第十話
彼女は泣く。大塚宮子は泣いている。俺の胸で、今度は正面から抱き締められて、この前よりやや欠けた月に照らされながら星も少ない夜空の下で、ベルベットローズガーデンは泣きながらこれまでの辛い思いを曝け出した。
「ラーメン…臭くねえか?」
「……柔軟剤の香りしかしません」
Vtuberを目指す動機は皆に幸せを届けたいから、そんな優しい気持ちだけで世界を生きれるならどんなに幸せだろうか…
辛い現実から逃げ出したいのは彼女も一緒だった。キッカケはまた別かも知れないけど、増えた登録者を見てその先の未来を思い描いてしまうと彼女は泣いた…
「幸せになりたいです…私も……」
呟いた彼女に返す言葉は決まっている。恥も外聞もいらない、俺が今この世界に生きるのは君を守る為なのだから……
「好きに使えよこんな命で良かったらさ」
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「取り敢えず採用という事にしといてやる」
「いいのか?」
「職歴なし家族構成も不明、これまでの生い立ちも全てが謎…そんなお前さんを雇えるのはウチくらいのもんじゃろうて」
1通りの質疑応答を得て、どうにか面接を通過した俺は晴れてニートから脱却する事に成功した。これといって自分自身に使う金は必要ないし、何か欲しい物がある訳でもない。家賃と光熱費と食費に使う金があればそれでいい。そんな無私無欲な考えであるが、他人に貢献したいだとか社会の役に立ちたいだとか、そんな崇高な考えがある訳ではない。
単純に、今の人生は明日生きてる事さえ怪しいからだ。今日を生きたとして、なら明日は?俺は目覚めたらまたこの身体で呼吸をしているのだろうか?宮子の隣で笑っていられるのだろうか?…意味不明なこの現状はただ彼女の為にだけ存在していると言っても過言ではなかった。
「……またラーメンだけ頼んでも良いかな?」
「なんじゃ今日は飲まんのか?」
「生憎と金が無くてね、今日を生き長らえたとしても明日はどうなるか分からねえ…生きていたとしたら金が必要になる。だから今はバイト代が入るまで節約しなきゃならねえんだ」
「……この食料飽和の時代に戦時中のような事をぬかしおる。まるで何処ぞの貧民街から抜け出して来たような台詞じゃわい。…仕方ない、ツケにしといてやるから今日はたらふく食うがええ」
「マジか……?」
「ただし、アルコールは出さんがな。平日の昼前から酒なぞ出した日には、流石に世のあくせく働く男達に立つ瀬が立たんわい」
「……男女雇用機会均等法に触れそうな台詞だな、女性だって家事をこなしたりして立派に働いてると思うが?」
「そんな事は重々承知しておる。彼女達だって立派に頑張っておる事ぐらいな、たんなる言葉の綾じゃ変な所に突っ掛かるでない」
ポンポン弾む会話は、まるで昔ながらの知り合いのようで、歯に衣着せぬ遣り取りは知らない誰かが見たら親子だと勘違いしてしまうかも知れない。
「悪かったよ…取り敢えずラーメンでも何でも良いから作ってくれねえかな?昨日の朝以来なにも食べてなくて腹が減って死にそうなんだ……」
「本当にこの時代の人間か、お主?」
「さてね……案外、未来から来た人間なのかも知れねえな」
2.5次元から飛び出した容姿の俺は、未来人だと比喩しても過言ではないかも知れない。梳かしてもいねえのにサラッサラな長い髪は手を通してみても何処にも引っ掛かりを覚えないし、そんな手も腕も足も全てがマネキン人形のような肌質で毛穴だって1つも見当たらない。呼吸をして言葉を発さなければ売り場に立っていても誰も怪しまないんじゃねえかなって思う。
「中身まで変わっておるか…本当に困った看板娘を雇う羽目になってしまったわい……」
帽子を外して頭をポリポリ搔く爺さんは結構禿げ上がっていた。その薄い頭髪を更に薄くさせる原因になるかも知れない俺は、ただただ苦笑いを浮かべるしかなかったのだ。
「変わり者を雇うアンタも結構変わり者だよ」
なんつって。
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ラーメン餃子に炒飯食べて幸福感に満たされた俺はたった1人で家路を歩く。時刻はまだ15時になる前で社会に勤める皆が午後の休憩を心待ちにしているそんな時だ。
長々と話し込んでしまって気付いたらこんな時間になっていた。バイトは明日から入る予定で、何もなければほぼ毎日あそこに通い詰める事になりそうだ。俺が店にいる間も殆ど誰も来店しなかったし、そんな暇な環境なら週5日の8時間労働も苦にならねえかなって思う。ジジイはいるけど煩いババアもいねえから気持ち的にはだいぶ楽だ。
未だ真上にある太陽はもう1時間もすれば建物の向こうへと沈んでしまう。都会みたいに建ち並ぶビルではないけれど、少し間隔を空けて建つビルがいい感じの距離感に思えて、それがかえって安心感を誘ってくる。
密集する人混みは距離は近いが心は遠く離れているように感じる。人間を見慣れすぎてしまった者達は行き交う人達の顔なんか覚えちゃいないだろう。スーツを着た人形がただ脇を通りすぎるだけ、自分と同じような感情を抱えて生きてるなんて考えもしない。
俺達はいつだって自分の事しか考えちゃいないし、自分が一番不幸だと思っている。接する相手が妻や子供、旦那や長年の友人であろうとも最優先事項は自分自身の幸せだ。
「あーあ、くっだらねー」
通り掛かった公園で、また何時かのようにベンチに座って空を見上げた。鳥はまだ哀愁を呼ぶ鳴き声を発さず大人しく電線に止まっている。
満腹になった俺はそのままゴロンと寝転がる。今は会社のデスクの前で心の中で1人泣いてる宮子が帰ってくるまでの間、また怪しい人物として近所の奥様方に噂されながら、身の危険も顧みずそのままグースカと太陽に当てられながら眠ってしまった。
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「……さんっ、ゆめ…さん。起きて下さい夢さんっ?!」
「…うん?あ、宮子か…おかえり~…」
ユサユサと肩を揺さぶられて優しい声で目を覚ます。目の前にはスーツ姿で会社帰りの宮子がいて、辺りはすっかり暗くなってビルの間に沈む大好きな夕陽を拝む事は出来なかった。
「おかえり~…じゃないですよっもう!どうしてこんな所で寝てるんですか?!どうしてこんな場所で眠ってられるんですか?!」
「太陽が気持ちよくてだな…つい、そのままウトウトと……」
「ああ成る程…って、そんな理由で納得すると思います!?仕事は?会社は?もしかして今の言い分だと昼間からここで寝ていたんですかっ!?」
「いんや3時は過ぎていたよ。仕事は今日決めてきた。『幸福来』っていう中華料理屋で明日からそこで接客係をする事になった。客も少ねえから半分はジジイの話相手だけどさ、時給も安いし小遣い稼ぎみたいなもんだ」
「……今までどうやって生きてきたんです?」
「さあねえ、俺が聞きたいくらいだ」
身体を起こした俺の横に溜め息吐いた宮子が力無く腰を落ち着ける。呆れて隣に座った彼女は初めて出会った時と同じ横顔で、だけど今日はあの日よりも元気が無く思えた。
「……いま何時だ?」
「19時25分です…バスから降りてぼーっとしながらアパートを目指して歩いてる途中で、自殺志願者みたいに無防備で寝ている夢さんを見つけました……」
「そうか…因みに何かあったのか……?」
「何もない1日などありません…ですが今日は色んな事が起こりすぎてて、感情がぐちゃぐちゃになっています……」
そう言って彼女は膝に乗せたバックからゆっくりとスマホを取り出した。細い指で綺麗な所作で操作された画面を暫しの間眺めてて「うわっ…また増えてる」と言った後、隣に座る俺にその画面を共有してきた。
「……Wのアカウント?1000人以上もフォロワーがいるのか、凄いじゃないか……」
「昨日までは100人ぐらいでした。今日の朝は500人、昼間は凡そ700人でした……」
よく耳にする「バズる」とかの現象なのだろうか、生憎と俺はそっちの世界には詳しくないから、それがどれだけ凄いことなのかよく分からない為、曖昧な返事しか出来なかった。
「……えーと、単純に注目されてるなら良かったんじゃないのか?」
「まあ…確かに喜ばしい事です。NouTubeのチャンネル登録者数も一気に2000人近くまで増えました…」
「一気にか?たった一晩で?何かあったのか?」
「何かあったに決まってるじゃないですか!そして私は何もしてないんですよ夢さん!昨日配信で皆の心に火を点けたのは私じゃない、私の歌じゃなくて夢さんの発言だったんですよ!」
「俺の……?」
急に真剣な顔で語りだした宮子は気のせいか目尻に涙を溜めている。相変わらずの庭園灯だけが頼りの場所で上手く全容は見えないが、眉間に皺を寄せながら話す彼女の手はきっと震えていた…
「1人の切り抜き師さんによって作られた動画が広く皆に拡散されたようなんです。見た人、聞いた人の胸を打つような台詞を放った夢さんの動画が広く皆に知れ渡って…1人また1人と、私達を応援してくれる人達の心を刺激して、焦りや不安を取り除いてくれるような、今からならまだ間に合うんじゃないかというような…あの夢さんの啖呵はそんな気分にさせてくれる動画として大勢の人に拡散されました……」
要約すると、俺のした公開説教が切り抜かれて拡散されたで合ってるだろうか?気が動転して震えて語る宮子の台詞はいまいち聞き取り辛くて分かり辛い部分があったが、恐らくはそういう解釈で間違いないだろうと思った。
「……喜んで良いのでしょうかね?私はこの現状を素直に受け入れて喜んで良いのでしょうか?私がしたかった事とはかけ離れた部分で注目を浴びてしまった。私自身の力じゃない、別な誰かの力で注目を浴びてしまった…夢さんの力で皆の注目を貰ってしまった……」
余計な事をしてしまったかも知れないと、ここにきて初めて昨夜の軽率な行動を反省する。ベルベットローズガーデンは歌うことが好きで、歌で皆に元気と勇気を与えたいと言っていた。例えどんなに少ない観衆だろうと、それが0になろうと歌で皆の心を癒したいと言っていたのだ…
「……でもね夢さん。私は…私は愚か者なんです」
「どうして……?」
「私は、私は馬鹿だからやっぱりこのチャンスを逃したくないって思ってしまっているんです。……仕事をする事は当然な事です。お金を稼がなければ私達は生きていけません。だから我慢して会社に行きます。だから我慢して上司に頭を下げます。だから我慢して同僚の嘘を笑って許してあげます。それで世界が優しく回るならそれで良いかって、自己犠牲しか武器がない私はいつもそうやって笑って自分を誤魔化して……ずっと世界を生きてきました」
溢れる涙を見るのはもう何度目だろうか、涙を溢れさせたのはもう何度目だろうか、君には笑ってて欲しいのに、どうしてか俺は出会ってからずっと泣かせる事ばかりしか出来ていない……
「皆が帰って1人残った事務所で、扉が開くような音が聞こえました。予想を遥かに超えて増えた登録者とフォロワー数を見て、ああこの窮屈な世界から抜け出せるかも知れないって…もしかしたら私にも毎日をずっと笑って過ごせる未来があるのかも知れないって…希望を……抱いても良いのかも知れないって…そう思ってしまったんです……」
「あるに決まってるだろう……」
躊躇いもなく抱き締める。彼女を抱き締めるのはこれが二度目で、泣く彼女を抱き締めるのはこれがもう最後で良い。次は笑って、互いに笑って、やった良かったって、幸せを掴んだ後に頭を撫でてやりたいもんだ……
「俺に出来る事があるなら何でも言ってくれ。乗り掛かった船だ。君が幸せを掴むまで好きに使ってくれて良い……」
「…そんな事は……」
「良いからやれ。思う存分やってやれ。そんで笑った上司や同僚に、もっと最高の笑顔を返してやれ。『今までお世話になりました!』って言える日が来るまで俺は側に居てやるからよ」
だから世界はくだらねえ。だから世界は好きになれねえ。ボロボロになって傷付かなきゃチャンスに巡り合う事も不可能なんて馬鹿げている。俺達一般市民はそうでもしなきゃ心から笑う事も許されねえなんて酷すぎる話だと思わねえか?
なあ、世界を作ったどっかの誰かさんよお?ピラミッドなんて要らねえから、まっさらな大地に俺達を立たせてくれよ?幸も不幸も、富裕も貧困も、全てを平等にしてよお?俺達は人生ゲームの棒人間じゃねえんだぞクソッタレ……
「バイト代が入ったらさ、ギターを買いに行くよ……」
「……弾けるんですか?」
「何年も弾いてねえし下手くそだけどな……」
利他主義な考えはどうやら俺もあまり変わらないみたいだった。