20003 知朱
「あれ、目貫さん珍しいじゃん」
探偵、目貫千は事務所で寝泊まりをする事が多い。しかし、それとは別にアパートを借りている。
こちらは主に私物置き場にされていた。
七月の初め、生ぬるく湿った午後八時。千は荷物を持って自宅に帰って来ていた。明日からはN県まで行く予定だ。着替えなどを用意したい。
自宅と言っても貴重品はあまり多くない。冷蔵庫にはチョコとアイスと発泡酒しか入っていないし、テレビも洗濯機も存在しない。
応接ソファを寝床にするのが疲れた場合や、仕事に区切りがついた時に帰る程度だ。
週に三度も戻らない。
「夕飯食べた? 食べに行かない?」
「食ってない。少し待ってくれ」
話しかけてきたのは隣室の大学生、伊藤知朱だ。背は163センチ、手足もヒョロヒョロ、筋肉や脂肪がまるでつかない体質で、いくら食べても太らない代わりに肉もつかない。
長袖の開襟シャツにスラックス、薄い鞄という出で立ちなものだから男か女かも判別つけ難い。髪も短く顔立ちもシャープで、中性的美少年にもボーイッシュな少女にも見える。
「角のラーメン屋、行った?」
「いや、こないだまでの行列もないし今日は行こうかと」
「洒落てるけど小賢しい感じ。女子向けだね」
二人の関係は単なるお隣さんだが、非力な知朱が重い荷物に往生していたのを助けてこちら、知朱は千に懐いていた。
知朱の趣味は縫い物で、去年のクリスマスには手編みのベストをくれた程度に。
誤解していいのかな? 千はいつも考えている。でも知朱はまだ二十歳前後だろう? 隣のオジサンと仲良し程度なんだろうな。変に距離詰めたら嫌がるだろうな。
「ならちょうどいいんじゃないか?」
「女子扱いするんなら無精髭剃って来な。私もスカートに履き替える」
「女装趣味があったのか」
「まず買いに行かないと」
玄関口で待つ知朱と軽口を叩き合う。千は知朱の正しい性別を知らなかった。しかし、その明るい人間性は好ましかった。こうやって真正面から来てくれればいいのに。社会のドブさらいは嫌いではないが、だからこそ知朱の率直さは救いであった。
自分もこんな風に素直に生きれたら違うのかもしれない。いや、無理無理。ハードボイルド最高。
不要な荷物を置き、洗濯物をかつぎ財布と携帯電話だけをポケットに突っ込む千。ふと思い付いて洗面台に向かう。
「どうしたん?」
「いや、髭を剃ろうかとな」
「スカート持ってねえって言ってんでしょ」
頬を染める知朱、スラリとした知朱ならば何を着ても似合うだろう。ミニスカートで足を見たい。ロングスカートも絶対に合う。だが、線の細さを気にしている人間には褒め言葉にならない。
千のようにがっしりとした体付きに憧れるのも理解できる。知朱の感情は、自分にないものへの憧憬だ。いつものように千は自分に言い聞かせる。
「コインランドリーに寄る」
「また洗いもの溜めてんの? 洗ったげようか? 有償で」
「むさいおっさんの臭いが移るぞ?」
アパートの風呂トイレは共有で、洗濯機は玄関横にあった。千は寝床として利用しているだけなので、洗濯機は置いていない。
知朱はふと、なにか思いついた顔で千の胸に顔を寄せた。明らかに邪気のある行動だが、千は距離を取らない。
「くんくん、汗とタバコと香水臭いな」
「嗅ぐな」
「まあ、この時期はしかたねーよ。私も汗臭いぜ?」
薄い胸を張る知朱。細い体を隠すために長袖を着ているのだ。汗もかくだろう。
「ふむふむ。体臭が若いな……」
「マジで嗅ぐなよ……恥ずい」
首を傾け、襟の辺りを嗅ぐ千。汗と柔軟剤の臭い。タバコも吸わず、香水も付けないために、退廃的な千とは違い健康的だ。
突然の行動に頬を染める知朱、少女のような反応に千は笑った。
「面倒な奴だな」
「うっさい」
近所のコインランドリーに洗いものを放り込む。回している間にラーメン屋に向かった。
先月できたばかりの新しい店だ。洒落た外観と、爽やかな雰囲気。ちょっとしたイタリアンのようだ。
「女扱いしてやろうか?」
「あ、奢ってくれんの? あざーっす」
知朱は、千が媚びるような態度を好まないのを知っている。だからそれ以上の言葉はない。
煮干の出汁と柑橘系の香りの効いた、あっさりとしていて見た目もいい。そんなラーメンを向かい合って食する。
味は悪くないが、洒落っ気がありすぎる。ラーメンというよりも創作イタリアンを食べているような気持ちだ。知朱の『小賢しい』という評価が適切と思えた。
「もうすぐiPhone3Gが出るだろ? いずれノートパソコン持ち歩かない時代が来るぜこりゃ」
「携帯電話で十分だろ」
そんな会話をしながらコインランドリーへ、洗い上がった洗濯物を回収して帰路につく。
「明日から少し遠出する」
「お土産よろしく」
「なんでだよ」
「私と目貫さんの仲だろ? いってらっしゃいのチューでもするか?」
「冗談」
肩を小突かれて、千は知朱の頭を撫で振り払われた。
本当にキスされたら困るなと、千はぼんやりと考えた。知朱が男だった場合、後戻りが出来なくなりそうだ。
いや? 違うな。千は胸中で苦笑した。
知朱の性別なんてどっちでもいい。どっちにしろ、千の気持ちは変わらないからだ。
自分の部屋に戻った千は、冷蔵庫から発泡酒を取り出してプルタブを開け、海外製の舌がしびれるほど甘いチョコを肴に、飲みながら荷造りをする。
豆降という場所がどれほどの田舎かわからない。パソコンを立ち上げて乗車案内を確認、プリントする。
そのついでにエロサイトを巡回。家はいい。どれだけだらけても他人の目がない。
夕方の『アキナ』こと佐摩愁子を思い出し、水商売風の巨乳を探すが……微妙に食指が動かない。
「あ~あ。知朱いい匂いだったなぁ……」
別れ際に頭を撫でた手を嗅ぐが、当然自分の臭いしかしなかった。




