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幸せのメロン

 毎晩、花枝は和室の照明を点けたまま、障子を開けっ放して寝てた。

 物音が聞こえたら、神経過敏に跳び起きた。泥棒が天井裏から降りて来るんじゃないかと、ビクビクしてた。

 通りから丸見えになることも、花枝には気にならなかった。むしろ、丸見えの方が安心だと思ってた。

 通りを歩く人から家の中が丸見えなら、さすがに泥棒だって、何もしようがないでしょ。

 蝶子と鹿子は口うるさく障子を閉めろだの、照明を消して寝ないと疲れが取れないだの言ってくる。

 花枝は頑として聞かないよ。


 花枝が白内障になった。花枝は家の中でサングラスをするぐらい、光を眩しがった。そして、日帰り手術を受けた。

 花枝が数年間取っ払ってた和室の障子を、蝶子が説得して、一枚ずつ和室に戻していったの。

 それでも、花枝は夜だけは障子を閉めなかった。

 彼女の頭の中では、毎晩泥棒が襲って来る。

 鈍器で膝を叩かれたり、針で体中刺されたりしてるんだよ。


 花枝は蝶子がちっとも信じてないことをわかってる。蝶子は話を否定しなくなったけど、今でも照明をこっそり消そうとするからね。

 花枝は不満だけど、蝶子が花枝の肩が冷えないように冬は温かい毛布や肌着や肩巻きを買ってきてくれるから、とりあえず我慢してるよ。

 花枝の心配は、泥棒が蝶子を襲うんじゃないかってこと。

 でも、泥棒は蝶子のお金は盗らないし、物も壊さないし、蝶子は鍵もかけずに爆睡してるよ。

 花枝はなんで自分だけ、こんな目に遭うんだろう? って、いつも不思議なんだ。



 花枝は自分のことがソーカの新聞に載ってると思ってるよ。

 その話、やっぱり蝶子は信じてくれなかった。

「なんでお母さんのことが、全国区のソーカの記事になるのよ?」

 って、言う。

「わかんない。でも、載ってるのよ。私にはわかる」

 花枝は真剣に言い返す。

 花枝の推測ではソーカの新聞に、花枝が泥棒で万引き常習犯で、とんでもない大嘘つきだって書かれてる。花枝は近所の人がその記事を信じることが心配だ。


 心配は尽きない。

 花枝がカラオケ好きなので、泥棒はテレビを使って嫌がらせしてくる。

 花枝の好きな歌番組のチャンネルは、風の強い日は電波が弱い。これは泥棒が屋根に上がって、アンテナをいじったから。

 それに、花枝がNHKの受信料を払わないと、歌番組が減らされて、歌手さんが困ると思う。

 花枝のせいで、そこまでやられてしまう。


 花枝は蝶子に、真剣に頼んだ。

「私の半生を書いてほしいの。私は自分で手記が書けないから。私がどんなに迫害され、踏みにじられて、波乱の人生を送ったか、世間の人に知ってほしいの」

「えーっ…」

 蝶子はたまに趣味で空想小説を書いてるけど、ノンフィクションは興味ないみたい。

「蝶子、きっとベストセラーになるわよ」

 花枝は本気で言ってる。

「そんなわけないな」

 蝶子は笑った。



 クリニックのお医者さんは、花枝の病気を、神経伝達物質が減って脳が縮む病気だと告げた。

 花枝は病気のことはよくわからなかったけど、体調が悪いのはそのせいなんだなぁと思った。

 泥棒についての長話を、先生は根気強く全部聞いてくれた。

 先生が出してくれた耳鳴りの薬もよく聞いたし、いつも具合を心配してくれたり、元気そうだと喜んでくれたりする。他のクリニックの先生は嫌だったけど、花枝はこの先生だけ感謝してる。


 病気に笑いが効くらしい。

 花枝の気持ちが曇ると、蝶子がなるべく明るい話題に変えた。

 蝶子はテレビを観ない派だったけど、花枝とテレビを観る時間を作った。毎日一緒に夕食を取り、一緒にテレビを観て笑った。

 蝶子はいつも、花枝の好きな食べ物を買って帰る。花枝は和菓子や果物が大好き。

 花枝は夕食のデザートのメロンを口に運びながら、

「幸せねぇー。ささやかだけど、ね」

 と、微笑んだ。



 花枝と蝶子が一緒に暮らし始めて、半年。

 花枝の幻覚を見る回数が減り始めた。薬が効いてきたみたいだった。


 何年かして、花枝の幻覚、幻聴が殆どなくなった。

 花枝の興奮は、緊張や不安と関係あるかも知れない。

 夜中に天井を叩いて騒いだことも何度かあったけど、そういうのも次第に減った。


 暮らし始めて五年。

 蝶子が一安心した頃。


 真夜中に響き渡る、ドンドンという物音。

「出て来い、泥棒ー! 出て来いー!」

 まただ。蝶子は飛び起きた。

 近所に響く、花枝の大声。


 二階の東側の部屋のクローゼット。

 布団の棚によじ登って、花枝が棒を振り回し、屋根裏に向かって叫んでる。

「出て来いー! 泥棒ー! ゾッとするわ。どうしてそこまで卑劣な嫌がらせをせずいられないの? どうしてそこまで最低なの? 出て来なさいよー!」

 花枝は棒で天井を叩いた。


「お母さん!」

 蝶子が部屋に飛び込んで来た。

 蝶子には花枝が、丑三つ時、藁人形に五寸釘を打ち込む鬼女のように見えた。


「出て来い、泥棒ー!」

 花枝は金切声を上げた。

 我慢の限界だ。花枝は泥棒から苦痛を受けてる。屈辱的なことばかり。

 花枝は怒りで鬼になり、太鼓のバチを打ち鳴らすように、天井を打つ。


 花枝には、屋根裏で男達が毛布に包まって寝てるのが見えたよ。

 一人は坊主で無精髭の男。これが泥棒、前の家のお隣さんの息子だ。

 一人は長髪の、知らない男だ。

 泥棒は二人に増えてたんだ。


「お母さん、近所迷惑だよ。やめなよ!」

「何言ってるの、蝶子。こいつらのせいで…、こいつらのせいで…私は…」

 花枝と蝶子が取っ組み合った。

 もつれ、絡まる。

 蝶子が花枝をクローゼットから力ずくで引き摺り出す。


 蝶子は興奮する花枝を一階の和室に連れて行き、布団に押し込んだ。

「お父さん、助けてー。どうして助けてくれないのー? 見てるだけなのー?」

 花枝は真一の遺影を見ながら、泣いた。


 蝶子は二階の部屋に戻って、頭を抱えた。

 クローゼットの高さ2メートルもある木製扉が外されてる。幅は3メートル。扉を折り畳んで、左右に開くタイプ。


 翌朝、蝶子はかんかんに怒ってた。

「お母さん、なんでクローゼットの扉を外したの!? あれ、取り付けるの大変だよ!」

 花枝は憮然として答えた。

「そんなこと。…だって、泥棒が毛布を勝手に使って、屋根裏で寝てるのよ? 腹が立つじゃないの。だから、泥棒がクローゼットから屋根裏に昇り降りする時、窓の外から丸見えになるように、扉を外してやったのよ! あいつらの顔を見てやった。二人いたわ!」

 花枝は勝ち誇って言った。

 蝶子は花枝が幻覚を見たことがわかった。


「お母さん。あの扉、大きいから大変なんだよ。踏み台に乗って上を嵌めなきゃいけないし、バネを片手で押さえて、片手で扉を持って嵌め込まなくちゃならないんだよ。片手で持つには、すごく重いんだよ!」

 蝶子は小柄で筋力が少ない。

 案の定、二回ひっくり返って、扉を取り付けるのに一時間かかった。


 花枝はそんなこと、どうだっていい。

 泥棒達に仕返ししてやったから、気分がよかった。

 泥棒達は花枝の奇襲で、ちょっとは肝が縮んだだろう。

「ねぇ、蝶子。洗濯機壊れたから、家電屋さん呼んで。家電の修理する人に、ついでにクローゼットの扉付けてもらえばいいんじゃない?」

 と、他人事みたいに言う。

 蝶子が洗濯機を見に行ったら、コンセントからプラグが抜けてただけだった。



 蝶子は、花枝が自宅に一人でいるのがよくないと考えた。

 話し相手は、蝶子と鹿子だけ。


 きっと、世の中のゴミ屋敷騒動の高齢者や、騒音でお騒がせの方も、同じ状況なんだと思う。

 投薬したら快方に向かうんだけど、それは生半可なことじゃないの。

 血の繋がりでもなきゃ到底無理なぐらい、忍耐が必要になる。

 しかも、何年もかかる。

 必要なのは薬だけじゃない。もう一つ、重要なものがある。



 蝶子は花枝にシニア向けのカルチャースクールを提案した。

 発病前の花枝は活発で、カルチャースクール好きだった。

 スイミング、スポーツジム、書道、カラオケ。

 独身の頃は、お茶にお花に日舞、料理教室、洋裁、編み物、社交ダンスと通いまくってた。


 花枝はフラダンスを習いたかった。

 あれは前から簡単そうだと思ってた。花枝は日舞と社交ダンスをやってたから、フラダンスも出来ると甘く考えてた。

 残念ながら、老いというものは残酷で、花枝はフラダンスの振り付けが覚えられなかった。

 それに、フラダンスは中腰の姿勢が多く、足腰、膝に負担が大きい。


 蝶子が付き添い、花枝はカルチャースクールに三回通った。

 花枝と同年代の女性が、地域のコミュニティーセンターに集まってる。彼女達はとても楽しそうに踊ってる。

 花枝は人見知りで、誰にも打ち解けられない。モジモジしてる。

 ダンスの振り付けがわからなくても、何も質問出来ない。

 花枝はせっかく綺麗なフラのスカートを買ったのに、たった三回で退会してしまった。



 花枝の体が弱り、激やせした時期があった。それで、蝶子があちこち病院へ連れて行くことになった。

 花枝は一人では電車、バスに乗れない。

 ちょうど、蝶子が仕事を辞め、洋裁を習い始めた頃だった。

 傍目には、蝶子がニートで親のスネ齧りに見えたかも知れない。

 蝶子はその時期、花枝のことで手一杯だった。他人の事情はわからないものだよね。


 平日、花枝は蝶子と暮らし、日曜は、鹿子と出掛けた。

 鹿子は花枝のせいで事務員を解雇されたけど、美容の学校へ行って資格を取り、自宅開業した。

 本当にしっかり者の鹿子。それに彼女には才能があって、この選択はピッタリだった。

 鹿子は日曜しか休日が無いのに、毎週、花枝をカラオケと買い物に連れて行ってくれてる。



 蝶子は花枝が認知症の介護予防教室に通えないか、市役所やお医者さんに相談した。

 シニア向けカルチャースクールは失敗したけど、花枝には社会との接点が必要だ。

 花枝は引っ越し以降、うまく近所づきあいが出来てない。

 一日が昼寝と犬の散歩だけで終わってる。


 介護予防教室はジムがある。同年代の高齢者やスタッフさんとの会話があり、クイズやゲームや映画がある。楽しそうだ。

 人と温かく触れ合うと、花枝の心も穏やかになる。

 バスの運転手さんが、花枝が硬貨を払う時に、

「慌てなくていいですよ。気を付けて降りて下さいね。転ばないように」

 と、声をかけてくれた。

 花枝は一日嬉しかった。

「いい運転手さんだったね。今日は泥棒達の嫌がらせもなかった。いい一日だった」

 花枝は優しさや親切に餓えてると、蝶子は思う。


 花枝は自分の神経質なところを、子供の時のイジメのトラウマから始まったと自己分析してる。

 花枝は自分がどう見られたとか、どう思われたとか、異常に気にする。

 ちょっと笑顔で、

「おはようございます。お宅のお花、いつも綺麗ですね」

 と言われるだけで、一日中喜んでる。

 髪形を褒められたり、犬の話をするだけで、何日もそのことを話す。

 ささやかな幸せに満足するけど、孤独を感じやすい傾向があると思う。



 介護予防教室に通えるかどうかは、主治医の判断に委ねられる。

 認知症の進行が心配される場合や、足腰が硬くなって骨折や寝たきりの可能性がある場合、主治医が必要と判断する。 

 花枝の高血圧の処方箋を出してる内科の先生が、テンプレートに添って質問した。

「誕生日は言えますか? ご自分の名前はわかりますか? 100-3はいくつになりますか?」

 そして、この先生は、花枝に介護予防教室は必要ないと判断した。

 花枝にチャンスはめぐって来なかった。


 そうだよ、花枝は普段の会話は正常に出来るよ。

 最初の10分じゃ、病気だと気付かないほどにね。

 最近の花枝は認知症も進んできたよ。

 掃除機や洗濯機の使い方を忘れたり、電子レンジでレトルトが温められなかったり。レストランでトイレに行ったら、自力で元の席に戻れないし。冷蔵庫に同じものをいくつも買い込むし、同じ話をエンドレスで話すし、物忘れだけじゃなくて判断力と認識力も落ちて来たよ。

 認知症の進行を遅らせるお薬も飲んでる。

 でも、介護認定はアウトだったんだよ。


 これもあれも脳の病気なんだけど、花枝は理解してもらえない。

 花枝が本心から思うことを言っても、

「そんなことあるわけないでしょ。頭がおかしい」

 と、他人に言われ、

「あなたは思い込みが激しい性格ですね。直した方がいいですよ」

 と、言われてきた。

 思い込みが激しい性格じゃなくて、そういう病気なんだけれども。

 確かに迷惑な病気なんだけれども、本人は病気の自覚が無い。


 蝶子は落ち込んだ。

 介護保険料を年金から天引きされてるのに、介護保険適用の治療が受けられない。

 それって変じゃない?

 なかなか、うまく行かなかったんだ。



 蝶子には別の事件が起きた。

 蝶子が行ってた洋裁教室で、ある女の人が蝶子に言ったんだよ。

「あなたはお母さんを愛してないわ。お母さんの為に最大の努力が出来てない時点で、愛してるとは言えない」

 その人はとても立派な人だった。

 昨今の、親といつまでも同居してるスネ齧りニートという若者に、腹を立ててたんだと思う。

 蝶子は母親の投薬治療の為に同居に戻ったんだけど、その女の人の誤解は解けなかった。


 その女の人は更に、根掘り葉掘り聞いてきて、蝶子は渋りつつ答えた。

「蝶子さん。どうして市役所に行って、責任者を出せと言って、市長さんに直談判しないの? 母親を愛してれば、そこまでするはずですよ。市長さんに、なんでうちの母親の介護認定が降りないんですか、と言って、何が何でも通してもらいなさいよ。あなたは親不孝です。あなたは意地悪です。根性が腐ってます」

 彼女の批判は度を越して、おかしな方向へ行った。

 その人は自分の母親の近所に住んで、毎日夕食を作りに通ってるそうだ。


「蝶子さん。お母さんはあなたと同居したがってない。他に面倒を見てくれる人がいないから、嫌々同居してるのよ。不満があっても、我慢してるの。あなたと暮らして、お母さんは不幸です!」

 蝶子が涙ぐむまで、女の人は責めた。


 その女の人は目上の人だったので、蝶子はその場では言い返さなかったの。

 蝶子は後日、その女の人に言ったよ。

「ほんの数回しか会ったことないのに、私の愛情の何がわかるんですか? あなたがお母様を大切に思うように、私も母を大切に思ってます」

 そして、蝶子はその教室をやめて、翌月から別の教室に通うことになった。



 もっとも、その女の人の話には参考になる部分もあった。

「もっと話を聞いてあげなさい。フラダンスや介護予防教室を押し付けてはいけません。あなたがよかれと思っても、お母さんは他に気になることがあって、そのことで頭がいっぱいなの。それで、あなたの話が頭に入らないの。夜も眠れないぐらい、何か悩んでるの。暇だから昼寝してるんじゃなく、気になることが有り過ぎて、夜中に寝れてないのよ。それは、あなたがちゃんと聞いてあげられてない証拠」

 その件は、その通りだと蝶子も思った。


「もっと褒めてあげなさい。お母さんのお味噌汁、美味しいわ。お母さんが淹れてくれるお茶が、一番美味しいわ、とかね。大袈裟なぐらいに褒めるの。そうすると、どんなに頑固で偏屈な人間も、穏やかになってくる。人間とはそういうもの。あなたの親に対する接し方は、意地悪です。例えば、お母さんに食べるか食べないか尋ねるのは間違い。優しさじゃない。あなたが美味しそうに食べるのを見たら、きっと食べたくなるでしょう。だから、聞かずに作ってあげるべきなんです」

 その女の人は高齢で、人生経験も豊富だった。



 花枝は穏やかになってきた。

 最近、蝶子がやたらお世辞を言ってくるよ。

 チヤホヤおだてて、どうするつもりなんだろう…と思うけど、悪い気はしない。

 花枝の気分は明るくなった。


 以前の花枝は、薬の説明書を必ず読んだ。そして、薬をゴミ箱に捨てた。

 その為、蝶子は精神安定剤の説明書を薬局のゴミ箱に捨てて帰ってた。

 認知症が進んでからの花枝は、薬の説明書を読まなくなった。

 蝶子は精神安定剤を、脳のホルモンの薬と花枝に説明した。これは嘘じゃないし、大雑把に言えばそうなるよね。

 それで、五年半かかったけど、遂に! 花枝は自分で精神安定剤を飲むようになった!

 もう、蝶子がお茶にこっそり精神安定剤を溶かさなくてもいいんだよ。


 毎日必ず飲んでくれるようになって、花枝の状態がやっと安定した。

 蝶子は別のお医者さんに、花枝の介護認定を頼んだ。

 認知症が進んでたこともあって、今度は介護認定が降りた!

 蝶子と鹿子はハイタッチして大喜びした。

 これで、花枝をジムとカラオケ付きのデイケアに行かせてあげられる。


 統合失調症に理解ある、地域で一番優しいケアマネージャーさんが来た。

 介護保険で、花枝の家の階段にしっかりした手摺が付き、風呂椅子が高齢者用に替えられた。

 花枝は週に2回、デイケアに通うことになった。



 デイケアに行く日、花枝は着ていく服に悩む。

 カラオケの為にドレスを着たいけど、リハビリがあるからダメ。

 服を蝶子に選んでもらい、アクセサリーも付けて、朝早くからソワソワしてる。送迎バスが来る10分前からコートを着て、玄関の外でバスを待ってる。


 デイケアから帰って来たら、送迎バスの運転手さんとスタッフさんに深々と頭を下げて見送り、

「今日も楽しかったー。いっぱい歌ったー」

 と、嬉しそうに蝶子に話す。

 花枝は、

「蝶子。私の人生は挽回出来たよ。今、すごい幸せよ。蝶子も年を取ったら、絶対デイケアに行くのよ。本当に楽しい。幸せよ。ありがとう、蝶子」

 と、眸を輝かす。


 蝶子と鹿子は本当に嬉しかった。たぶん、今までにあげたどんなプレゼントよりも、花枝が喜んだからだと思う。

 花枝が想像してたより、デイケアは楽しいところだった。

 念入りに打ち合わせして、合いそうなところを厳選した。

 そのデイケアのスタッフさんと理学療法士さんはとても親切。花枝のプロ級の歌声を、みなさん褒めてくれる。

 花枝が同年代の女性と会話しながらランチを食べることは数十年ぶりだった。

 花枝はオシャレをして、綺麗に化粧するようになって、見違えるほど若々しくなった。


 花枝はクリニックの先生と、介護認定して下さった先生、ケアマネさん、デイケアのスタッフさん、リハビリの療法士さんにとても感謝してる。

 週2回が待ち遠しいほどだ。

 けど、元々メンタル弱いので、2回がちょうどいいと思う。


 病気の治療には、温かい触れ合いと、生き甲斐が必要だ。

 誰も、優しさ無しに生きてけない。


 花枝は今年もまた無意識に、夕食のデザートのメロンを口に運びながら、

「美味しい。幸せねぇ、蝶子。ささやかだけど、ね…」

 と、言った。



 今でも花枝は、

「うちの天井裏に、泥棒が棲んでるんです。私、見たんですよ。本当なんです。クローゼットの奥から屋根裏を覗いたら、坊主頭の男と長髪の男、二人いました。そいつらが時々降りて来て、家の中の物を壊したり、物を盗んだり、私の体を痛めつけたり、食べ物に毒を入れたり、ひどいことをするんです。警察は全部知ってるんですけど、まだ逮捕状は出ないみたいで、捕まえてくれません。いつまで我慢すればいいんでしょう…」

 と、誰にでも同じ話をしてる。


「はぁ? あなた、頭おかしいわよ!」

 聞いた人はストレートに言ったりするよ。

 蝶子は目で合図する。

「聞き流してあげて下さい。優しく接してあげて下さい。うちの母は、悪い人じゃないんです」


 花枝の妄想は続いてる。

 花枝と蝶子は、今日も喧嘩を繰り返してる。

 花枝は料理が出来なくなってきた。味噌汁も作れない。お味噌の溶き方を忘れたらしい。

 年内にはたぶん、何も作れなくなる。

 来年の前半には、洗濯も出来なくなってるだろう。


 いつか、花枝は蝶子と鹿子を忘れるかも知れない。

 花枝の体は病気がないけど、認知症だけが進んでいくから。


 何もかも思い出に変わっていくけど、蝶子は今日を忘れない。

 花枝が忘れても。

 笑う日、涙する日、怒る日。 

 日に日を重ねていく。





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