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第十話 ギアという少年

 ふー、生き返るー。

 俺は露天風呂の湯に浸かりながら深く息を吐いた。先程まで感じていた緊張と疲れがほぐれていくようだ。

 この地方の温泉水は白濁色の湯で、筋肉疲労などに効果があるらしく、今の俺にもってこいだった。

 露天風呂からは森林や川の滝が一望でき、森から放たれる木々の甘い香りや滝の音色に精神も癒される。

 ただ、温泉に浸かりながらも俺は先程の一件について考えていた。もちろんギアとのやりとりについてである。

 そもそも『勇者』とは強い意志と正義の心を持つ人物が選ばれる。その『勇者』が意味もなく人を殺すことなど絶対に有り得ない。

 ――それにも関わらず俺はギアから強い殺意を感じた気がした。それは一体どういうことなのか?

 もちろん俺はギアに恨まれる心当たりなどまったくない。万が一、俺がモンスターであることがバレていたのだとしても、ただのスライム如きにそこまで躍起になることはないと思う。俺は人間に危害を加えたこともないし……。

 だから、どうにもギアの放った殺気が俺の考えるどの理由ともかみ合わなくてとてももやもやした。

 それに殺気は本当にあの一瞬だけだった。当の本人は俺の隣でのほほんとお湯に浸かっている。


「いいお湯だねえ」


 こちらの気も知らずにそんなことを言ってくる始末だ。あの殺気は幻だったのかとさえ感じてしまう。

 ……いや、あれは間違いなく殺意だった。と思うのだが……。


「こうしてのんびりしていると、世界が危機に陥っているなんてとても信じられないよねえ」


 ……俺はお前が俺を殺そうとしたことが信じられないよ。

 あー! もうワケ分からん! あの一瞬が夢だったと言われた方がよほどしっくりくるよ。

 そのように考えていると、ほのぼのしていたギアが不意にこのようなことを訊いてくる。


「ねえ、ネル。君はこの世界を……人類を守る価値があるものだと思うかい?」

「え?」


 俺は思わず聞き返してしまった。


「ギア。それはどういうことだ?」

「どういうこともなにも、そのままの意味だよ。この世界と人類が守るべきものかどうか、君の意見を聞きたいんだ」


 先程までののんびりした空気は既になく、ギアの目は真剣だった。恐ろしいくらいに。

 戸惑う俺。だが曖昧な答えではぐらかせる雰囲気ではなかった。

 だから俺は正面からギアを見据え、本気で答える。


「俺はこの世界も人類も守るべきものだと思う」

「……随分とハッキリ言うんだね。そこに疑問を感じたことはないのかい?」

「ない。何故ならせっかくオーピィの……妹の病気を治しても、世界や人類が滅びたんじゃ意味がないからな」


 ギアが少しだけ目を見開く。


「そうか。妹さんのためか。ふふっ、君はぶれないね」

「ああ。妹のためなら世界を敵に回してもいい」

「あはは。それ、言っていることが少し矛盾しているよ。……でも、ちょっと羨ましいかな。君も、君の妹さんも……」


 ふと、ギアは遠い目をした。それはまるで、過去を……在りし日を思い出しているかのような、寂しさと懐かしさを孕んだ目だった。


「なあ、ギア。さっきの質問だが、お前の答えは――」

「……ごめん。僕は先に上がるよ。のぼせちゃったみたいだ」


 無理矢理に話を終わらせ、ギアは湯船から腰を上げる。そしてタオルを腰に巻くと、脱衣所の方へと向かっていく。俺はそれ以上言葉を続けられず、ただ見送るしかない。

 しかし脱衣所への戸板に手を掛けたところで、ギアはこちらに振り返った。


「ねえ、ネル。僕は何が何でも君の妹さんの病気を治すことに協力することに決めたよ。それは絶対に約束する」


 ギアの目は強い意志を讃えていた。嘘を言っているとはとても思えないほどに、彼の瞳は澄んでいた。


「あ、ああ。ありがとう、ギア」

「いいんだよ。僕がそうしたいんだ」


 それだけ言い残してギアは脱衣所の奥へと消えて行った。

 あの目……彼は多分、本気で妹の病気を治すことに協力してくれるのだろう。

 ――それだけにやはり先程俺に向けられた殺気がどうしても噛み合わなかった。

 ただ、さっきのあの質問。ギアははぐらかしたが、あの答えにもしかしたら彼の真意があるのかもしれない。

 その答えを教えてくれる日はくるのだろうか?

 俺は一人残された湯船の中で、ぐるぐると思考の坩堝にはまっていた。


 **************************************


 結局、俺ものぼせてしまった。ゆでスライムの出来上がりだ。

 どれだけ考えても何も分からなかった。

 まだ会って間もないというのに、ギアという少年は俺の心の中に深く入り込んでいた。

 俺に殺意を向けたギア。俺の妹を絶対に助けると言ってくれたギア。一体どちらが本当の彼なのだ?

 俺はよたよたとふらつきながらも腰にタオルを巻きつける。

 そのまま脱衣所の方へと向かおうとした――その時。脱衣所の方から誰かがやってくる気配がした。

 ……? 妙だな。

 ここは混浴ではない。温泉こそ一緒だが、木製の衝立で仕切られているため男女別である。

 そしてこの宿には現在、俺たちのパーティしか宿泊していない。パーティメンバーの男子は俺とギアだけ。つまり他に誰かがやってくるはずがないのだが……。

 ギアが忘れ物でもしたのか? いや、待て。温泉に忘れ物って一体なんだよ?

 などと考えたその瞬間、向こうからやってきた人物と目が合う。


「あ、ちょうど良かったです、ネル様。わたくしも今から温泉に入ろうと思っていたところなのです」


 ラピスだった。しかも何も身に付けていない。

 ………。

 はあああああああああああああああああああっ!?

 どういうこと!? 一体今、目の前で何が起きている!?


「でもネル様ひどいです。一緒に入ろうと約束したではありませんか?」

「一緒にって……えええええええええっ!?」


 もしかしてさっきの「一緒に入りましょう」って、あれ、本気だったのか!?

 いやいやいや、有り得ないでしょ!? このお姫様どれだけ無防備なの!?

 いや、それともこれが王族の嗜みというやつなのか……?

 未知の出来事に俺が驚愕していると、脱衣所の方から誰かが慌てて入ってくる音がした。


「姫様! どうして男湯に入っておられるのですか!?」


 リリィだ。どうやらラピスの後を追ってきたらしい。……少し遅いけど。


「男湯? なんですか、それ?」


 ……マジかよ。お姫様は男湯をご存知ないらしい。

 眩暈がしたのか、リリィは一瞬ふらつきながらも、甲斐甲斐しくラピスの体にタオルを巻き付けていく。


「少し目を離した隙にこのようなことになるとは……このリリィ、一生の不覚……!」


 そういうことらしい。

 だが、話はそれで終わらなかった。ラピスの体にタオルを巻きつけ終わったリリィはこちらにやってくると、ラピスを俺の視線から隠すようにして目の前に立ち塞がった。

 そして、物凄い形相で俺のことを睨んでくる。


「ネル殿……見ましたか?」

「な、なにを……?」

「言わずとも知れたことでしょう」

「み、見ていません」

「……本当ですか?」

「嘘ですね。ご主人様は嘘を付く時、右手で頬を掻く癖があります。ちなみに今も掻いていました」

「ク、クロ!?」


 クロがいつの間にか横に立っていた。

 というかこの女、ご主人様を売りやがったぞ!?

 リリィは深い、それはもう、ふかーいため息を吐いた。


「……ネル殿。王女殿下の肌を見たならば、それなりの責任を取っていただかなければなりません」

「せ、責任……?」

「はい。ネル殿にはラピス様の婿となっていただくか、もしくは宦官としてラピス様に一生尽くしていただきます」

「あまりに極端過ぎない、それ!?」


 ちなみに宦官とは男の一物を取られた状態で王宮に仕える者のことである。スライムだからちょん切られても何とかなるとはいえ冗談ではない。


「リリィ殿、もっと簡単で良い方法があります」

「ほう、クロ殿。それはいかなる方法ですか?」


 クロが良い方法と言う時点でもう既に嫌な予感しかしない。

 そして、戦々恐々とする俺に向かってクロは言い放つ。


「ご主人様。右目と左目、どちらから抉られたいですか?」

「両目を抉るのは確定しているのかよ!?」


 この子怖すぎるよ!? それとリリィが隣でやたらと感心しているけど、クロの影響を受けたまま王宮に帰すのがもはや申し訳なさ過ぎるレベル。


「リリィ、お話は終わりましたか? それではネル様、一緒に温泉に入りましょう」


 そしてお姫様は何一つ理解していなかった。

 世間知らずという言葉を超越しているだろ……。この先の旅を思うと俺は少し不安になった。

 その後、猛烈な勢いで女湯へと連れていこうとするリリィに対し、未練たらたら男湯から出て行ったラピスであった。

 ………。

 ギアとのやり取りなんか全部吹っ飛んだわ。




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