20010 二つの忠告
「や、ヤキトさん!? ヤキトさん!!」
「アンタ、今とどめを……」
「別に玉を潰そうとしていただけですけどー?」
金的蹴り上げから足を上げる流れが滑らかすぎた。あと一歩でヤキトは男として大事なものを失っていただろう。
探偵、目貫千は、『アナグマ』という小男と目を合わせた。今この場を支配しているのは白い女ヤオだ。
「『アナグマ』」
「降参だ」
自己保身のためにヤキトの手下になり、嫌々ながらも千をバスごと亡き者にせんとした小男は、悪びれもせずに両手を上げた。
「目貫って言ったか? どうするんだ?」
「怪我人を連れて山を下りる」
「いい判断です」
ヤオが頷く。
「二つだけ忠告しておきます『白くて動くものを見かけたら逃げろ』『自分の命を最優先にしろ』」
「……熊でも出るんで?」
「もっと危険なものが」
『アナグマ』の冗談めかした言葉に、ヤオは一瞬考え込む。
ヤオを近くで見て、千は少し意外に思った。こういう女は、なんというか……もっと神秘的な美女だと思っていた。
しかし、丸顔で目は小さく化粧気皆無。凶悪極まる挙動と派手な白い髪に反して、顔立ちは驚くほどに地味だったのだ。
ただその顔の下のバストは逆に、下品な程に大きかった。緩やかなワンピースによって身体のラインのほとんどが隠されている中、胸部だけが布を押し上げてベルトで強調されている。
このワンピースは人間を油断させるための装備だ。
ヤオの肉体は恐らく限界まで鍛え抜かれている。胸にだけ視線を集めることでそれ以外を隠しているのだ。
「気になります?」
「十代にしか見えん。肌質もいい。だが……その鍛え方は何だ? あれをガキとよんでいたな」
千は誤魔化しではなく本気でそう尋ねた。もちろんそのバストは気になる。しかし、それ以上にこの危険な香りのする女が何なのか気になっていた。
「ふふっ……本音は隠して細かいところばかり、さすがは探偵さんだ」
「オレを知っているような口ぶりも癇に障る。なんなんだ?」
手荷物はバスの中に置いてきてしまった。千が身に着けている武器は、折り畳んだ携帯電話程度しかない。
携帯電話は、素人にとって素手で殴るより有効な武器だ。しかし、ヤオの相手をするには心もとない。
「警戒なさらないで、あたしは見ての通りのか弱い……笑うな。なんにせよ敵じゃない。
少なくとも、積極的に人間を狩ろうとは思っておりませんので」
ヤキトを一瞬で叩きのめした女がか弱くてたまるものか。
千と『アナグマ』の意見は一致していた。
「…………物事には順序があります。少なくとも探偵さん『三度目』が終わるまでは説明できません。それはあたしの命運……強いてはこの世界に関わる事柄だからです」
「『三度目』? 『世界』?」
何もわからない。しかし、千は異様な物事を目撃していた。
あの『白い奴』を直視した三十女は自分が死ぬ瞬間までぼんやりとしていた。知性、あるいは意志というものをまるっきり失っていた。
『人知の及ばない何か』が存在するという可能性は、すんなりと受け入れられた。
それもそのはず、千は本の一か月前に現実を超越した事件に巻き込まれ…………あっさりと、途中退場した経験があったからだ。
千は『それ』を悪夢の一種だと考え思考を放棄していた。
だが、『あれが現実であったのなら』。
『目を合わせるだけで精神を破壊される存在』も『異様な若さの練達の戦士』も。
現実として受け入れる他ない。
「なんでもいいが、危険について教えてくれ。ヤキトが目を覚ましたら危険だ」
「…………そうですね。獣の臭いに気を付けて。『ムジナ』が出ます」
「『ムジナ』?」
千は『アナグマ』を見た。『ムジナ』……そういえば聞き流していたが、定食屋の親父もそんな事を言っていた気がする。そして、記憶違いでなければ、『ムジナ』はアナグマやタヌキの別名だったのでは?
「おい、それは……」
「待て」
ヤオが目を閉じて顎を上げた。耳を澄ます、千には聞こえない音に。
「あたしは自分の役目があります。危険を見つけ次第対処はするけれど……あなたたちも気を付けなさい」
言うなり、反転して飛んだ。
それはまさに跳躍ではなく飛翔であった。
一瞬で木の上まで飛び上がり、何かを追いかけて風のように行ってしまう。
千と『アナグマ』は呆然とそれを見上げて、しかしチンピラに声かけを続けられているヤキトが呻いたのを聞いてすぐに動いた。
「逃げるぞ」
「それがいい……所で、美咲はどうした?」
ヤオがいた間、恐らくはその前から姿が見えない。
千は男を担ぎ上げた。『アナグマ』は小柄で見るからに非力だ。大人を抱えるのは難しいだろう。
「えっへっへ、目貫の旦那。こっち、こっちでやんすよ」
木の陰から、四十女と一緒に現れる美咲。ヤキトたちが千とバスに夢中な内に隠れていたのだろう。ちゃっかりした女だ。
「美咲、照らせ。奥さんは歩けるな? よし、ヤキトたちから距離をとる。『アナグマ』は周囲を警戒してくれ。山を降りるぞ」
とりあえず、千はバスの来た方向を指さした。木の破砕跡が連なっている。こちらに向かえば山道に戻れるはずだ。
「あの……たぶん社殿の方が近いわ」
「なら任せる」
四十女の案内が当てになるとは思えなかった。
七月の午後七時はまだまだ明るいものであるが……鬱蒼とした、雑木林は恐ろしく暗かった。
まるで千たちの未来のように。




