文章力とは詐欺力である
「虚偽を真実であるかのように語る」という目的に於いて詐欺と小説は同質である。
世に多くある文章論はここを語らない。
ゆえに多くの作家志望の子たちは自分がよもや詐欺師を目指しているのだということに気づかず、「先生と尊称をつけて呼ばれるなんだかかっこいい職業」を目指してしまうわけだ。
この世にはそもそもが生まれついて詐欺師の才を持つものがごまんといる。
とはいっても、その才ある者がみんな詐欺師になるかというと、そういうことではない。逆に詐欺師であるのにこの才を一切持ち合わせないへっぽこもいるだろう。
ここで語ろうというのは実際に詐欺師になるかならないかという善悪の問題ではなく、ウソを真実であるかのように相手に『聞かせる』という才に注目した話である。
日常の中でこの才能の有無というのは「すみません、風邪をひいたので今日は休みます」と会社に電話をしたときに「あら、それは大変ねえ、お大事にね」と言ってもらえるか、「嘘つけ、仮病だろ」と言われるかの違い程度にしか役に立たないが。
この能力の本質は『自分の望む言葉を相手に言わせる』話法である。本物の詐欺師であれば「あら、じゃあハンコ持ってくるわね」と相手に言わせるための能力である。
あまり詐欺の話に偏ると、犯罪教唆的なガイドラインに引っかかるので、前述の「風邪ひきました」の話に戻ろう。
この能力、なにか一つができれば使えるというものではなく、いろんな要素が組み合わさってはじめて使える複合技だ。
相手から「じゃあ休みなよ」という言葉を引き出すには、まずは相手が誰であるのかが重要になる。
仲の悪い上司にあたってしまったらイヤミの一つや二つは言われた上に「そのくらいがなんだ、今から来い」と言われてしまうかもしれない。逆に電話口に出たのが仲良くしている副部長あたりだったら?
「あら~、風邪かあ、わかった、伝えておくから休みなさい」
ミッションクリアである。
それを偶然に頼るのではなくて自らの行動によって望む結果にたどり着くのが詐欺師の才なのだ。
例えば副部長に直電入れるとか、副部長が必ず在籍しているタイミングを狙って電話をかけるとか。
また、いくら気のいい副部長でも不機嫌になるときはあるだろう。いかに副部長の機嫌を損ねずにこちらの話を聞かせるか配慮も必要である。
もちろん、相手の機嫌が完全にいい時を狙うなんてことは、普通は出来ない。だが、人付き合いの上手い人は『確実に機嫌が悪いタイミング』を外すことによってこれを補うことができる。
飲食店など、ピーク要員としてシフトに入っている人が休むと地獄のような状況になる。本来ならデザートを作るために一人、と考えていたところに穴が開いて、その穴を埋めるべく他の人がオーダーを聞きながらデザートもこなすという負担が発生するからなのだが。
例えば誰かシフトを代わってくれる人を見つけて電話するとか、他店にヘルプを頼めるように時間的余裕があれば電話口の相手もさほど機嫌は悪くならないというのに……シフトイン五分前ギリギリ、ピークの始まったタイミングで電話を承けたら、まずかなり温厚な人でも胸の中でイラッとしたトゲのようなものが生まれる。
「行く気満々だったので、ギリギリまで様子見たんですけど~」なんて身勝手な言い訳はいらない。相手が本能的に腹が立つタイミングというやつだ。
これを外して相手が落ち着いてこちらの言い分を聞いてくれるタイミングを作る、これも詐欺には必要な能力なのだ。
さて、そこまで気を使ってもイレギュラーというものは発生する。
電話口に嫌いな上司が出てしまったり、副部長がアノ日で機嫌が悪かったり。
そういう時に柔軟に対応することができるかどうか、これも詐欺師として必要な能力である。
電話口で副部長が不機嫌そうな声だった、その少ない情報だけで初手の行動を変えることができるだろうか。もしも嫌いな上司が出たら? まったく予想しなかった無能な同僚君だったら?
そうした場合、状況に応じて対応を変える臨機応変さが必要となる。
いつもの副部長相手だったらグダグダと風邪の辛さを訴えたうえで休む旨伝えようとしていたところ、まず話法からして変えなくてはいけないかもしれない。
「ごほっ、ごほっ……すみません、起きたら寒気がひどくて……」
ここまでするのはさすがに演技過剰だが……少なくとも、電話口に誰が出ても対応を変えないというのは悪手だ。
また、相手が誰であるのかによって態度を変えることは悪であると思っているのなら、それも間違いだ。
その場の状況、相手が誰であるのか、相手の機嫌などを噛んだえたうえでこちらの行動を変えるのは、それが善意であれば『気遣い』という。これを悪用するのが詐欺だ。
それゆえ、俺が今まで出会ったweb作家で「こいつ文章うまいな」と思う相手は、外れなく『気遣いのできるタイプ』であった。
さて、ここまで見てきただけでも、相手に嘘を本当だと思わせるには『一つの能力だけでは不十分』だということがお分かりいただけるかと思う。
同様に文章力とは何か一つができていればいいというものではなく、様々なテクニックや技巧を使って虚構を真実っぽく見せる能力のことを指すのである。
言語化するならば「この部分こそが文章力!」ではなく「三拍子そろった!」とか「見てきたようなウソ!」とか、そういった感覚に近い。
ちなみに多くの人が『これこそが文章力!』にあげる『文章の正確性』であるが、これは詐欺――いや、日常会話でもまずは相手の理解できる言語で話すことが基礎中の基礎であるため、ここでは省かせていただく。
いくら文章が正確だろうと描写が密だろうと、それのみでは文章に真実味など生れないのだ。
さて、詐欺師となる――つまりウソを真実と思わせるには、才だけでなく詐欺師としての知識が必要となる。
文章も同じこと、文章の勉強というのは『どうしたら虚構が真実に見えるのか』の知識を学んでいるわけである。
さて、ここから詐欺の話になるけれど、犯罪教唆にならないように本当にちょっとだけ。
私は別にウソをついて会社を休むテクニックを伝授しようとしているわけではない。いかにしたら文章力があると他人から称される『真実味のある文章』が書けるのかを話しているのだから、もう少し詐欺に近寄った話をする必要がある。
世に『おれおれ詐欺』というものがあるが、あれ、第三者目線で見ると『ボケの始まった老人だから簡単にだまされた』ように見えないだろうか。
すなわち「息子の声がわからないとかありえないだろう」的な。
そう思っているうちは創作者側には立てない。
詐欺のテクニックの一つに『冷静な判断力を奪う』というものがある。
つまり冷静なときに「あ、母さん、おれおれ、俺なんだけどさあ(これが一般の人が考えるおれおれ詐欺)」と言われたら、それは息子の声なのか、言っていることに不整合はないかを冷静に判断することができるだろう。
しかし実際には初手から『冷静な判断力』を奪いに来る、だから詐欺なのだ。
「……俺、俺なんだけどさ……どうしよう、かあさん、俺、どうしよう!」なんて言われて、電話の向こうから泣きじゃくる声が聞こえたら、あなたは果たして冷静でいられるだろうか?
これは創作にも使えるテクニックのうちの一つである。
つまりはセリフやぐちゃぐちゃした思想を直接語るのではなく、先に「それで、どうしたの?」の言葉を読者から引き出すように書けと。
相手に「それで、どうしたの?」と言わせることによってこちらの話を受け入れやすくさせるためのテクニックだ。
他にも『ちょっと不細工な方が結婚詐欺に向いている』とか『ウソの規模が大きい方が人は騙されやすい』とか、怪しげな詐欺のテクニックは山ほどあるが、ほんとマジで犯罪教唆云々に引っかかるわけにいかないので、書かない。
まとめると、実は文章を書くのに必要な技術というのは、詐欺で使われるテクニックとほぼ同質なのだ。
ウソの話をして金をもらうという本質も同じ。
なのに『文章力』という詐欺テクニックの集大成を語る行為にカタギの理論を持ち込むから誰も本質に届かない。
それのみならず人心を操る心理テクニックを国語的なものに落とし込もうとするからおかしなことになる。
文章力とは国語の知識で語れる単一的な要素で成立するものではなく、そもそもが国語とは別ジャンルにある複合的なテクニックの集大成をこそ指すのである。
さて、最後にこのことに気づかないと書き手として何が不都合なのかを軽く語って終わりにしよう。
詐欺とは違い、小説というのは読者が騙されることを前提として楽しんでくれるエンターテイメントだ。
ページを開いた時点で読者は『これは虚構の世界である』とウソを受け入れる準備ができている。私たち創作者ができることは、その読者に対して『真実味のあるウソをつくこと』だ。
ところが、作者が嘘をつくのが下手だと、読者は物語の途中でスンっと現実に戻される感覚を覚える。
その感覚がジャガイモだのシャワーとして槍玉に上がるわけだ。
ジャガイモだのシャワーだのはわかりやすく言っだだけだが、創作を長く続けていればそういう類の感想をもらうことは必ずある。すなわち「異世界にこれがあるのはおかしいのではないか」と。
この感想にどう反応するかで、あなたのペテン師レベルが知れる。
一番多いのは異世界にシャワーがある原理を考えて声高に「異世界にシャワーがあっても何らおかしなことはない!」と主張するパターンだろうか。
然り、あなたの物語の世界はあなたの中にある自由なイマジネーションの結晶であり、現実世界の原理法則に則っている必要は何一つない。
しかしこのタイプ、詐欺師としては三流以下だ。
例えば「本文中にシャワーがある理由を加筆しました」とか言っても同じ。作者が言い訳をした時点で、その物語は『嘘』になる。
嘘というものは言い訳すれば言い訳するほど嘘であることが浮き彫りになるものだとペテン師はみな知っている。
ならばその感想を黙殺すればいいのか--単なる黙殺は二流ペテン師ってところだろうか、物語に不備があることを自覚しながら何の手も打たぬことは『愚策』である。
読者が言わんとすることは「このタイミングで嘘が透けみえてしまい、興が覚めた」ということである。
つまり、文章のそこに不備は確かにある。しかし、この修正をしようというならば大工事になることが多い。
一流のペテン師なら知っているだろうが、どのようなウソでも真実に見えるように粉飾することは可能である。しかしそのためには『真実だと思わせるための下準備』が必要になる。時にはシャワーがあってもおかしくないように物語そのものをギャグ調に調整するなど、たった一つのウソを真実とするために根幹からの書き直しが必要となる。
結果、そのくらいならば小さなウソは捨て置こうと『諦める』、これが一流のペテン師の挙動である。なぜならばそこに破たんがあると知っているならば『あとから取り戻す』ことが可能であるからだ。
これも実に詐欺のテクニックに近しい。
ちなみに超一流となると該当箇所を痕跡すら残さず消し去ることができるのだという。
つまり詐欺だと気づかれた時点で何の痕跡も残さず逃げおおせるのに似ている。
残念ながらそうした痕跡を見かけたことはない。なるほど、私ごときに看破されるようでは確かにプロのペテン師とは言えないだろう。
つまりは誰にも気取らせずしれっと不都合な部分を消すことができる、これが超一流のペテン師であると。
このように自分が読者をペテンにかけているのだという自覚があれば、見当違いな能力を『文章力だ』と言い張る必要が何もなくなる。つまるに虚構を真実だと思い込ませる頭脳戦を常に読者との間で繰り広げる人こそが「文章力のある人」だと言えるだろう。
そしてこれは、良い詐欺師の条件でもある。
作者なんて所詮は詐欺師なんだから、偉そうな理屈で他人をねじ伏せることを考える暇があったら、どうやって読者を「だましてやろうか」を考えるべきである。
実は、それこそが文章力を手に入れる近道なのである。