20000 私立探偵、目貫千
「トリックそのものは単純明快だ。古典的な、糸を使うやり方さ。『あの部屋の窓はガタつきがあり完全には閉まらない』。すき間風の話があったろう?
この『凧糸』を使って窓をロックし、隙間から回収するだけ……ほら、誰でも出来る」
ロッジの談話室に集まった七人の男女。ひときわ背の高い無精髭の男が、気怠そうに説明する。
七人の間には今にも切れそうな緊張感が張り詰めている。一堂、会話の内容次第では、誰が何をするか分からないといった面持ち。
「面白い推理だったわ探偵さん。でも、今言った通りよね? 誰にでも出来る。誰でも準備できて、誰でも回収できる。ならば私である必要はないわ。
当然その売女でも出来たはず! 違う!?」
無精髭の男、探偵と呼ばれた男に詰められているのは、二十代後半の女だ。化粧っ気が少なく、主婦のように見える。それでも、身に沁みついた色気と美しさは損なわれない。
主婦は極めて、極めつけに不機嫌に、しかし嗤いながら探偵の推理を否定する。
彼女が指さしたのはガタガタ震える水商売風の若い女だ。売女扱いとは酷い言い草であるが、むべなるかな。
水商売女は主婦の夫の浮気相手であり、そして何よりも、この事件の容疑者であった。
登山が趣味の夫が、登山に出ると見せかけて麓のロッジで浮気相手と逢瀬を愉しむ。
馬鹿げた火遊びだ。そして、その火遊びの対価は彼の命であり、巻き込まれた不幸な男こそが探偵であった。
「お言葉ですがね奥さん。彼女にそんな知恵があったらもっと上手くやりますよ。
少なくとも、合鍵を持っていることなんて明かすはずもない」
被害者、浮気者の馬鹿な男。
薬を飲まされ部屋で朦朧としていた所をメッタ刺しにされた。
返り血は毛布に染み込み、犯人は手を洗う程度で痕跡を消せた。
こんなに美人でセクシーな奥さんがいるのに浮気なんてするからだ。モテ野郎が。クソが。探偵は顔色を変えずに心中で悪し様に罵った。
「じ、自分の嫌疑を逸らすために糸のトリックを用意したんじゃないの……?」
「ちなみに『この凧糸』を『どこ』で拾ったのか説明したかな?」
他の四人、運の無い客と従業員三人が頭を振る。
「この談話室に落ちていたんじゃないの?」
「そ、それはアタシが……!」
水商売の女が焦った声をあげる。
「そう『彼女が拾い、ゴミ箱に捨てようとした』こんな馬鹿げたことをする犯人がいるものかよ。
ロッジの周辺は、他でもないオレ自身によって見張られていた。他に出入りできるものはいない」
鍵のかかった部屋という物理的密室と、探偵の目という視認的密室。
この事件は二つの密室の中で起きていた。
「ぐぐぐ……探偵さん、あなたは私に雇われてるんでしょ!?」
「オレが雇われたのは浮気調査と、張り込みだ。殺人の舞台装置なんざゴメンだね」
探偵は鼻で笑う。そもそも、こんな名探偵の真似事もゴメンだった。
浮気捜査と人探しが得意なハードボイルド私立探偵。それが理想なのに。いや、マジで冗談じゃない。もっと地味なドブさらいみたいな仕事こそが望みなのだ。
「この『二重の密室』を切り崩したのは他でもない。
『陥れる相手が想像以上にバカで幸運だった』これに尽きる……まだ何かありますかい、奥さん」
「…………無いわ。クソッ」
大きく息を吐き、談話室のソファに乱暴に腰掛ける主婦。そのポケットで、携帯電話が鳴る。
気まずい空気の中で、鳴り響く着信音。
「出ても構わないかしら?」
「もちろん。警察が来るまでリラックスして過ごしゃいい……飲み物を頼めるか? 火傷するほど熱くて、死ぬほど苦いコーヒーがいい」
「た、ただいま!」
慌てて厨房に走る従業員。探偵は主婦の前の席に陣取り、ポケットからホープを取り出す。しかし別の従業員に張り紙の『禁煙』を指さされて舌打ち。
本当はコーヒーもミルクと砂糖たっぷりで、なんならホイップクリームとハチミツもかけて欲しいくらいなのだが、格好がつかないので黙っておく。
「探偵さん……あなたに代わってって」
主婦から差し出されたパールホワイトの携帯電話を、探偵は面倒くさそうに受け取った。
『ヤア探偵サン、ご活躍デシタね』
「やはりお前か『蜘蛛野郎』……これみよがしな糸のトリック。今日日あんなカビ臭いの誰がやるものかよ」
受話器から聞こえてきたのはボイスチェンジャーで歪められた、奇妙に高い声。
『ダカラこそ盲点とナリ、ダカラこそ新しい……ソレとワタシは『パペッティア』。
蜘蛛野郎ナドと風情のナイ呼び名はヤメテ頂きタイ』
「黙れよ、犯罪教唆のストーカー。オレに用があるなら正面から来い」
『ヒドイなあ、ワタシはコンナにも探偵サンを愛しているノニ』
クスクスと笑う『パペッティア』。ボイスチェンジャーで歪んだ甲高い音が耳に障る。
「そこまで言うなら面見せな。都合のいい日を教えろよ、美味い店知ってるんだ。デートしようぜ」
『留置場デスかな? ゴ冗談ヲ。ワタシたちのデートは『コレ』デショウに』
「それが迷惑だから誘ってるんだろ?」
探偵は鼻を鳴らして受話器を押し返した。ジッポライターを取り出し、『禁煙』の張り紙を再度叩かれ、苛立ったように内ポケットに放り込んだ。
全く本当に腹が立つ! 名探偵ごっこも、迂遠なパペッティアも、女にモテない自分も、この後待つ警察への説明も、タバコの高騰も、禁煙の風潮も!!
これが、探偵目貫千と、その宿敵、連続教唆犯『パペッティア』の最後の事件となる。
この後、探偵は人探しの依頼を受け、薄暗く排他的な村と、そこを支配する邪悪と対峙せねばならない。
村の名は『豆降村』。
この年の十二月に、新興宗教『獅子堂会』信者と警察の、凄惨な殺し合いの約束された場所。
しかし、探偵はそこに立ち会うことなく不慮の死を遂げる。これは定められた運命である。
これは、彼が死に至るまでの物語。
武器を取れ、ドラゴンを殺す
第二部 『補欠の僕らも星を見る』
序章―――2008年の暗夜行




