをストレートにぶつけなさい」
「えっ……それだけ、ですか?」
もっと何か、無いのだろうか? シチュエーションだとか、プレゼントを用意するとか。そんなシンプルで良いのか?
「間違えてはいけないわ。理沙は貴方が好きなのよ? なら後は、ちゃんと言葉にするだけよ。他に何も、必要な事なんてないわ」
そういうものか? それで良いのだろうか? 俺は告白なんてした事がない。だからイマイチ良く分かっていない。
彩智と付き合ったのも、向こうからの告白が切っ掛けだ。そう言ってくれるなら、付き合ってみようと思って承諾した。
それから関係が始まっただけでしかなく、恋人同士じゃない相手に、気持ちを伝えた事がない。タイミングとか、どうすれば良いんだろう?
「どうせ夕方、2人で花火大会でしょう? その最中でも帰りでも良いから、真っ直ぐぶつかって来なさい。それでもまだ理沙が意地を張るなら、その時は私を呼びなさい」
「わ、分かりました」
言葉選びだとか、細かい部分を相談しつつアドバイスを貰う。思ったよりも、随分とあっさりとした会話で終わってしまった。
もうちょっと細かく指導を受けるのかと思った。だってリサ姉と雫さんは親友関係だ。厳しい採点が入ると思っていたのに。
これまでのセフレ関係では、実際に厳しい指導はあったのに。触り方が駄目とか、エスコートが出来ていないとか。
雰囲気の作り方や、ベッドへの誘導なんかも色々と言われた。だけど告白の方は、特にマナーを指導はされなかった。
「じゃあ、最後の授業料を貰いましょうか……」
「えっ? あの――」
椅子から立ち上がった雫さんが、ゆっくりと近付いて来る。ひんやりとして両手が、俺の頭部を優しく掴む。
幾度となく経験した、自然な流れで雫さんが俺を誘導しようとする。これまで通り、セフレとしての接し方で。だけどもう、応じられない。
心を決めた以上は、もう雫さんとはセフレで居られない。これ以上は、もうダメだ。ここで応じたら、どのツラを下げて告白するというのか。
今日まで色々と教えて貰った事は感謝している。足りない女性経験を、たっぷりと補って貰えた。だけど今日のお礼は、別の形で返します。
「すいません、高嶺部長。もう俺は、リサ姉としか――しません」
「……そう、良い心掛けね。ここで応じていたら、引っ叩いて叩き出すところだったわ。そんな男に、理沙は任せられないもの」
どうやら最後の試験だったらしい。確かにそれはそうだろう。告白すると言っておきながら、別の女性と関係を持つなんておかしな話だ。
俺達はこれで、元通り上司と部下の関係に戻る。セフレという関係は、これで終わりだ。かつてそういう関係だった――それだけの事。
凄くお世話になったのは本当だ。その感謝だけは、忘れる事はないだろう。言葉通り、男にして貰った人なのだから。
「頑固な理沙を、しっかり捕まえて来なさい」
「はい!」
俺はこれまでとは違う理由で、スッキリとした気分で高嶺部長の家を出ていく。




