20012 川瀬夫人
川瀬夫人……正確には夫人ではなく、どこにでもいるような『不幸な家庭』の女だった。
中学生で反抗期の息子と、セックスレスでパチンコ狂いの夫。家では奴隷のように扱われ、パートタイムの職場では年下の正社員から罵られる。どこにも居場所のない、どこで何を間違えたのかもわからない。
川瀬氏は職場の上司。大体同じ。たぶん浮気をしている妻、夜遊びを覚えた高校生の娘。大学を卒業してからこちら、会社に二十年も尽くしているのに、部長に嫌われて主任止まり。
「お前が誰にも受け入れられないのは、その見栄っ張りと知ったかぶりだよ。川瀬氏は自分を見てくれる女なら誰でもいい。そういう話さ」
「うぅぅぅぅ……」
「目貫の旦那、もう少しその、手心というか……」
千は川瀬夫人を嘲笑わなかった。ただ、事実として突き付けた。それは自分自身にも突き刺さる言葉だが、そんなことは理解していた。理解していても、省みれるかは別問題だ。
見栄をなくして、ハードボイルドに生きるのを諦めて、それで私立探偵だなんて言えるか? 知朱に胸を張れるのか?
川瀬氏の傷は致命的ではないが、数か所を枝やガラスで切っている。失血量が多く、動くのは難しかろう。目貫千は極めつけに残念だった。成人男性を抱えて登山とか、どんな苦行だ?
ハンカチやネクタイを総動員して傷口を縛る。清潔な水も消毒液もないので、今はこれが精いっぱい。
コロナショック以降は、アルコールや消毒ウェットティッシュを持ち歩く人も増えたが、それは十二年も先の話である。
「二つ言っておくが、オレは正義の味方じゃない。どちらかといえば悪党寄りだ。積極的な殺しを好まないだけで勘違いをするな。
もう一つ、ヤオが言い残した二つの忠告の一つを、川瀬氏によって破っていることを忘れるな」
「二つの忠告?」
「『白くて動くものを見かけたら逃げろ』『自分の命を最優先にしろ』か」
『アナグマ』が川瀬氏を見下ろしながら言った。青ざめる夫人。
「お、お荷物だとそう言うの?」
「言ってるんだ。危険な野生動物だか、妖怪だかが出るらしい。獣の臭いがしたら気をつけろとも」
「血の臭いをプンプンさせてるは危険でやすねぇ……置いていくんで?」
意識を失った川瀬氏を担げるのは千だけだ。他の三人では、二人掛かりでも難しかろう。
ここまで千はいわゆるファイアーマンズキャリー、肩に乗せるようにして運んできた。この方法なら背負えるし歩けるが、咄嗟の対処は難しい。
「俺ぁ置いていくべきだと思うぜ、少なくとも『獣』とやらはまずそいつを狙う」
「置いていくなら、ライトも置いていきやす」
「……いいの?」
美咲の言葉を勘違いした夫人が、縋るような視線を向ける。残念ながら勘違いだ。
ライトは、完全に囮だ。本当に存在するのかもわからないような怪物よりも確実な脅威、ヤキトに対する。
あの粗暴な強姦魔が追いかけてくるとしたら、その目印はフラッシュライトである。
であるならば、川瀬氏と一緒に置き去りにすれば、運が良ければヤキトと『獣』が鉢合わせになる。
「そもそも置いていかない。可能な限り連れていく」
千は川瀬氏を抱えなおした。このままバスの通った破壊跡を辿れば、舗装された道に出る。そこまでの我慢だ。
何度でも言うが千は正義の味方でも何でもない。むしろアウトローだ。川瀬氏を助ける理由もない。一同を促し、再び歩き出す。
「『施設』に着いたら色々便宜を図れる人間を紹介しろ。命の恩人のために。それでオレの探し人も美咲の探し人も見つかる。それと美咲、『河童』の宿敵はなんだ?」
「ええ? 猿とは仲が悪いらしいでやすが…………」
「そうなの?」
猿は日本では強い魔除け効果を持つ動物として信仰されている。桃太郎のお供としても有名だがそれだけではない。
「猿は『魔去る』で『勝る』の語呂合わせの上に、十二支の『申』は『縁』と同じ『えん』読みなので」
「ダジャレか?」
「語呂合わせと韻は、魔術的に大事なんでやす」
千は『豆降』についての美咲の説明を思い出した。
あの時も豆は『魔滅』がどうのと言っていた。
「一応『河童』除けには鹿角のお守りが効くとされとりやす。でもそもそも鹿はタケミカヅチ神の御使いなんで、並大抵の怪異は手も足も出ないんでやすが」
「あの白い女は『河童』を敵と呼んでいた……すると、あいつは『天狗』よりも猿の怪異なのかもな」
鹿がいるなら奈良県だろう少しばかり距離がある。いや、N県も山中に鹿くらいいるかもしれないが。
「…………目貫の旦那、念のため言っておきやすが、あっしの言葉の全部を信じちゃなりやせんぜ?」
「名前とかか?」
「名前?」
不思議そうに首をかしげる美咲。千は問いただしたい気持ちを抑えた。
今のタイミングで尻尾を出さないならどうすることもできない。
バスでの態度は何だったのか。名前を呼んだ時の反応もおかしかった。しかし、ここでとぼけられたらこれ以上は何も言えない。
「あっしの知識は神話や民俗学由来のものでやす。『地域ごとに名前が違うが本当は同じ怪異』ってのと同じように、『同じものだと思われているけど違う怪異』ってのもありえやす」
「…………なるほど、あの女が『河童』と呼んでも、伝承上の『河童』とは限らないってことか」
「へい」
であるならば、対処法もわからないし、ヤオの正体もわからないということか。
千は小さく息を吐き……顔を上げた。
風に乗ってかすかな悪臭が……一週間以上風呂に入っていないような、据えた匂いが漂ってきた。
「全員走れ!!」
恐らく、これが『獣』の臭いだ。




