20211 ポロル
闇の駆逐は、人類の功績だった。
宵闇迫る湿地帯を小走りで走りながら、探偵目貫千はそんな事を考えて、自分らしくないと内心嗤った。
ハードボイルドの探偵はリアリストだ。時に詩的な事を口にする場合もあるだろう、しかし、それは本人の性質。少なくとも千のように血液の代わりに機械油の流れているような無骨なだけの冷血漢には無縁である。
2008年の豆降村でも思ったことであるが、人間の支配する地域というのは、思いの外狭い。
明かりの届く場所だけが人類の支配空間だ。それ以外はいまだ理の外にある。何があってもおかしくない。
…………M田の街の闇をさらってきた千は、その闇のドブこそが人の世界の外側だと信じてきた。
しかし、今なら分かる。それは嘘だ。あれは……あれすらも社会の一部だった。
社会から外れた存在が辿り着く先が、あの闇の底だと思っていたけれど。本当の闇はあの程度ではなかった。
本当の外側は、完全な虚無であった。僅かな距離すら見えない、自分の手すら確認できないほどの空間だった。
千が網を張っていた場所は、まだ社会の内側だった。その最後の一歩を踏み越えてしまったその先は…………完全に人類とは別の理の支配する空間だ。
現代のヤキトが『そちら側』だったかとうと、そんなことはない。まだ人間だった。しかし決定的に踏み越えようとしていた。
だから千はヤキトが嫌いだったし、そしてだからこそ…………。
「ヤキト!!」
左手にフラッシュライトを掲げて、千はそいつの名前を呼んだ。
ヤキトを嫌悪している。あんな奴は死ぬべきだと思っている。この気持ちに変化はない。だけれど、千は自問する。本当に、オレが唾棄するほどに嫌っているのは……。
「探偵」
「うおっ!?」
千は飛び上がった。『シャーク』が追い付いて来ていた。いつの間にか千は接近に気付かぬほどに考え込んでいて、足を止めていたようだった。
「…………その」
「待て」
千は深呼吸した。熱くなりすぎだ。なんであんな野郎のために冷静さを欠かねばならないんだ。冗談じゃない。
「すまん、落ち着いた」
「俺は話すのが得意ではないが……聞いてくれ探偵、ええと」
ゆっくりと言葉を選ぶ『シャーク』。千はじれったく思った。何故だ? 違うだろ? 千が焦る理由はない。ヤキトがワニに食われても知ったことではない。
「学生の頃から……違うな。子供に罪はないんだ」
「すっ飛ばし過ぎだろ『シャーク』……その子は死んだのか?」
「妻は、いや……女は生きてて、子供は流れた」
「お人好しめ、その女には見る目がなかったな」
これまでの『シャーク』の言動から、千は推測した。【望み】の話の時に、彼は子供のことを口走っていた。『俺の子じゃない』とも。
ヤキトの世話に積極的だったのも、赤ん坊についての知識も、罪悪感からのものだったのだろう。
申し訳ないが、よくある話だと千は思っていた。妻に他に男が居た。自分の子供じゃなかった。
「その子を助けたいのか?」
「できれば、最初から俺と結婚せずに好きな男と……」
「お人好しが過ぎる……本当に【狩人】か?」
『殺し奪うだけの才能を持つ百人』……『シャーク』も袖搦も小野も、優しく平和的な人間だ。
「…………俺の子じゃなくても」
「チッ」
千は舌打ちをした。この顔は、その相手の男を憎んでいるのだろう。文字とおり殺してやりたいほどに。
「オレはな『シャーク』。物わかりは悪いし、優しくもなれない。ヤキトを憎んでいる。
だが…………元のヤキトは死んだ。あれは違う子供だ。同じ顔で、同じ名前だから心が拒絶するんだ」
千は頭を振った。
「なら、まず見つけないと」
「あそこにいる、掛ける言葉がない」
千は、暗闇の中でヤキトを見つけていた。小さな岩に体を隠そうと身を縮めていた。ほとんどはみ出ていた。
「言うことは、決まっているだろう。俺にはできなかった」
「自分にできないことを他人にやらせるな」
ムッとしながらも千は覚悟を決めた。言わねばならない。
「悪かったヤキト……オレが言い過ぎた。お前は……その、間違えていない」
「愛しているって言ってやれ」
「冗談だろ?」
ハードボイルド探偵として、それは口が裂けても言えなかった。
だが、ひとつだけ言えることがあった。
「お前にひとつ、贈り物をしたい。俺たちの関係をより良くするために」
「…………ぁま」
千はゆっくりとヤキトに近付き、右手を差し出した。
「『ヤキト』は縁起の悪い名前だった。お前には相応しくない。新しい名前をやる。オレと、お前が助けたちどりと、『シャーク』で考えよう」
「『ポロル』というのはどうだ? ハワイ語で『槍』。平和、魔除け、良縁の象徴だ」
「……気が早いな」




