その8 雨
運ばれてきた水をがぶりと飲む。
そしてエシルは、酒臭い息を大きくついた。
「俺んちは、何も動いてないのか。」
イルスはしばらく言い淀んだ。
やがて、
「エシル殿が行方知れずになった後、しばらくはご帰宅をお待ちしていたんですが。」
「うむ。」
「将軍閣下は、家をお嬢さんに婿を取って継がせようとお考えになったようで。」
「うむ。」
「そうしたらお嬢さんが、出入りの宝石業者と駆け落ちを。」
「はぁ?!」
エシルは思わず腰を浮かせる。
「駆け落ち?サディナが?」
「奥様が内々にうまくまとめて、大きな醜聞にはならなかったんですが、心労で将軍閣下は、相当お窶れになりました。奥様も、王都に居づらくて、今は領地の方にいらっしゃいます。」
「詳しいな。」
「この一ヶ月、タニア様を探しているうちに、色々聞きかじりました。」
イルスは肩をすくめた。
「そんななので、タニア様も元の奉公先を頼りにくかったようです。」
エシルはもう一度水を飲んだ。
「すまん、飲み過ぎたらしい。あんまり頭が働かねぇ。それで?お前はなんでここに?」
「タニア様の母方の従兄弟が、この先の町に住んでいるらしいと聞きましたので、一応確認に参りました。」
ああ、そういや聞いたことあるな、とエシルは記憶を探った。
レベント侯家に仕える従兄弟が、数字に明るいのを見込まれて、領地管理に携わっているとか。
エシルはしばらく頭を抱えて考える。
これでも、ここに住み着くまでそれなりに苦労はあった。ほとんど金を持って来なかったので、最初は南の国境にいる従兄のテュルンを頼るつもりでいた。
しかし途中で思い直した。将軍家を見限って出てきたのに、将軍家の従兄を頼るのは筋が通らない。
と言って他に友達と呼べる人間は、みな王都に住んでいる。今更戻れない。
行く当てもなく、さりとて国外に出るほどの踏ん切りもつかず、南の国境近くの村や森を彷徨い、野宿をし、その辺の獣を狩って食べる生活をしばらく続けていた。
が、冬近くになったある時、老狩人が熊に襲われているのに出くわして、それを助けて以降その男の薪小屋に住まわせてもらっている。
以後、薪を割り、猪や鹿を狩り、時に熊を狩って生活してきた。
もう王都の事は忘れる。自分を袖にした女の事も忘れる。
そう思って生きてきたが。
今更だ。
「クソっ」
悪態が漏れる。
だけど、確かめなくてはならない。
タニアが誰かの元で、幸せに暮らしている事を。彼女が後宮で静かに暮らしていると思えばこそ、二度と戻らない覚悟で王都を出てきたのだ。
「俺も行く。」
絞り出した声に、イルスは腰を浮かせた。
「本当っすか!」
声が弾むのを、エシルは手で制した。
「勘違いするなよ。王都には戻らねぇ。ただ、タニアの無事を確かめたい。」
「あ、そう・・すか。」
ちょっとがっかりするイルスだが、すぐに気を取り直した。
「了解です。明日の朝三刻に出ます。この店の前でお待ちしています。」
「分かった。」
エシルは立ち上がり、一瞬よろめいた足を踏ん張った。
「送りましょうか。」
「吐かせ。これぐらい何ともねぇ。」
雨足は少し弱まったようだ。
「風邪を引かないでくださいよ。」
「は。酔いを冷ますのにちょうどいいや。」
エシルは雨の中、店を出る。
あれから二年ちょっとか。
服も髪もたちまち雨に濡れて重くなっていく。
根城にしている古い薪小屋まで、結構歩く。
その間に色々考えた。
家財の類いはほとんどない。そもそもエシルが寝るだけの場所で、着替えと毛布がいくらかあるだけだ。
隙間だらけの薪小屋を、エシルが板で囲って住めるようにした。
飯は老狩人の家で食べている。
その代わり、狩りで得た収入は、その老人にほぼ全て渡している。
「爺さん、起きてるか。」
山道を少し行ったあたりに立つあばら屋のドアを開ける。
老人は寝ていたらしい。灯りは落としてあって、暖炉の熾だけが、仄明るい。
返事に少し間があった。
「なんだ。飲みに行ったんじゃねえのか。」
「明日からしばらく出かける事になった。」
「そうか。」
老人はまたゴソゴソと、薄い毛布に潜り込む。
「何も聞かねえのかよ。」
「俺はな、お前に助けられた命だ。聞いてほしけりゃ聞くし、出かけるんなら止めねぇ。巣穴は置いといてやるよ。」
エシルは笑った。
「そうか。じゃあとりあえず俺が戻って来るまで、達者でいろよ。」
「分かった。」
狭いあばら屋には、一部屋しかない。
そこに老人のベッドと、釣鉤のついた暖炉。壁にかかった狩りの道具。ベッドの下には服が詰まった箱。窓際の棚には鍋と食器。
目に焼き付ける。
この老人のおかげで厳しい冬を生き延びられた。
一度薪小屋に戻って、濡れた服を脱ぐ。
分厚い毛布にくるまって、少し眠った後、小屋の中を片付けて荷物をまとめた。
軍靴の紐を留め、剣を帯び、マントを被る。
厩から自分の愛馬を引き出して、鞍を乗せた。
「さぁ、お前の出番だ。」
せっかくの見事な軍馬なのに、この二年、薪だの毛皮だの、荷物持ちばかりさせていた。
売ろうかと思ったこともあったが、どうしても手放せなかった。
跨って手綱を鳴らす。
再始動だ。




