学園入学とヒロインちゃん
トーニャの“発作”はたびたび起きた。
一番酷かったのは、婚約者である王太子の訪問時だろう。
訪問を予告されれば「どうせ真実の愛を見つけて邪魔になったわたくしを追い落とすくせにィィィィ!」と号泣と絶叫を決めて部屋にこもってしまうし、それにも構わず王太子が来れば、部屋の中でやっぱり死にたくないと号泣するのだ。
実のところ、トーニャはまだ正式な婚約者ではない。トーニャ自身の懇願で、あくまでも「候補」に留めてあるという。
それならなおいっそう、どうして王太子がわざわざこんな状態のトーニャを訪ねて来るのか、とても不思議だった。年廻りも身分も十分な、婚約者足り得る令嬢は他にも何人かいるはずなのに。
「トーニャ、俺だ!」
トーニャを訪ねた王太子は、まったく頓着することなく扉の鍵を開けさせて、トーニャの引きこもった部屋に押し入っていく。
これは今回だけでなく、毎度のことだ。
家令のヨハネスさんも使用人たちも、王太子の侍従や護衛も慣れたもので、王太子の開け放った扉の内側に置かれた長椅子……つまり、トーニャがなけなしの腕力で作ったバリケードを軽々と退けてしまう。
「いやァァァァ! 婚約破棄するなら今してェェェェェェ!」
「トーニャ、相変わらずだな! 俺とお前はまだ正式に婚約していないのに、破棄も何もあったものではないだろうに!」
「いやァァァァ! 来ないでェェェェェェ!」
トーニャの掠れた絶叫が、奥の部屋……つまり寝室から聞こえて来る。
王太子はやっぱり何の躊躇もなく扉を開け放つ。
とはいえ、さすがに令嬢の寝室だ。
僕やヨハネスさん、それに王太子の侍従や護衛といった男性陣はその中が覗けない位置に留まり、王太子と一緒に入って行くのは女性の使用人だけだ。
しばらく待つと、くしゃくしゃになったドレス姿で、髪だけは整えられたトーニャが、しゃくり上げながら王太子に手を引かれて出てくる。
これを月に数度、毎回毎回飽きることなくやっているというのだから、王太子はすごいと思う。さすが王の器と言うべきではないだろうか。
もっとも、王太子がこんなトーニャを婚約者候補にしたままだというのかよくわからない。しかし、王太子の態度と「候補」と言いつつトーニャ以外に「婚約者候補」はいないことを鑑みれば、たぶんそういうことなんだろう。
「トーニャも、さっさと諦めればいいのに」
ぽそりと呟く僕に、ヨハネスさんは「まったくです」と頷いた。
トーニャも“前世の記憶”を持っていて、この世界がゲームの世界だと知っている……とわかったのは、この家に来てすぐだった。
当たり前だ。トーニャに隠す気があるのかないのか知らないけれど、初対面の“発作”であれだけ言ってのけたのだから。
ただ、公爵家の家族や使用人たちは、あれはトーニャの夢や想像の話だと考えているようだった。
最初は、王太子の婚約者にと王城を訪ねたことがきっかけだったらしい。
トーニャが五歳の頃だ。
ふたつ歳上の王太子は当時七歳。話によれば待望の世継ぎで少々甘やかされた子供だったらしい。その王太子に申し分ない後ろ盾と将来の妃をと望まれ、相性が良いようならこのままという思惑で引き合わされたその席で、トーニャは最初の“発作”を起こしたのだという。
「俺様王子なんていやァァァァ! どうせ政略だからどうでもいいとか言って、わたくしのことさんざん適当に扱って邪険にしたあげく、将来はわたくしの言うことなんかひとつも信じないで捨てる浮気男なんて、絶対いやァァァァ!」
絶叫して号泣して泡を噴いて倒れて……誰もがこの顔合わせは失敗だと考えた。当たり前だ。王族に対してこんなことになっては、不敬と取られても仕方ない。
婚約の話は白紙に戻されて、別な令嬢を……となったところで、王太子自身が待ったをかけたのだ。
そこから、何かの弾みで「ゲームの記憶」を思い出すたびに“発作”を起こすようになったらしい。
伯父に似てきつい顔立ちのトーニャは、どこから見ても気が強そうだし性格もきついと思われがちだけど、幼い頃からとても気が弱くて人見知りだった。
王太子とのお見合いも、最初から怖くて嫌でたまらなかったのを、伯父と伯母に宥めすかされてやっと行く気になったらしい。
そこに、「前世のゲームの記憶」がフラッシュバックして、爆発した。
目の前の見目麗しい王子様は傲慢な俺様タイプで、政略結婚が嫌で仕方ない。だからもちろん、トーニャのことを大切になんかしない。
そのうち王立学園に通うようになれば、「真実の愛を見つけた」とヒロインと恋に落ちるのだ。それだけでなく、嫉妬でいじめたトーニャをあげつらい、断罪し、最悪処刑までしてしまう……これ幸いと、黒い噂のあったハルセラール公爵家もろともに。
「実は僕も、そのゲームの話知ってるんだ」
そう打ち明けたら、トーニャはひどく驚いてまじまじと僕を見つめていた。
前世の記憶と今の自分が混じり合って、トーニャはとにかくいろんなものが怖くてたまらなかったらしい。
ゲームの記憶によれば、公爵は何がきっかけなのか後ろ暗いことに手を染めたうえ、トーニャの断罪に巻き込まれる形で失脚することは決まっている。おまけにヒロインに骨抜きにされた兄は、積極的に断罪の片棒を担ぐことになっている。
トーニャ自身は、政略の相手なんかと王太子にさんざん塩対応されたあげくに浮気した王太子自身からの断罪だ。
僕は僕で、引き取られはしたものの、貴い血に卑しい平民が混じったと公爵家の皆からひどい扱いを受けて人間不信に陥り、復讐を決意して公爵家の断罪のため、その罪を暴く側になるのだという。
――今のところ、トーニャの語る「ひどい公爵家と悪役令嬢」なんて、片鱗すら見当たらないのだけど。
「僕が思うに……きっと、ゲームの世界によく似てるけど、ここは別なところなんだよ。だって、伯父上も伯母上もエスタ兄さまもトーニャ姉さまも、他の人たちも皆、僕に良くしてくれるよ」
「でも、でも、皆同じなんだもの。今は良くても、ゲームの強制力ってやつもあるのよ。きっと、その時が来たら皆手のひらを返すに決まってるわ!」
トーニャはどうしても、ここがゲームの世界で自分が悪役令嬢としか思えないようだった。ふとしたことでゲームと同じものを見つけては、号泣して絶叫して部屋に引きこもってしまうことを繰り返していた。
正直なことを言ってしまえば、よくもまあ、公爵家の人たちも王太子も、トーニャを見捨てず、辛抱強く構っているなと思う。
上級貴族の器というものなのだろうか。
とはいえ、自分と同じように「ゲーム」のことを知っている僕を、トーニャは少し信用する気になったようだった。
僕が来てから号泣と絶叫の頻度は減り、引きこもり期間も短くなったのだと、伯父はほっとした顔で話していた。
泣き過ぎてしゃっくりが止まらなくなったトーニャをテラスの茶席に座らせて、王太子自身もその隣に腰を下ろした。
普通ならひとり掛けの椅子を二脚用意するところなのに、長椅子だ。しかも隙間を空けず貼りつくように座っている。
どう見たって、王太子はトーニャにぞっこんである。
にこにこと機嫌よく、優しい声を掛けながら、王太子はトーニャの世話を焼く。あれこれ話しかけながら、一口大にした菓子をトーニャの口に運び……ちょっと見ていられなくて、僕はそっと視線を外した。
本当なら僕が同席する理由なんてないのだが、僕はトーニャの精神安定剤のようなものだからよろしく頼むと、伯父から伏し拝むようにして頼まれているのだ。
たとえ王太子から邪魔そうな視線を投げられても、席を立つわけにはいかない。
僕は最低限の受け答えだけをこなし、ひたすら庭に咲く花の数を数えてこの時間をやり過ごす。
実際、トーニャだって王太子のことがまんざらでもないんだから、さっさと受け入れてしまえばいいのに。
* * *
「エデルフェーン王立学園……僕もそこに通うんですか?」
「そうだよ、ヴェル。貴族の子女は皆そこへ通うことに決まっているのだ。それに……」
温和で穏やかな笑顔を浮かべた、ケチのつけようのない紳士である伯父は、僕を呼び出して来年から学園へ通うようにと言った。
そのついでなのか何なのか、少々愚痴めいたことまでを話し出す。
「トーニャが学園に行きたくないとずっと塞ぎ込んでいるのは知ってるだろう?
だが、これは決まりで、そういうわけにも行かないのだ。学園で見識を広め、相応しい社交の仕方を学ぶという目的もあるからね」
「はい、わかります」
「すでに兄がいるといっても三年上だ。殿下を迎える立場で忙しい上とあっては、トーニャまでなかなか目も届かないだろう」
「エスト兄さまは、学園内の自治にも関わっておられるのでしたね」
「ああ。来年、殿下が入学されれば、その補佐にも回らなきゃならん。先に入学した都合上、多少長く在学することになるが、殿下の露払い役としてがんばっているよ。
おかげで、トーニャが妹であっても構いっきりとはいかないんだ」
王立学園は、貴族の子弟は皆通うことになっている学校で、十三から十八の間の最低二年をそこで過ごさねばならない。
勉強の他、同年代との付き合い方や社交の基礎を学ぶ場でもあるのだ。
そして、貴族だけでなく優秀な平民も迎え入れている。
平民でも能力がある者に、王侯貴族との繋がりを作らせて王国の繁栄に貢献させようという目的だ。
そして、このエデルフェーン王立学園こそが、ゲームの舞台である。
そりゃ、トーニャは行きたくないだろう。
「王太子殿下より、トーニャも同じタイミングで同じ期間、学園に通わせるようにと通達が来ている。さすがにこれは無視できない。
――だが、ヴェルが同じ期間で在学してくれれば、トーニャも安心だろう? エストリオも私もヴェルになら任せられる」
トーニャのひとつ下ではあるが、家庭教師からも学力は十分だとお墨付きはもらっている。だから問題はないだろう、というのが伯父の言葉だった。
「殿下やエストリオが常にトーニャを気にかけるのは無理だろうが、ヴェルならそれが可能だ。どうか十分に気を配り、従弟としてトーニャを支えてやってほしい」
「ええ、もちろんです」
伯父に頼まれたその足で、トーニャの部屋へ向かった。最近はよほどのことがない限り、トーニャの部屋の鍵はかからないようにしている。
コツコツとノックをして「トーニャ、開けるよ」と声を掛けてしばらく待ってから、そっと扉を開けた。
トーニャは何かあるといつもそうするように、カーテンに包まるようにして、部屋の隅で膝を抱えていた。
「わたくし、学園なんて行きたくないわ」
「大丈夫だよ、トーニャ。僕も一緒に行くから」
「でも……でも……ヴェルだって隠し攻略対象なのよ。本当なら半分平民の卑しい子って人間不信になるくらいいじめ倒すのよ。
学園に行ったら、きっとヒロインをいじめることになるんだわ――いいえ、わたくしが誰かをいじめるなんて怖いこと絶対無理だし、やりたくないって思ってても、いじめたことにされるのよ。
ゲームの世界にはそういう強制力があるって、前世でさんざん読んだもの。
わたくしが嫌だと思っててもやっぱりいじめて断罪されて、王太子殿下にゴミムシを見るような目で見られて死刑になるのよ。
お父様だってわたくしもろとも取り潰されて塵になって消えるんだわ。
よくて平民に落とされて国外追放なのよ」
「あのね、トーニャ」
「だって、転生によくある設定じゃない。
やっぱり無理。学園なんて行きたくない。わたくしこのまま、屋敷に引きこもって外に出ないで生きていきたい」
トーニャはふるふる震えて、涙のこぼれた目をカーテンでごしごし擦る。
相変わらずゲームの展開が怖くて行きたくないとごねているけど、さすがの伯父も今度ばかりはトーニャのわがままを聞いてくれないだろう。
何より、王太子から「絶対に」と念を押されているくらいなのだ。
「だめだよ、伯父上が許してくれないよ。それに、トーニャは王太子妃候補だろう。王太子殿下もトーニャと学園に通うのを楽しみにしているんだから――」
「それも無理!
どうせ王太子妃なんてヒロインに決まってるのよ。そんなものに釣られてほいほい外に出れば、やっぱり断罪が待ってるの。
――死刑よ。やっぱり不敬だ何だで死刑になるのよ!」
「トーニャ、縁起でもないこと言わないで。僕が一緒に入学するんだから、そんなことにはならないよ」
うっうっと涙ぐんで、トーニャはカーテンの隙間から僕をキッと睨み付けた。
たしかに、眉を吊り上げてこちらを睨む表情は、“悪役令嬢”という役回りに相応しい迫力かもしれない。
「ヴェルだって……ヴェルだって、攻略対象じゃない。しかも隠しキャラで、相当条件揃えて頑張らないと出てこない、ここ一番のキャラなのに」
「でも、それは……」
「だからヴェルだって学園に行けばすぐヒロインの魅力にやられて、わたくしのことなんてどうでもよくなるに決まってるんだわ」
きょとんと見返す僕に、エルトゥーニアは続ける。
「人間不信のヴェルの心はすっかり凍り付いてて、孤高の狼みたいに誰とも馴れ合わないのよ。でも、そんな凍り付いた心をヒロインの優しさと愛で解かされて、ゴールインするの。わたくしのことをどうこうする暇なんてないわ」
「――ちょっと待ってトーニャ。僕の心が凍り付いてって、どうして」
「そんなのわたくしとお父様のせいに決まってるわ! わたくしとお父様の主導でヴェルをいじめ倒したから、ヴェルは公爵家に復讐を誓って……!!」
ひくひくとトーニャの顔が引きつり始める。
このままじゃあの“発作”が起こってしまうと、僕は慌ててトーニャの隠れたカーテンにしがみつく。
「あのね、あのねトーニャ! 少なくとも、僕は伯父上に感謝こそすれ復讐なんて考えたこともないし、誰も信用できないと思ったこともないよ!
僕がいじめられて人間不信だったらこんな風にトーニャと話そうなんて思わないし、伯父上のお願いだって聞いたりするわけないだろう?」
「え……あれ? でも、でも、ゲームじゃ……」
「トーニャ、やっぱりここはゲームに似てるだけの世界なんだよ」
「そんな……でも、でも、そう! 全部一致してるのよ! 一致してて……やっぱり無理だわ! 無理ったら無理ィィィィィ!」
――もしかして、トーニャにとってはゲーム通りにコトが進んでくれたほうが、安心できるんじゃないだろうか。
そんなことを考えてしまう。
それでも、なだめすかして説得して、ようやく王立学園の入学式を迎えた。
満面の笑顔をたたえる王太子に連れられて、馬車を降りたトーニャはびくびく怯えながら式典の会場へと向かう。
ゲームのとおりなら、この日は最初のイベントが起こるのだ。
道に迷って困り果てるヒロインを見かねて、手を差し伸べた王太子が共に来ることを許す……そんなイベントだと、トーニャが話していた。
ゲームの王太子は俺様で尊大なキャラだったと言うが、そんな性格付けのキャラがどうしてそんなことをするのかな、なんて考えながら聞いていた。
万が一、道に迷ったヒロインが現れたら、王太子より先に僕が声をかけるから――トーニャにはそう言い含めていたけれど、やはり不安そうだった。
トーニャよりも王太子よりも先に、僕がヒロインを見つければいけない。そう気負って目を皿のようにして周囲を確認しながら会場へ向かう。
けれど、この日、僕たちの前にはヒロインらしき人物なんて現れるそぶりすら無かったのだった。