第十三話
人生とは正に数奇な運命の巡り合わせだ。たまたま出会った人間が自分の運命を大きく好転させる事だってあるし、従来の仲の良かった人間が実は自分の運命を狂わせている原因だったりもする。
去る者追わずな精神は実はとても正しくて、離れて行く者にはそれ相応の理由がある。運命がその人からの学びは終わったんだよと告げている証で、だけど俺達はどうしてもそれが出来なくてついつい追い掛けてしまいたくなる。見捨てないで置いて行かないで一人ぼっちは嫌だよと泣き叫んで縋り付きたくなる。
星の数ほどいるなんて言ったら大袈裟かもしれないけれど、数多といるVtuberの中から彼女に出会えたのも、これもまた数奇な運命の巡り合わせだ。
生きる希望を貰って結局投げ出してしまった俺はかなりの馬鹿だけど、そんな馬鹿な俺だからこそ今の彼女を助けたいって本気で思うんだ。
会社で傷付いて落ち込む宮子に出会したのはこの1ヶ月で何度あった事だろう…バイト帰りにベンチに座ってぼんやりと月を見上げる俺と彼女が出会ったのは一度や二度じゃない。勿論本当に公園に引っ越しなんてしてないし、ただ何となく夜空を見上げて星の数ほどある出会いと別れに想いを馳せるのが日課となっていただけだ。
俺が見捨てた形になった後輩は今頃元気にしてるのだろうかとか、あのクソババアも相変わらず元気にお局してるのだろうかとか、捨てて来てしまった世界を雲の流れに沿って描いてた。
金がない俺の為にいつも夕飯を二人分用意してくれていた宮子はさながら聖母マリアと言った所だろうか、昼は賄い飯を御馳走になりながら何とか生き延びたこの1ヶ月のサバイバル生活の先にあるのは、今日この金を支払ってしまえばまたその延長戦が待っている。
「ああ…緊張します。心臓バックバクです……」
「会うのは初めてじゃ無いんだろう?」
「それでもあの人に、あの宝生院花月様に会うのはとても緊張するのです……」
「すげえ名前だな……」
「凄いのは名前だけじゃないんですよ……」
宮子の部屋で二人仲良く卓袱台の前で正座する俺達の視線の先には、ついこないだ支給されたばかりの給料が入った茶封筒がある。勿論、残り少ない余剰金を引き抜いて10万円ピッタシに揃えてあるが、出来るなら今すぐその封筒を手に取ってこの場からトンズラしたい。
「やっぱり…私が出しましょうか……?」
「いいや男に二言はねえ。俺が招いた種だ。自分の尻は自分で拭く!それに宮子は新しく追加でwebカメラやマイク、パソコンまで買って貯金も底を付いたんだろう?これ以上お前に迷惑かける訳にはいかない」
「まだ両親が貯めてくれた結婚資金がありますから…それにそれを言うなら『女には二言はないから』の方が正しいと思いますよ…?」
───そう、俺はまたしても自分の認識の甘さを痛感させられていた。日増しになんだか宮子の部屋の隅の簡易防音室の隣に同じような機材が揃えられて行くなあとは思って見てた。新しく設置された机の上に増えていくパソコンやマイク達を「何に使うんだろう?配信の幅を広げたいのかなあ」なんてぼんやり他人事のように眺めていた。
それがまさか俺と配信を行う為にそんな機材を揃えていたとは露知らず「夢さんと二人で配信をする環境がやっと整いました。ざっと30万円ぐらいです。これで貯めていた貯金はほぼ使いきりました」と、全ての準備が整った今日この日に笑顔で教えられ驚愕と同時に絶望した。
俺はマジでいったい何をやってるんだと。何一つ彼女の助けになるような事はしていないじゃないかと。お前がしたのはタダ飯を喰らって彼女の婚期を遅らせるような酷い行いだけだったじゃないかと…海底よりも深くブラジルよりも下に反省した。
「少しずつ金は返す。月五万ぐらいずつが限界だけど、だけど必ず返すから…だから、頼むから結婚は諦めないでくれ……」
「元より相手がいませんから諦めるも何もないですよ…希望がなければ絶望は襲ってきませんので……」
遠い目をする宮子に更に良心が咎められる。それを諦めと言うのでは?等と、軽くツッコミを入れられたらどんなに俺の心臓は楽だろうか、キリキリと傷む十二指腸は「お前が貰ってやれよ」と訴えてくる。「同性なんだし出来る訳ねえだろバカヤロウ」と反論するがそんな俺に対して彼等はまたキリキリキリキリとブーイングの声を増加させるのだった。
黒で統一された綺麗な配信台はまるで俺への棺のようだ。これから向かう先は天国か地獄か、それは正しく神のみぞ知るといった所だろう。
「夢さん…黒好きでしたよね?」
「ああ勿論、大好きだ」
並んだ新しい簡易防音室を見ながら宮子がそんな事を言ってくる。勿論俺はそんな事は一度も話した覚えがないのだが、ほぼ黒で統一された自分の普段着を想像して、笑顔でそう答えるしか道はなかった。
▼
チッ、チッ、チッ、チッ……
「随分遅いですね……」
「自分から呼び出した癖に遅れるなんて良い度胸してるよな」
絵を担当した人物には一度でも顔を合わせないと気が済まないという変わった神絵師の要望により、俺もバイトが休みな日曜日である今日を指定して会う約束を交わしていた。
時刻は11時を回っており、かれこれ約束されていた時刻から1時間は経っている。時計の針を刻む音が部屋に強く響き渡るほど会話も少なくなった俺達は、すっかり足を崩して冷めた珈琲を飲んでいた。
宮子が恐れる宝生院花月という女性はいったいどんな人物なのだろうか、届いたDMからぼんやりと想像出来る姿は、どうにも高飛車なイメージを崩せなかった。
「…あの、夢さん……私ちょっとお花を積みに行ってきますね」
「……ああトイレか、さっきから行きたそうにしてたもんな、膀胱炎になる前に早く行った方が良いと思うぞ?」
「折角オブラートに包んだのに、それをわざわざ破らないで下さい!貴女にはデリカシーって概念がないんですかっ!?」
飲んでた珈琲の利尿作用が恐らく効いたのだろう。数分前からモジモジしていた宮子は何となくそうじゃないかなと予想していたが、案の定、強めにそう言い残して駆け足でトイレへと向かって行った。
「我慢なんかしても何も良い事ないのにな……」
律儀にいつ来ても良いようにと待ち構える姿勢は立派ではあるが、病気になってしまっては元も子もない。
彼女の長い社畜人生で培ったであろう身を犠牲にして物事を達成するという手段は、やっぱり誉められた行為ではなくて、一瞬の達成感の為に先の人生を蔑ろにするという考えは本当にそろそろ捨てて欲しかった。
今だって自分が必死に稼いで貯めたお金を俺なんかの為に使ってしまっている。何も言わず微笑んで配信機材を用意し、いつも夕食を御馳走してくれていた宮子は聖母マリアも真っ青の聖女であった。
黙ってコツコツ用意した配信場所は棺だなんて比喩したけれど、十字架と称した方が正しいかも知れない。両手両足を釘で打たれ、逃げられなくなった俺はかのキリストも呆れる程の七つの大罪を犯した罪人なのだ。
傲慢に他人を罵り、貪欲に彼女を鼓舞した。邪淫に彼女を崇拝し、憤怒で後先考えぬ行動を起こした。貪食で昼間から酒を飲み、嫉妬で後輩を羨んだ。怠惰で仕事をこなし最後は人生から逃げ出した。
ああ主よ、どうかこの罪深き俺を赦してはくれないだろうか?この先の運命は全て彼女の為に捧ぐと誓うし、持てる力の全てを利用して扉の先へ宮子を誘う事を誓うから……
ピンポーン……
「うおっマヂか?何ていうタイミングの悪さだよ…」
ガタッガタタッ……!
「ゆ、夢さんっ、すみませんが代わりに出て頂けますかっ!?」
運悪く宮子がお花を積みに行っているタイミングで鳴らされた来客を告げるベルは静かな部屋に均等に響き渡る。小さな個室からはそんな彼女の慌てた声が聞こえてきて、仕方ないかと立ち上がった俺はそのまま真っ直ぐ玄関まで歩き進めた。
ガチャリ……
「はいはーい、どうぞー」
「…遅れて申し訳なかったわね。昨夜遅くまで別の依頼されたイラストを描いていて、そのまま気絶してうっかり約束の時間過ぎまで机で眠ってしまっていた…の……よ……?」
扉を開けて現れた女性は想像通りの高飛車な見た目と口調だった。大きめのサングラスをし、金色に染められた髪を縦に巻き、背は俺や宮子よりもだいぶ低いものの、その威風堂々たる姿は身長なんて関係無しにとてもとても大きく見えた。
「私の…ベルベット……私の想像通りのベルベット……コスプレなんてまがい物じゃない正真正銘の私の可愛いベルベットローズガーデン……何で?どうして?」
「……あ、あの…宝生院花月さんですよね?俺が今回貴女がイラストを手掛けて下さった彼女の姉なのですが……って聞いてますか?」
「生きてる動いてる喋ってる。これは現実?いいえそれともまだ夢の中?ああ…夢だとしたらどうかこのまま一生醒めないでちょうだい……」
黒のゴスロリ衣装を着て黒いレースの日傘を差した宝生院花月はサングラスをずり下げて、青いカラコンをした目を見開いて驚いている。彼女がイラストを手掛けたベルベットローズガーデンの容姿をした俺を見て、ティーシャツにジーンズとラフなやっすい服装で出た俺を見てただ呆然と……
ガタタッガタタッ……
「ゆっ……お、お姉ちゃん!もしかしてそのまま出ちゃったんですかっ!??」
恐らくトイレで静かに聞き耳を立てていた宮子の慌てふためく声が聞こえてくる。ふと後ろを振り返れば、テーブルの上に会う時は必ず掛けるようにと仰せつかっていた俺のサングラスが…約束を果たせず1人寂しそうに佇んでいた。