20230 演説
「ネヘプ様! 良いところに……お怪我を?」
「構わぬ、何があった?」
宮殿を抜け出したネヘプに駆け寄ったのは、イムの従者の一人である。
千と小野の懸念の通り、イムの従僕の中にネヘプに通じる者が出ていたのだ。
「イムホテプ様が『セクメト』の正しい起動手順を……!」
「やったか。やはりあの方ならばと思っていたよ」
ネヘプは報告を受けながら僅かに考え込んだ。今は手勢がいない。ちどりを探すか? 袖搦や『シャーク』は……?
街のそこかしこで煙が上がっている。この混乱の中で探すのは至難だろう。
「糞どもが」
ネヘプは毒づいた。背中の血は恐るべき速さで止まっていたが、ジクジクとした痛みはひどい。
このエレファンティネの街を捨てるか? ネヘプは一瞬だけ躊躇した。一瞬、一瞬だけだった。
「起動手順を教えよ。『セクメト』があれば私が【王神】だ…………こんな小さな街になど拘る事もない」
「はい」
説明を聞くうちに、ネヘプの表情は恥辱と憤怒で歪んでいった。聞いてしまえば簡単な話だ。
『石板の向きを星座の方向に変える』? なんでそんな事に気が付かなかった?
もちろん、ネヘプがあの『大地の裂け目』そのものが『セクメト』である可能性にすがったからである。
『河』に差し掛かる程の長い地割れが『河』の水を呑み込み下流は水不足に喘ぐ。王神の威信を汚すには十分な行為だ。
だが同時に、『この程度のものなのか』という疑念はしこりのように残っていた。この国全土から、九割の命を奪ったとされる存在が、ただの地割れなのか?
正直、そうであって欲しかった。自分の過ちを突きつけられるのは、誰だって耐え難いものだろう?
ネヘプとエレファンティネの街に伝わる『遺物』は二つ。『セクメト』と『クヌム』。
少なくとも、『クヌム』はもっと直接的な力だった。
…………クヌマトネヘプは、クヌム・アトン・ネヘプの事である。縮めてクヌマトネヘプ。
『クヌム』は創造神であるとされる偉大なる神であり、このエレファンティネの街の守護神でもある。ネヘプは『クヌム』の守護を受けるべく、神聖名としてその名を戴いでいる。
ちなみに、『20世紀初頭に王家の谷と呼ばれる場所から少年王神の副葬品やミイラ、呪いがまるっと発見される』というフィクションは有名であろう。
その少年王の名前は『トト・アンク・アメン』。縮めてツタンカーメンである。高貴な身分の者はこのように神の名を冠しながら、複数の名を持ち縮めて呼ぶことが多い。
閑話休題。
「まずは『クヌム』だ。あれを使えば……」
「何を使うって?」
「いたぞネヘプだ! あいつのせいだ!!」
乾燥レンガの家々の間から、怒れる群衆が現れる。ネヘプは舌を打った。護衛はいない。イムの従僕は、貴重な内通者として死なせたくない。
「行け、私は問題ない」
「申し訳ありませんっ!」
逃げる従僕、ネヘプは逆に堂々とデモ隊に向かった。石やコペシュ、槍などを構える群衆。
「例えば!」
ネヘプの声は朗々と響く。デモ隊全体の怒号をかき消すほどの力強さだ。
「百人の村に九十九人分の食料しかなかったとするならば……私は皆が少しずつ分け合うべきだと説いただろう!!」
ビクリと、人々の身体が震える。一言でネヘプの勢いに飲まれたのだ。
「だが、五十人分しか無いのに全体で分け合っては全員が飢える……!
私は、一人でも多くを生かすために非情な選択をしたのだ!! 諸君の怒りは正当である! どんな怨嗟も甘んじて受けよう!!」
拳で胸を叩くネヘプ、彼の武装は腰のコペシュのみだ。それを抜き、投げ捨てた。これで丸腰である。
「もしも、この過酷な日々を終えた後に、諸君に生きる力が残っていなければ再興も覚束ないだろう。
…………故に私は、未来のために情を捨てた!!」
武装した暴徒へとツカツカと歩み寄るネヘプ。もはや完全に彼のペースになっていた。
「そうだ!! 諸君らの命は失われた家族の血肉で出来ている。彼らの生命は未来を繋ぐために、託すために使われたのだ!!
それを、このような暴動で……!!」
掴み掛かるネヘプ。暴徒たちは抵抗できない。
当たり前だ。彼らは困惑していた。生命を奪う悪党を誅伐しに来たはずが、その奪われた生命の責任を無駄遣いを糾弾されているのだ。
「使い潰すなど、許されざる冒涜だ!!」
暴徒は……もはや暴徒ではなくなっていた。彼らの戦意は失われ、完全に暴動は沈静化していた。
ネヘプは内心でほくそ笑んだ。大衆はいい。扱いやすい。
「私を悪党として糾弾するのなら正面から来い。その刃を受け入れ、いつでも死ぬ覚悟は出来ている…………だが」
ネヘプは後方を見あげた。乾燥レンガの家の四角い屋根に、一人の女が立っていた。弓を構えて、ネヘプを撃ち抜くために。
「貴様が首謀者だな? 我が臣民を唆した」
「…………」
その女はクリスだ。浅黒い肌にしなやかな四肢、ウェーブのかかった長い黒髪で三白眼。彼女は無言で弓を下ろした。
【客人】だ。そしておそらく、ネヘプと同じタイプ……。
クリスは無言のまま身を翻した。問答を避けるように、戦いを避けるように。
いい判断だ。ネヘプはどんな相手でも言いくるめる自信があった。もっとも、労力に見合うかどうかは別であるが。
まったく、面倒なことをしてくれたものだ。姿を消したクリスにネヘプは心中で悪態を吐いた。




