事件篇
三が日の最終日は、いつも羽を伸ばせていた。私は子ども達を連れて実家に帰っていた。
夫は自宅で、撮りだめていた映画を一気に見ている。子ども達は祖父母とテレビゲームの対戦をしている。私は、昔よく遊んでいた公園のベンチに腰かけ、好きな作家の短編集を読んで過ごすはずだった。
私の両手には、文庫本の代わりに、一枚の年賀はがきが乗っている。
「すみません」
顔を上げると、斜め前に男性が立っていた。おじいさん、というには、髪に黒い部分が残っていて声が若々しく、おじさん、というには、猫背ぎみで目の下にしわが刻まれていた。
「お隣、よろしいですか? 御婦人」
「ど……どうぞ」
私は急いで左に寄って、席を空けた。
「年の始めに、お綺麗な方に巡り会えるとは。ふふふ、いけませんね、妻に平手打ちされてしまいます」
これといった特徴のない主婦の私を、そんな風に褒めてくれる人がいることに、驚いた。最近夫にすら、ときめくような言葉をささやかれていない。
「しかし、浮かないお顔をされている。せっかくの美しさが曇っております。原因は、お持ちの年賀状ですか?」
「ええ……」
男性は年賀はがきをのぞき込もうとしたけれど、すぐに「失礼しました」と頭を下げた。
「名乗りがまだでしたね。私は、姥捨山銀次郎。お好きなように呼んでください」
渋くて、珍しい苗字。たぶん、忘れないと思う。
「さて、あなたは白紙の年賀状を前に、悩んでいらっしゃる。よろしければ、お話を聞かせていただけませんか?」
会ったばかりの姥捨山さんになら、言えそうだった。これは、身近な人には知られたくない。
「これは、高校で同じクラブだった人から届いたんです……」
姥捨山さんは、静かに私の瞳の奥を見つめていた。
私達は吹奏楽部でした。その子はクラリネットで、私はチューバを吹いていました。高音と低音、正反対なパートでしたし、同学年でもクラスは違っていましたが、選択授業が一緒で、話してみたら意外と気が合っていたんです。
その子はクラブ内で「みかん」のあだ名で呼ばれていました。私……ですか? 見た目そのままです。「くまちゃん」、体が大きいことをかわいらしく名付けただけです。よくいじられました。
みかんちゃんは私とは違って、皆に気に入られていました。ちょっとうっかりした所があって、そこが憎めなかったんでしょうね。合奏の時間なのに楽譜を忘れたり、リードを間違えてサックス用を買ってしまったりしていました。
そんなみかんちゃんと、同じ人を好きになってしまったんです。コーチとして来てくださっていた、部のOBです。楽器ができる年上の男性は、吹奏楽部の女子にとって、憧れの存在でした。
度胸のあるみかんちゃんは、コーチに思いを伝えました。でも、断られました。当時、お付き合いしている人がいたからです。結果をみかんちゃんから聞いて、私は……ショックでした。コーチに好きな人が既にいたこと、みかんちゃんの恋が破れたことなどが、私の頭をぐるぐる回っていました。
思えば、私はあの時から卑怯だったんです。
みかんちゃんと私は、別々の大学に進みました。そして、働き始め、先にみかんちゃんが結婚しました。職場の先輩だそうです。式に呼ばれました。十年ぐらい会っていなかったけれど、かわいいままでした。半年して、あの子に子どもが生まれ、仕事を辞めて、だんなさんの実家でみかん畑のお手伝いをしています。
あの子は幸せになれた。だから、次は私の番。
コーチの電話番号を、携帯の電話帳に残していたんです。運に任せて、かけてみました。つながった……! コーチは、私を覚えていてくれました。それとなく、お付き合いしている人とどうなったか聞きました。別れていて、今はひとり、だとお返事がありました。私は嬉しくてたまりませんでした。早速、コーチに、どこかへ遊びに行きませんかと持ちかけました。
はい。コーチは、私の夫です。待ち続けた甲斐がありました。
結婚式は、親族だけを呼びました。夫が、費用を安く抑えたかったからです。みかんちゃんには、手紙でさらっと近況を書きました。
きっとそれが、あの子を怒らせてしまったんです。
久々に届いた年賀状には、この通り、何も書いてありません。透かして見ても、メッセージは隠れていませんでした。
いいえ、何も書いていないことが、あの子のメッセージなのかもしれません。私がこうして悩み、みかんちゃんのことで頭をいっぱいにさせることが、ねらいではないでしょうか。姥捨山さん、相手が気持ちを言わないでいることが、どれだけ怖いか、分かってくださいますか。
「ありがとうございます。少なくとも、ご友人は怒っていらっしゃらないと思いますよ」
「どうしてですか」
姥捨山さんは、年賀状を指差した。
「憤りを覚えているのなら、わざわざはがきを送りません」
「じゃあ、あの子は私に何を伝えたかったんですか?」
「結論を焦って求めては、いけません」
落ち着いていられるのは、他人事だから? それとも…………。
「あなたの捨てた謎、拾ってみせましょう」
姥捨山さんは、怪しく微笑んだ。