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街灯の下で

作者: 斉藤潤

信男は50歳を過ぎた独り身の男である。

長く勤めた工場を辞めて以来、決まった仕事もない。日々を路肩で過ごしている。

身なりはさほど気にせず、口数も少ない。

街の片隅に紛れ込むようにして存在している。

昼間は通りを眺め、夜は街灯の下で足を止める。

誰に呼ばれるでもなく、誰に見られるでもない。

ただそこに在る。

人々の視界の端に映りながらも、記憶には残らない存在

それが信男だった。

9月の残暑が木々を照らす中で、信男は路肩に腰を下ろしていた。

陽射しは真夏ほどの鋭さを失いながらも、アスファルトにはまだ白い光が滲み、むっとした熱気を吐き出している。通りを渡る風は湿り気を帯び、遠くで工事の打ち込む音が乾いた空に響いていた。


信号待ちの列からは、子どもの笑い声や、誰かの靴底が規則的に地面を叩く音が混ざって流れてくる。路肩に沿って伸びる木々は、葉の端を黄ばませながらも、なお濃い影を舗道に落としていた。


その影の片隅に、信男は静かに座っていた。



やがて太陽はゆっくりと傾き、影の角度を変えていく。木々の葉は橙色を帯び、舗道の上に伸びた影は長く細く引き延ばされた。アスファルトの熱はやわらぎ、かわりに冷たい湿り気がじわりと漂い始める。


街灯がひとつ、またひとつと点り、光と影の境界があいまいになっていく。

その時、風がひときわ強く吹き抜け、歩道の銀杏の葉を大きく巻き上げた。黄色とも褐色ともつかない葉が、渦を描くように空中を舞い、やがてそのうちの一枚が信男の肩に静かに落ちた。


彼はそれを払おうともせず、ただじっと座っていた。葉はしばらく震え、やがて滑り落ちてアスファルトに貼りついた。


通り過ぎる人々はその光景に気づくことなく、夕餉を急ぐ足音だけが規則的に遠ざかっていった。


その後街灯の1本が、不意にちらつき始めた。オレンジの光は何度も消えては戻り、路肩に腰を下ろす信男の影を長く伸ばしたかと思えば、次の瞬間には完全に消し去ってしまう。


影の輪郭が揺れるたびに、彼の存在そのものがこの街の景色から削り取られていくようだった。

通りを行き交う人々は足早に通り過ぎ、誰ひとりとして足を止めない。


やがて街灯の光は安定し、薄闇の中に信男の影がふたたび定まった。だがその輪郭は、先ほどよりもいっそう淡く見えた。


街灯の光はやがて落ち着きを取り戻し、通りは橙色の均一な明かりに包まれた。だがその明かりが届かぬ路肩の隅では、影が重なり合い、闇がじわじわと濃さを増していく。


風は昼間より冷たさを帯び、遠くの空には一番星が滲むように浮かんでいた。舗道を行く人々の数は減り、聞こえるのはたまに通り過ぎる車のタイヤが雨粒のような音を立てるだけだった。


夜は、街全体を覆い尽くすために歩みを進めている。その流れの中で、信男の姿は路肩にじっと留まりながらも、少しずつ風景に溶け込み、やがて誰の記憶にも残らないものになろうとしていた。


夜はすでに街全体を覆い、街灯の明かりさえも遠く霞んで見えた。舗道に散らばる落ち葉は、踏まれることもなく冷たい風に揺れ、時折かさりと乾いた音を立てるだけだった。


路肩に腰を下ろした信男の姿も、その風景の一部に埋もれていった。オレンジ色の光が彼の影をわずかに形づくっては、すぐに闇に塗りつぶす。誰の目にも映らぬまま、その輪郭は薄れ、やがて夜そのものに吸い込まれていくようだった。


ただ、通り過ぎる風だけが、そこに誰かがいた気配を短く揺らして残していった。


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