その14 行幸
次に言葉が出るまで、エシルは相当放心状態だったらしい。
その間に、タニアは赤ん坊のお襁褓を換えて、重湯をあたためて匙で飲ませた。
赤ん坊が落ち着いたので、かごのなかに戻す。
「お前の子か。」
やっと出た言葉に、タニアはうなずいた。
さっきのパン屋で聞いた、父親云々は、この子の事だったのだ。
「だ、誰の・・・。」
「私は、王太子殿下の侍女でしたので。」
ああ。なるほど。そうだった。その可能性をすっかり忘れていた。
「翡翠の君は、この事を知っているのか?」
「たぶんご存じないです。」
子供の事はよく分からない。生まれたてよりは大きい。まだ歩けはしないようだ。
「知らせないのか。」
「・・翡翠の君は、昔毒を飲まされたそうです。」
皆、口にはしないが、誰もが知っている。
今は後宮深く押し込められている皇后だが、我が子の王位を確実にしたいあまり、側室との間に生まれた子を片端から毒殺しようとした。
翡翠の君が生き残ったのは、ただ運がよかった。六年前に兄である元の王太子が、戦いで死んだのでなければ、今頃他の兄弟と同じように、墓の下だっただろう。
「私は、この子を守りたいのです。」
切実な響きだった。
今の王太子妃が、皇后と同じ事をやらかさないという保証はない。
「分かった。」
エシルは頷くしかない。
子供は機嫌よく、籠の中で声を出して遊んでいる。
日が落ちて、暗くなってきた。
「寒くないか?薪を足そう。」
エシルは、まだうまく働かない頭を振りながら、部屋の中を見渡す。
しかし薪は無かった。柴の束が部屋の隅に積んであって、タニアはそこから半分ほどを、暖炉に焚べた。
瞬時に理解した。
そうだ。妾妃に与えられる年金を受け取らず、手持ちの金だけで暮らしている。赤ん坊がいれば、働く事もできない。夕方にパンを買いに来たのも、半値になるのを待っているからだ
「さっき買ったパンがある。ここで焼いてもいいか?」
タニアが頷いたので、火のついた柴を少し横に避けて、袋に押し込んであった薄切りパンを暖炉に並べた。
しばらくして、パンの焼ける良い匂いが部屋の中に立ち始める。
同じように袋の中に押し込んであったチーズのかけらを、薄く切って、そこに乗せた。
そうしている間に、エシルはやっと周りを見る余裕が出てきた。
「ほら。お前も食え。」
タニアに差し出すと、彼女はちょっとだけためらうようだったが、すぐ受け取った。
痩せている。窶れている。満足に食べられていないのだろう。
ハフハフとタニアがパンを頬張るのを見て、エシルはちょっと幸せな気分になる。
「なあ。」
「はい?」
するりと言葉が出た。
「俺と一緒にならないか?」
びっくりしたタニアは、パンを取り落とす所だった。
「またそんな。冗談ばかり。」
寂し気に笑うタニアに向き直る。
「何で冗談だと思うんだ?俺は前も言ってただろう。俺のそばにずっといろって。」
「それは、・・そうですけど。」
タニアは手にしたパンを見て、赤ん坊を見て、それからエシルを見た。
「身分が違いますもの。」
「将軍家なら、捨ててきた。赤ん坊の事も任せろ。俺の子として育てる。何も問題ない。」
「問題ならあります。」
タニアはとうとう、エシルに向き直る。
「私は将軍家に恩がある身です。」
六つで母を失い、八つで父が失職した。
それでも何とか一家離散せず、人並みに暮らせたのは、将軍家がタニアを娘の侍女として雇い、かつ大人並みの給金を出してくれたからだった。たった八つの子供にだ。
そこの侍女頭から、
「身分違いの恋は不幸のもと。」
と最初に諭された。
小さい頃からよく知っているお兄ちゃん、という位置付けだったエシルだが、タニアが侍女として将軍家に来る頃には、同年代の少年達の中でも、際立って華のある一人になっていた。
自分には手の届かない人だ。
早々に諦めた。
でも時々ぐいっと気持ちを持って行かれる。その度に諦めるよう、自分に言い聞かせる。
普段、学問所の寮で暮らしているエシルが、たまに戻ってくると、延々その繰り返しだった。
早く誰かと結婚して欲しい。
早く本当に手の届かない所に行って欲しい。
侍女頭からも、何度か釘を刺された。
「坊っちゃんが、他家の姫君との婚約を渋っていらっしゃるそうよ。あなたまさか、坊っちゃんに何か吹き込んだんじゃないでしょうね?」
いいえ、とんでもない。
それでも、エシルが特に自分を気にかけてくれている事は分かる。時々実家に帰る時は、なるべく時間を作って送って行ってくれる。
サディナには、「乗れる船には乗っておけ。」と謎の言葉をかけられている。
嬉しいけど、でも恐ろしい。
うっかりエシルと恋仲になったりしたら、他の人から何を言われるか分からない。
そんな中での、翡翠の君の行幸だったのだ。




