20319 すべてのフランス人に死を、これはイタリアの怒りだ
『|全ての(Morle)|フランス人を(Alla)|殺せ(Francia)|これはイタリアの(Italia)|怒りだ(Anela)』
郡貞郎の祖父は、イタリアンマフィアの幹部だったと自称していた。それがモテるから言っていたデマカセなのか、本当にそうなのかはもう分からない。
彼は幼い郡にこう訓えた。
『いいかい坊や、我々イタリア人は戦争に弱い。戦うよりも笑うこと、飲むこと、女の子と遊ぶことを優先するからだ。
でも我々はそれを誇りに思っている。だってそうだろう? 戦うことは不毛だからさ』
幼い郡は首を傾げた。弱さが誇りになるなんて、意味がわからないからだ。
『でも、愛する人を傷つけられたイタリア人は強い。フランス軍の乱暴狼藉に立ち上がった民衆みたいに、自分で戦うと決めたら、誰よりも獰猛になれるのさ。
お前の中の『餓狼』は必要な時まで隠しておきなさい。でも、その時が来たら躊躇ってはいけないよ?』
それから二十年以上、郡はそんな話を全く忘れていた。イタリア人の血は引いているものの、郡は日本で暮らしていたし、名前も日本人だった。
彼は大手IT企業の営業で、イタリア語と英語ができることからしばしば外国を飛び回っていた。
妻の梨乃は幼なじみで、ずっとケンカ友達みたいな間柄だった。女にだらしなく、問題を起こす郡の尻を、大学卒業まで叩き続けてくれた。
大学卒業後、梨乃は英語教師に、自分はサラリーマンになる。二十年も一緒にいたのに、この先はもう梨乃が隣りにいない。
そう思うと郡は胸が苦しくなった。それは避けたかった。どうすればいい? どうにもならない。
大学最後のクリスマスの直前に、郡は関係を持つ全ての女性と精算した。お互い遊び相手だと認識していたから、こじれても男を使って私刑される程度で済んだ。
自分の周りに女性がいなくなった所で、郡は梨乃をクリスマスディナーに誘った。これまでどんな女性を誘うよりも緊張した。一世一代の、清水の舞台から飛び降りる気分だった。
「は? ばっっっっっかじゃないの?」
振られた。
代わりに梨乃は家に招いてきた。梨乃の家は昔からクリスマスは家族ですごしていた。幼なじみだから当然知っていたはずなのに。
ターキーは無かったが、家族で鍋を囲み、笑い合った。最高の時間だった。
「これを貰ってほしいんだけど」
「うちは仏教徒だし、クリスマスプレゼントなんて風習はないから、私からはこんなのしかないよ?」
はにかみながら手縫いのマフラーを差し出す梨乃、彼女にひざまずき、指輪を差し出しながら郡は誓った。
梨乃を絶対に幸せにする。もう他の女の子とは遊ばない。たぶん絶対しない。一生添い遂げる。笑いながら鍋を囲む、そんな家庭を作る。
梨乃が首を吊ったのは五年後のことだった。
『寂しさから他の男性と関係を持ってしまった。その人は悪くない、調べないでください』
そんな内容の遺書が残されていた。彼女は郡の心当たりのない妊娠していたし、信じられないような場所にピアスの穴があったりした。
郡は絶望した。それから三年、貯金を使い潰しながらその男を探した。しかし、まったく分からなかった。梨乃が最後に勤めていた私立高校にも不審な点は見つからなかった。
当たり前だ。
郡が頼りにしていた警察も、雇った探偵も、聞き込みした周辺住民も。
すべて門浦の息がかかっていた。彼は秘密の皇帝として君臨していた。色仕掛けと脅迫で、周辺で逆らうものはどこにも居なかった。
「えらく生意気で、エロい身体した教師が居てなぁ、『教育』してやったことがあんだよ。最後にゃあ自分から腰を振るメス犬になったが……惜しかったなぁ」
「…………」
ゆらりと立ち上がる郡。長月は佐香を見た。初めて見る顔をしていた。いつものだらしなく緩んだ表情ではなく、真剣に、そして恐ろしいものを見るように郡を見つめていた。
「俺の女はそんな事しないって面だな? バーカ、女なんて一皮むけりゃみんな同じだよ、◯◯◯にゃ勝てねえ」
静の体が震える。違うと言いたい心が残っているのだ。しかし、身体はもう完全に門浦のモノにされていた
「レイプして脅迫して『単身赴任のマヌケな旦那にだけは』なーんて言ってるのをじっくり調教してやると、あっという間に◯◯◯のトリコになっちまう」
もう喋るな! 長月は叫びだしたかった。しかし、当事者の郡が止めない以上は何も言えない。
内圧が高まるように、室内に膨らむ殺気。ガタガタと震えるクフを、長月は佐香に押し付けた。
「逃げろ」
「でも」
「私ではクフを抱えられない」
佐香はシラフに見えた。というか、いくら飲んでも実は全く酔えないことを長月は見抜いていた。
彼女は酒に愛されすぎていて、酒の救いから最も遠い場所にいる。
「…………」
「まあ、自滅覚悟で告発文書いてた所は、根性あったかもな」
郡の動きが止まった。静が門浦を庇う位置に立つ。
郡は闇の底から漏れ出すような低い声で、唸るように尋ねる。
「自殺じゃ、ないのか?」
「けけけ、警察も教育委員会も、俺の女を抱いてんだよ」
「はは……」
天を仰ぐ郡。彼は佐香と同じ。女を口説き、抱くことで痛みを忘れようとしていた。すべての女は愚かで尻軽だと証明することで、自分の痛みを正当化しようとしていた。
最悪の証明だ。これじゃあ、自分自身が、彼女を信じられなかった郡が誰よりも罪深い。
「全てのクソ野郎に死を…………これが! 僕の怒りだ!!」
郡の餓狼が牙を剥く。




