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天界の瑠璃 天界の記

作者: omi

「我 大宇宙に久しく住して 一切生類の救いの力とならん」

今まさに涅槃に入り給う如来は、真実一語の大慈悲の音声をもって一切大衆に語りかけた。弥勒は解知していた。如来は、始りも終わりもない無始無終の大宇宙の限りない時の流れの中で、決して滅することのない未来永遠の存在なのだ。この世において肉親を滅しても、その法身は普く世間界の中に入りこんで、これからも如来は大説法を続けられる。その如来身は、一切衆生、草木国土、あらゆる姿の中に遍満し、この世を曼荼羅世界ならしめ続ける。しかし、その真実を知っているという者がこの大衆の中にどれだけいるだろうか。大聖者といわれる大弟子たちの中にも心を塞いでいる者たちがいる。阿難がいい例かもしれない。最も多く如来の側に仕え、生活を共にし、最も多く如来の説法を聴いてきた阿難でさえ、手を打ち、体を大地に投げ打って、身から血を流すごとくに嘆き苦しんでいる。しかし、彼もやがて分かるだろう。悟りを開き、阿羅漢となるのは、今夜半のうちだ。

 弥勒は密かに思念した。文殊師利は、今この場を離れているが、彼は、すでに百千万億の先の未来の宇宙の姿をすでに悟っている。今この場にいないことが、逆に彼の智慧の深さを現しているのではないか。如来の最後の説法を聴かずしても、彼は彼方の地でこの場の様子を、鮮やかなる天眼通によって透視しているに違いない。しかも如来の「ことば」だけでなく、最後の説法の奥義を、その真実の意味をも悟っているはずなのだ。        

彼が過去世においても大菩薩であった時、私はその弟子として、多くの教えを受けてきた。名利や驕慢、高ぶりの心が如何に醜いかということも教えられてきた。ゆえに、「求名」(ぐみょう)とも呼ばれたのだ。しかし、その先の遠い過去世において、諸々の如来を供養してきたがゆえに、今この場に添い奉る奇瑞なる縁にめぐり会えたのだ。この先こそは、わが身を捨てて、無辺なる衆生を悟りの彼岸に渡らしめるべく、他の為に奉仕する真実行に命を費やすべきなのだ。

この娑婆世界における沙羅双樹の林は、さながら馥郁たる妙香と大光明に飾られた西方極楽仏土そのものであった。そして遠い未来において如来となるべき徳を具えた大菩薩たちは、嘆き悲しむ者を除き、慇懃いんぎんとして遥かなる無数の仏土より馳せ参じた大菩薩らと共に深い三昧に入り給うていたのである。

弥勒は密かに思念した。筆頭たる摩訶迦葉(まかかしょう)は、未来に如来となるべきことを、すでに師父より授記じゅきされている。私は、次の世において如来となるべきことを自ら志願したが、それも、師父の大御徳によって、約束されたにすぎないことなのだ。偉大な如来となるべき大徳を具えた大弟子たちは、ここにおいては、私よりもはるかに多くいるのだ。

 「善いよいかな、善いよいかな。汝等の頭上に甘露の法雨を雨降らさん。我 今当まさに涅槃に入るといえども、しかも涅槃には赴かず。久しく世に住して 永遠なる宝塔のみ(のり)を説き示さん」

弥勒が思惟を重ねてより少時が過ぎたが、いまだ師父は大法輪を転じられている。実体身は涅槃に入ることがすでに諦かにされたが、法身は涅槃に入ることはないと。

弥勒は密かに思念した。あの難解な大般若経も、この場において、明快に説き示されたではないか。涅槃は涅槃にあらず。されど、涅槃は涅槃たらざるものなし。般若経を学んで、観念の悪覚に陥ったかつての弟子たちもいた。しかし、大般若経に説かれた「空」の境涯とは、観念で悟られるべきものではないのだ。その「南無」ともいえる境涯は、み仏の大慈悲の温懐に触れて全身を貫く梵我一如の境涯に他ならないのだろう。


み仏の大慈悲は、機に応じて、時に応じて、隔てなく優しく人々の心を包む。

「阿難よ、悲しんではならない。そなたは、よく私に支えてくれた。悲しみも苦しみも共にしてきたではないか。そして、これからも汝の悲しみ、そして喜びは、私と共にあるのだ。遊行の時、また、夜の静かなひと時、汝と共に歩んだこの道は、決して平坦なものではなかったが、そなたがいてくれればこそ、私も喜びの中に道を貫くことができたのだ。私はいつでもそなたの父であり、そして友であるのだよ。」

師父は優しく阿難に語りかけた。阿難は、とめどなく頬を流れる涙に、師父をただ仰ぎ見るよりほかはなかった。

「迦葉よ。阿難を頼んだぞ。素直で純真な阿難をこれから導くのは、そなたよりほかにおいてはないのだ。私はもはや入滅するが、多くの大衆を教化きょうげできるのは、ひときわの優しさを持った阿難に勝る者はないのだ」

襤褸ぼろまとった迦葉は、一段と厳しさを増した表情で、み仏の願いに即座に答え奉った。

「この世に生を受けて、わたくしのような者が、み仏の大法輪を聴聞することができたことは、まことに幸せであります。これよりは、阿難はじめ、弟子たちを一つにまとめて、命尽きるまで、残されたみ教えを一切大衆に宣布する覚悟であります」

「大信心とは仏性! 仏性とはこれ如来なり。大信心、金剛不壊こんごうふえたる仏性、いかなる妨げにも障碍しょうがいせられまじ。弟子たちよ、迦葉の如く大信心をみ仏のみ前に誓い奉るべし」

神足通をもって、にわかに姿を現した文殊師利が、獅子吼ししくの如く天界まで響き渡る大音声をもって迦葉を賛嘆した。

「善い哉。善い哉。文殊師利よ、汝いまだ菩薩と雖も、その智慧、まさに如来の智慧と変わるものなし。未来において必ず大いなる如来となるべし」

み仏は、文殊を賛嘆して、文殊の頭上に竜の鱗と曼荼羅華まんだらけを雨降らして讃え給うた。その時、天界より虚空に参集していた天女たちも、絹の衣を肌脱いで、静かにみ仏の左肩と、文殊の右肩に掛け給うた。天女の奏でる楽の音は、吉祥瑞雲棚引く沙羅林の空に、極彩色の瑠璃の鐘となって涼やかに響き渡った。


「阿難よ、悲しんではならない。君は、父の説かれた八万四千の法門のうち、八万二千もの法門を父より直接聴聞しているではないか。その真実を曲げずに語ってこそ、涅槃された父の恩徳に報い奉ることになるのだよ。悲しんではならない。今日はゆっくり休みなさい。明日からまた新しい日が始まる。ここが終わりでははく、出発なのだよ」

迦葉は、父のことづけを護って、彼が静かに眠りにつくまで、阿難に優しく語りかけた。

迦葉は、明日の早朝より始まる仏典結集にむけて、全心身を集中させていた。彼が眠りにつくことはなかった。深い三昧定さんまいじょうにひたり、悟りを開いたすべての阿羅漢たちを、ひとつにまとめるための深い祈りに徹していたのである。唯ひとつ、杞憂すべきは、阿難がもう一歩のところで、阿羅漢となるべき境涯に達していないことであった。しかし、その杞憂も、彼にとっては、それほど大きな問題ではなかった。彼は、長としての責務を果たすべきことに、集中していたのである。

阿難は、迦葉の言葉に安心し、浅い眠りについていたが、夜半、忽然と目覚めた。不安が彼の脳裏をよぎる。自分はまだ悟りの境涯を得ていないのに、どうして悟りを開いた多くの大弟子たちの前で、み仏の大いなる法門を語ることができるだろう。八万二千もの法門は確かに自分の心の中に納められている。しかし、宝の蔵ともいってよいその法門も、語る者によって、その深さは違ってくるのだ。自分は、まだその資格に値しないのではないか。不安が輪廻する。心は沈み、深い憂悩にさいなまれていこうとしたその時、茅の屋根の隙間からスーッと一筋の光が差し込んできた。

「これは、何の光か?まだ夜明けには時間があるはずだ」よく見ると、それは、み仏の説法の象徴ともいうべき輪宝の輝く姿であった。それは、薄い黄金色をもって、さらに大きさを増してくる。

「阿難よ、わたくしである。」

阿難は、驚愕して床より半身を投げ起こした。それは、まぎれもなく、もっとも記憶に刻まれている師父の声であった。

「父よ、あなたなのですか!」

「阿難よ、わたくしである。汝よ、聞き漏らすべからず。汝はまさにその資格に値する。ゆえに、この時の為に、汝をわたくしの使者として、長年にわたり、わたしに共させたのだ。わが転法輪、決して滅びず。汝、心に、光る輪宝を掲げて、大弟子たちの先導をなすべし。」

全身に稲妻が走る。このようなことが…「父よ、分かりました。必ずや、受け継いだ法門のすべてを余すところなく、伝えてまいりますことお誓い申しあげます!」

阿難の不動の覚悟は、父の大恩徳によって、もはや、ゆるぎないものとなってゆく。

輝きと大きさを増した輪宝が、不可思議にして、阿難の体と一体となってゆく。その刹那、阿難の全身は黄金と輝き、阿羅漢となり給うたのである。


「如是我聞。 み仏より、かくの如く我聞けり。」

いまだかすかに霞にけむる沙羅林のほとりにおいて、阿難は、錚々(そうそう)たる大弟子たちのみ前において、朗々とみ仏の法門を説き始めた。大弟子たちが、その後に続き、一糸乱れぬ音調で、それを反復する。

迦葉にも、ようやく笑みが戻ってきた。よくやった、阿難。汝のその指導力は、み仏ご在世のうちより、群を抜いていたのだ。み仏の法門も、これで弟子たちに、しかと受け継がれる。迦葉は密かに涙した。この老いた身、いずれにせよ、この大事業を成し遂げた後、それほど長くはないだろう。み仏のみ前に、確固たる決意を披瀝したが、後は、阿難はじめ、若い弟子たちが、長くこの法門を受け継いで、み仏の姿を形あるものとして、遺していくのだ。

弥勒は、朗々と奏でられる経の調べに、自らも微かながらの声を重ねて、静かに思念した。大弟子たる阿難、甚だ賛嘆すべし。すでに、我、彼の足元にも及ばず。

迦葉の涙に弥勒は密かに涙を重ねた。の迦葉、甚だ厳格なるも、その涙柔らかく、その涙、蓮の露にも似て、清らかなり。この、こみ上げる涙、如何にせんか。み仏の教勅によりて、すべての弟子たち、ただ一つになりて、ここに集れり。この沙羅林に、み仏、まさに在す如し。しかしながら、我、迦葉と同じく、いずれこの世去る時あらん。されば、み仏から付託された願いを、いかにして現実のものとなすべきか。仏国世界を永遠に残す手立て、いかにしてあらんや。身を滅したのちも、この世に遺すべき光輝ける世界、いかにして永遠ならしむるか。五戒は鎧城の如く身を護るも、それのみでは、はかなし。すべての人、いつの時にか、必ず、老病死の運命さだめより逃れることあたわず。しかるに、残された命、友愛の希望にかえて、生き抜くべし。友愛即ちこれ慈しみの心は他を救う。慈しみのこころは妙なる大雲の如し。これ大慈大悲の心に通ずるものなり。また、露の玉の如き清浄なる心をおこして、荘厳たる智慧の心に住し、行願心、退転すべからず。神通力を具足するこのみのり、身命にかえて、さらに功徳を増さしめるべし。

「善い哉、善い哉、弥勒よ。さほど急いて、事、ならしむべからず。琴の音は、その弦、緩すぎず、張りすぎず、その時、最も良き旋律しらべ、出ずるものなり。これ、正覚しょうがくを得んと欲した、過去幾千万億の如来が悟った法なり。」

文殊は、この場における、すべての事象を見そなわれて、いまだ若き弥勒の思いに、中道の理をもって、答え給うた。

阿難はじめ、弟子たちの朗誦は、高く、低く、霞の晴れた沙羅の林に、いまだ変わらず、続けられていた。


「今まさに、ここにおいて、結集終わりとなすべし!」迦葉が宣言する。

十日目にして、日中の天空に高く上がった日天の輝きは、長たる迦葉はじめ、阿難、そして大弟子たちをして、一区切りの清清しい感激を持って終結せしめられた。日天を囲む虹の日暈は、その大業を祝福しているかのように、弟子たちには仰ぎ見られた。

「師父よ、わたくしは、師父の大御徳により、先導の役目、確かに成満することが、出来ました。父よ、見てくださっていますか!阿難の目から、光るものが、一筋頬に流れてゆく。迦葉はそれを見て、再び密かに涙した。

弥勒は、その光景を目の当たりにして、咳き込む涙に、喝采の思いを込めて、密かに思念した。大業、まさに、ここに成れり。錚々たる弟子たちの心中に、まさに、深くみ仏の法門、受け継がれたり。殊に師父の実子、また、十大弟子たる蜜行第一のラゴーラ、ことさらに感慨深きものあらん。

「弥勒よ、汝、十大弟子にはあらざれども、汝のその密かな清浄心、確かに我が心中に深く刻まれたり。」ラゴーラは、弥勒を仰ぎ見て、ささやかなる賛美のことばをもって、賛嘆し給うた。

「ラゴーラよ、これより先、長きにわたり、師父が説法遊行し続けられた如く、我々も、その御足跡に続き奉るべし。これより先、いかなる困難があろうとも、師父の教えを、一切大衆に説き続けようではないか。」弥勒が答える。

しかし、弥勒は、彼自身、この先それほど長くその身がこの世にないことを、密かに悟っていた。故に、早くより、未来において如来となるべき授記を、み仏より付託されたのかもしれない。み仏もそれを解知されておられたのだ。

視力を失った阿那律は、その代わりとして得られた天眼通によって、仏典結集の核をなしたが、彼もまた、弥勒がこの先長くこの世に生を全うできないことを、透視していた。

「弥勒よ、汝は、慈氏、即ち慈しみの菩薩なり。その慈しみの心、友愛の精神、他の弟子より、優れたものであることは、汝は自覚せざるとも、その優しさによって、他の弟子たち、心に安らぎを覚えたものである。君の残りの命、我々と共に、常にあるものなり。」  

弥勒は、密かに過去を回想した。阿那律が、仏陀の前では決して眠らずの誓いを立て、視力を失ったとき、我もまた彼の手を引いて、竹林精舎を、昼下がりのひと時、静かに散策したものだ。自分は当たり前のことをしたに過ぎないが、阿那律は、涙をながして、長く自分の手を握り締めてくれた。その手の温もり、この手にいまだ暖かな感触として、思い出されている阿那律とは、知己の友であった。不自由をしている彼の姿を、私は、放ってはおけなかった。その友ともしばらくの後、今生の別れをなすのは、悲しいことだ。されど、いずれ、天界において、相まみえる日もやってくるだろう。


三日後、弥勒は、静かな禅定三昧のうちに、天界へと身を帰したのであった。

これほど早く天界に帰ることになろうとは、弥勒自身、予想するべきものではなかったのである。


弥勒の魂は、ぐんぐんと天高く昇っていく。その行き着く果ては、どこであるのか、弥勒には微かながらの記憶があるだけで、その場をいまだ確認できずにいたのである。兜卒天、そこが、もしやすると、次の住居になるのかもしれない。微かな記憶が、おぼろげに、弥勒をして、そう思わせたのである。

「善い哉 善い哉、弥勒よ、汝の行く先、まさに兜卒天なり。その住居、次の如来となるべき諸々の菩薩が、禅定と智慧により、徳行を重ねる穢れなき、歓喜よろこびの世界なり。」ここにおいて、悠かの天界より、文殊師利が、その行く先を、弥勒に確信ならしめたのである。

「善い哉 善い哉、弥勒よ、汝の行く先、まさに文殊が示した如し。我もまた、その天界において、諸々の徳行を重ねた処なり。また、大いなる決意によりて、この娑婆世界に下降せんと欲した穢れなき世界なり。諸々の天人を供養し奉り、円やかなる徳行を積み重ねるべし。」ここにおいて、さらに、大宇宙の曼荼羅界より、荘厳な師父の声が響き渡った。


朱塗りの山門をわたると、そこには、美しい瑠璃色の池に、曼荼と、色とりどりの蓮の花弁、蓮の車輪が、美しく咲き乱れている。金銀七宝に飾られた城郭には、獅子座が設けられ、多くの大菩薩が深甚なるみ仏の真理を語り給うていた。「どうぞ、こちらへ」。雲中から舞い降りた容姿端麗な一人の天女が、弥勒を獅子座に案内する。弥勒には誘われるままに、獅子座に着いた。そして、即座に深い三昧に入っていく。煩悩穢れなき兜卒天は、さらに七宝の輝きを増してゆく。やがて、三昧のなかにおいて、弥勒は解知した。ここは、一生補処の地なり。ここにおいて、四千年、徳行を重ね、再び今一度、生を受けたならば、必ずや、竜華樹の下において、如来となるべし。しかれども、その四千年、娑婆世界においては、五十六億七千万年なり。

天界における修行は、娑婆世界のそれよりも、甚だ障碍しょうがいのないものであった。しかるに、そこには、貪り、いかり、おろかの三毒が消滅し、諸々の人間が抱く不平、不満、不安や飢渇、疑い、怖れのない世界だったからである。

弥勒は、諸々の天人たちの最高善美のもてなしに感謝しつつ、一年半の間、過ごし給うた。その間、さらなる荘厳さを増した兜卒天の光は、下界まで行き渡るほどの輝きを見せていった。


ある日の昼下がり、弥勒は、いつものように、樹下において深い祈りに入っていた。その時、いかなることか、娑婆世界より、至極の仏道修行を全うした一人の大聖者が、渾身の祈りを込めて、弥勒に語り給うた。「弥勒よ、下生し給え!この末法混迷の世に、光明たる曼荼羅世界を現出せしめるべし!」 

娑婆世界は、師父が入滅されてより、二千五百年が経ち給うていた。苦難の世に、如来の位にのぼられたその大阿闍梨の大懇請は、繰り返し、弥勒の心耳に語りかけてくる。

「大聖者よ、わたくしは、いまだ天界において徳行足りず、ご懇請、甚だ恐縮ではありますが、娑婆に降ったとしても、十分な働きをお見せすることができません。それどころか、徳行たらざるが故に、多くの衆生を彼岸に渡らしめるどころか、迷わせる結果ともなりかねません。どうか、この気持ちを察して頂き、もう少し、お待ちくださいませ。いまだ時満たず、わたくし一人の祈りにて、仏道修行を全うし、正覚を得る事は、いまだ困難であります。」

大阿闍梨は、深い祈りの中、答え給うた。

「されば、わたくしの弟子となり、一心に精進すべし。その道、必ずや、我、つけ給わん。修行を積み、菩薩の行いを再び顕現して、一切のよるべとなるべし。」

 弥勒は、迷い、しばしの思惟を重ねた。いまだ、時満たず。されども、いずれの時にか、下生する機、避ける事あたわざるなり。ならば、如来位にのぼられたる大聖者の大懇請に身をゆだねるべきか。弥勒は決意した。

「承知いたしました。いまだ徳行足りず、甚だ力不足ではありますが、わたくしが如来となるべき事、捨身おまかせし、苦難の世に、菩薩としての生涯、再び全うすること、お誓いいたします。」

 ここにおいて、弥勒は、如来となるべき事を捨て、再び、人の子として、世に戻る事を決意したのである。



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