天井裏の泥棒、出て来い!
蝶子が実家に帰ってきた。
花枝はこう主張するの。
「ガスコンロの換気扇に隙間があるの。そこから天井裏に棲む泥棒が、私達を覗いてる。しょっちゅうコーヒー豆がなくなるのは、そのせい。私がどこにコーヒー豆を隠すか、あの隙間から見てるのよ。あの泥棒が毎日毎日、嫌がらせする。ソーカに頼んで、組織ぐるみでつけ回して、ずっと嫌がらせする。いつまで、こんなことが続くの!? こんなことが許されるの!?」
キッチンのガスコンロの換気扇フードに、油除けフィルターが嵌まってる。そのフィルターの近くに、僅か5ミリの隙間があるんだよ。
今、そこにガムテープが張られてた。
神経質な花枝が貼ったんだよ。
蝶子は紙とペンを持ってきて、花枝に説明した。
「お母さん、あの換気扇の断面はこうなってるんだよ。これがコンロで窓で、ここが換気扇ね。換気扇のフードの内側と、天井裏は繋がってないんだよ。煙を全部吸い出す為に、天井裏とは完全に分かれてるんだよ。ほら、見て。だから、天井裏からは覗けない。心配しなくても大丈夫なの」
蝶子は花枝を安心させようとして説明するけど、花枝は見ようともしないんだよ。
「蝶子、何言ってんの。こっちから隙間を覗けると言うことは、向こうからも見えるってことなのよ。見て来てごらん。あの隙間を!」
花枝は言い張った。
キッチンには椅子が一つ置いてある。花枝が煮炊きしてる間に座る椅子だよ。
蝶子は笑いながら椅子をガスコンロの前に寄せて、貼られていたガムテープを剥がした。
「お母さんこそ、見てごらんよ。ほら、中を照らしてあげる。天井裏と繋がってないよ」
蝶子が油除けフィルターを取り外し、スマホの照明を点けて、換気扇フードの内側を照らした。
花枝は嫌がって、見てくれないんだ。頑なに妄想の世界に居座る。
蝶子は段々苛々してきて、花枝の腕を取って、椅子に登らせた。
「ほら、天井と繋がってないでしょ。だから、覗けないよ。気にしなくても大丈夫だよ」
「こっちから見えるってことは、あいつも頭だけ天井から出して、キッチンが見えるのよ!」
花枝は目を瞑って、換気扇に背を向ける。
「見てよ。ほら、繋がってないし!」
蝶子の声も大きくなって来る。
「お父さん、助けてぇー」
花枝は死んだ夫を呼ぶ。
「蝶子は変。狂ってるよ。自分を見てごらん。怖いわ。お父さん、助けてぇー。助けてぇー」
花枝は空を見上げるように叫ぶ。
蝶子は言っても仕方ないんだってわかってたけど、理解を拒む花枝に悲しくなってきたの。
蝶子はたまに、自分の気持ちを抑えきれなくなることがあるよ。
「ほら、繋がってないって。なんでわかんないの!?」
蝶子と花枝はこうして、何度も喧嘩するんだ。
病気とわかってるから、花枝の主張を否定しないように気を付けてる。でも、時には、はっきり言うこともあるよ。
蝶子は介護師さんじゃなくて娘だから、結構遠慮なく母親に言っちゃうよ。
きつい言い方になることもある。仲が悪いわけじゃなくて、嫁だったら遠慮して言わないことを、実の娘は言っちゃうってことかな。
蝶子はいつでも花枝のことを思ってるよ。花枝を大事にしてくれない相手とは結婚しない、って思ってる。
蝶子は他人に、
「お母さんを入れる施設、探したら?」
って、言われるよ。
でも、花枝は舅と姑の介護をして、寝たきりになった夫を最後まで介護したの。大変だったと思う。
だから、蝶子も自分に出来る限り、花枝を支えようと思うのよね。
蝶子と花枝の過去には確執もあった。
蝶子は幼少時、頻繁に花枝に暴力を振るわれてた。
花枝はムシャクシャしたら子供を殴って、スッキリしたと言った。花枝の暴言が酷過ぎて、蝶子は少しトラウマになってた。
蝶子は独立心が強くなり、海外に一人でぶらっと旅行に行ったりするタイプに育った。
後から思うと、花枝の異常な神経質さ、妄想じみた暴言が、昔からあったかも知れないなぁ。
蝶子は花枝と喧嘩すると、何だか罪悪感を感じて、自分の部屋に引き籠った。
花枝が幻覚や思い込みを話している時は、否定しちゃいけないし、真実を説明する必要もないんだ。
諦めて、話を聞いて、そっとしておく方がいいんだ。
それがこの病気とのつきあい方だ。
戸惑うけどね。
花枝は数分後、興奮したことも何があったかも忘れてしまった。
花枝は蝶子のことに興味がなくて、何も覚えられない。
蝶子の食物アレルギーも、覚えられない。
「だって、私にとっては大したことじゃないんだもの」
だそうだ。
花枝は蝶子の病気や熱より、床に付いた傷とか、障子の破れ目とか、敷居の減り具合の方が気になる。
何でも泥棒にやられたと思ってる。
ヘアピン一つ曲がってても、泥棒にやられたと思う。
蝶子が実家に戻ってきてから、こんな感じで花枝は騒ぐ。
毎朝だ。一日もかかさない、日課みたいに。
花枝は朝、興奮していることが多い。
蝶子が起きてリビングに来たら、まず、
「○○が盗まれた」
って言う。
靴下だったり、コーヒー豆だったり、財布や鍵だったりする。
それを捜そうともしない。だって、盗まれたと思ってるから。
大概は、花枝が隠して、場所を忘れてしまっただけ。
蝶子が花枝の隠しそうな場所を探し、うまく見つける。
「そんなとこにあったの? 泥棒が隠して、私と蝶子を喧嘩させようとしてるのよ」
花枝は自分が隠したことは認めないんだよね。
でも、見つかることによって、やっと興奮が静まる。
蝶子は仕事に遅刻しない為に、毎朝十五分早起きすることにしたよ。探し物の時間だよ。
引っ越しして、効果はあった?
正直、余り無かった。
花枝はまた、庭の植物に除草剤が撒かれている、と言い出した。
前の家から車で一時間の距離なのに、あのお隣さん親子が来てる、とか、前のお隣の息子が天井裏に棲みついた、と思い込んだよ。
鹿子が花枝に、
「あの息子、死んだらしいよ。この間、近所の人に聞いたんだけど」
と、嘘を言った。
だけど、花枝は、
「泥棒がバレて、警察に追われてるのよ。それで、うちの天井裏に隠れてるの。悪い事ばっかりして来た罰ね。私が目撃したから警察にバレて、それで私に仕返しする為にこの家に来たの」
と、話の辻褄が合うような、合わないような考え方をする。
以前、花枝は玄関にあった大きな鏡を見て、家族の指紋を泥棒の指紋と思い込んだ。
花枝は大きな鏡を警察署まで持って行った。
「泥棒の指紋なんです。お隣が泥棒なんです。捕まえて下さい!」
警察はその手のことに慣れてるみたい。
特に冷たい対応でもなく、相手にしなかった。
花枝は何度も警察に行って騒いだり、弁護士を雇おうとして弁護士事務所に電話をしたりした。
前の家に住んでた時、花枝は玄関戸に南京錠を取り付けたり、ダイヤル錠を取り付けたりした。
で、何度も鍵を換えた。換えた回数は、数十回に及ぶ。
泥棒の侵入を防ごうと、必死だった。
南京錠の鍵をなくしたことも度々あった。その時はドライバーでネジを外し、玄関に入った。
花枝は常にドライバーを何本も持ち歩いていた。
花枝は泥棒対策で、仔犬を飼った。
その犬がアトピーになると、犬の皮膚に泥棒が排水口のヌメリを付けたせいと思い込んだ。
花枝から見て、近所の白いワイシャツの男の人は、みんな警察官だ。
警察がお隣の嫌がらせの証拠を掴む為、花枝の家に盗聴器を仕掛けてくれてる。
花枝は自分の軽自動車に警察の盗聴器があるに違いないと信じた。
花枝は毎日、警察に聞かせる為に、ガレージの車に乗り、運転席に座って、声に出して喋った。
「また○○を盗まれました…」
そして、探し物が見つかると、車へ飛んで行って、
「ありました! あったんです! ありがとうこざいます…」
と、泣きながら独り言してたね。
花枝はペットボトル飲料を飲んだ後、容器にマジックで目盛みたいな印を付けるんだよ。
泥棒に飲まれてないか、毒を入れられてないか、チェックする為だって。
自分の持ち物から家の物、何でも油性マジックで名前をデカデカと書く。果てはゴミ袋一枚ずつまで。
ちょっと恥ずかしい。
花枝はこう考えてるんだよ。
目が赤く充血するのは、尖ったもので目を突かれているから。寝てる間に目を突かれるから、爪楊枝と針を隠さなきゃいけない。
花枝は裁縫箱を庭のポリ容器に隠したり、化粧品をゴミ箱の底とゴミ袋の間に隠したよ。衛生観念はぶっ飛んでしまった。
「普通に暮らしてきただけなのに。私は何もしてないのに。なんでこんな目に遭わなきゃいけないの。いつまで我慢したらいいの。あと何年したら、泥棒を逮捕してもらえるの!?」
花枝は胸を突かれてると言って、証拠に、自分の裸の胸の写真を撮った。
毒を警戒して、歯ブラシと歯磨き粉を隠した。
化粧水を振ってみたら、洗剤を混ぜられてるから泡立った。そんな理由で、何度も化粧水を買い換えたの。
花枝からすると、窓ガラスや鏡に付く指紋は、全部泥棒のものらしい。
常に通帳・印鑑を持ち歩き、財布から現金を出してパンストに入れ、腹に巻く。
靴下の踵に穴が開くのは、泥棒が穴を開けたから。
靴の底が早く擦り減るのも、泥棒がブロック塀で靴の底を削ってるから。
ベランダの屋根の傷は、泥棒がドライバーで突いたから。
魚焼きコンロで魚を焼いたらすぐに洗わないと、汚れを犬に付けられて、犬が臭くなる。
泥棒が夜中にお風呂を使うので、お風呂が汚れてる。排水口にわざと髪の毛が詰められてる。
泥棒が勝手にホットカーペットを使うので、電気代が高い。
玄関の施錠忘れは、花枝が閉め忘れたんじゃなくて、泥棒が出入りしたから。泥棒が自分の存在をアピールしてる。
テレビの電波状況が悪い日は、泥棒のせい。
服が破れてたら、泥棒のせい。
洗濯物が乾いてなかったら、泥棒が水をかけた。
犬を繋ぐ紐が外れてたら、泥棒が邪魔な犬を追い出そうとして、わざとやった。
花枝の虫歯は、真一が無理やり退院させられた病院の看護師が、今でも毎週木曜の夜中に侵入して来て、花枝の口の中に虫歯菌を塗るから。
花枝の顔のシミも、その看護師が茶色いものを塗りに来るから。肘の内側のイボは、この時に覚醒剤か睡眠薬の薬物の注射を毎回打たれた痕跡。
歯科で、治療を頼んでない歯を勝手に抜かれた。
泥棒に自転車のハンドルを曲げられた。自転車のパンクは毎回、泥棒のせい。
泥棒は乾電池を盗んでいく。勝手に花枝の血圧計を使ってる。
牛乳が苦い時は、毒が入ってる。
泥棒が時々、アイスクリームや食パンを食べてる。数が合わないからわかる。
花枝の肌着を泥棒が着たので、襟口が伸びた。
ブラのワイヤーが曲がったは、泥棒の嫌がらせ。
掃除機が髪の毛で詰まるのは、泥棒の嫌がらせ。
花枝が生活の中で困ったことは全部、泥棒のせいになる。
「今日は病院行くから、支度してね」
と蝶子が言えば、
「なんで蝶子はいつもそうなの! そんな大きな声で言ったら、泥棒に丸聞こえじゃないの。先回りされて、また嫌がらせされるのに!」
と、毎回怒る。
蝶子の職場に花枝が押しかけたこともあった。
「私が泥棒の現場を目撃したせいで、娘がソーカに嫌がらせされてるんです。私のせいで、たくさんの人が巻き込まれて、迷惑がかかってます。私のせいで…。どうか、娘を守ってやってもらえませんか!?」
花枝が上司に頼み込んだ。
「僕、意味がわからないんだけど…」
上司は蝶子の前で、頭を掻いた。
数日後、蝶子はその職場を退職した。
花枝が時々職場に来て、蝶子の上司や職場の人に話しかけるようになったから。
花枝は遂に、二階のクローゼットの天井板を外して、天井裏を覗いた。
天井裏は薄く光が漏れ、真暗じゃなかった。
断熱材が敷かれていたが、花枝には断熱材が毛布に思えた。
「毛布に包まって、二階の天井裏で寝てるみたいよ! 今日はいなかったけど。たぶん、盗んだものを母親に届けに行ったか、こっそりトイレを使いに降りて来たりしてるのね。お腹が空いて、コンビニで焼き鳥を買ったのよ。犬の散歩に行って帰って来たら、門の前に焼き鳥の串が一本、落ちてたの。これが証拠よ!」
花枝は自分で、精神的に追い詰められてきた。
そして、花枝は初めて、夜中に大騒ぎした。
蝶子は深夜の二時半頃、物音で目を覚ました。
蝶子の部屋は二階。花枝は一階の和室で寝てるはずだった。
「泥棒、出て来い、泥棒ー!」
静かな住宅街に響き渡る大声だった。
花枝がキッチンの椅子に乗り、棒で天井を叩いている。
ドンドン。
「出て来い、泥棒ー!」
ドンドン。
花枝は鬼のような顔をしてた。
花枝は泥棒が心底憎くて、悔しくて、腹が立って、我慢の限界に達してた。
毎日覗かれ、嫌がらせされ、毒など危害を加えられてることが、限界まで辛かったんだ。
その頃、蝶子と鹿子はいいクリニックを探してたけど、なかなか見つからなかった。
福祉課で紹介されたところは断られ、自分達で連れてったお医者さんにも断られてた。
統合失調症は当時、よくわからない病気で、診てくれるお医者さんが少なかった。
蝶子は睡眠不足が幻覚を悪化させると聞き、花枝に睡眠導入剤を勧めた。
花枝は話す内容がおかしいので、既に内科で、睡眠導入剤や精神安定剤を処方されてたよ。
花枝はそれを、全部捨ててしまってたの。
花枝はどんどんおかしくなって、度々泣いてた。
妄想って、本人はとても辛い病気なんだよ。
自分が泥棒を目撃したせいで、周囲に迷惑をかけていると思って、蝶子や鹿子にいつも謝ってたよ。
次、花枝は夜明け頃に騒いだ。
浴室に大きな脚立を持ち込んで、天井の点検口を開け、
「出て来い、泥棒ー!」
住宅街に響く大声で、何度も叫んだ。
シューッ、シューッ。
花枝が点検口からキッチンの天井裏に向け、殺虫剤を撒く。
「出て来い、泥棒ー!」
シューッ、シューッ。
蝶子は飛び起きて、大慌てで花枝を宥めた。
花枝を落ち着かせて、何とか寝かせた。
そうして、真一が亡くなって三カ月後。
やっと蝶子は、統合失調症を診てくれる、口コミで評判のいいクリニックを見つけた。
意外なことに、新しい住所から近いところにそのクリニックがあった。
花枝にとっても、本当に天の助けだったの。
蝶子はまず一人で、クリニックに相談に行ってみた。
蝶子は花枝の状態を一つずつ話した。
今度の先生は、花枝の治療を断らなかった。
「大変だったね。でも、あと少しだよ。統合失調症には陽性と陰性があってね。妄想とか幻覚で騒ぐのは陽性だね。陽性は安定剤がしっかり効くから、大丈夫だよ。親孝行のチャンスだと思って、頑張ってね」
先生が仰った時、蝶子は目頭から涙が零れ落ちそうになったよ。
先生のお話では、一年ぐらいはこっそりお茶に精神安定剤を入れる。
脳内神経伝達物質のドーパミンが足りなくなって妄想になるので、ドーパミンの分泌を促すお薬だ。
そのうちに、花枝も自分が病気だったという自覚が出て来る。症状が辛いので、自発的にお薬を飲むようになると言う。
まさか、それが五年半もかかるとは。この時は思いもしない蝶子だった。
蝶子は希望の光が射すのを感じた。
何とか説得して、花枝をクリニックに連れてった。花枝は通院まで至らなかった。
薬がなくなる度、蝶子が薬の処方箋をもらいにクリニックに行った。
蝶子は悪戦苦闘しながら、毎日、お茶に錠剤を溶かした。
そのお薬は無色無臭で、ビタミンCみたいに少し酸っぱい。
日によって、お薬を飲ませられない日が続くこともあった。
「今日は私がお茶を淹れるわ。座ってて、蝶子」
なんて日もあるし、
「今日は暑いから、冷たいお茶が飲みたい」
と言われることもあったよ。
蝶子がうまくお薬を溶かしたのに、喉が渇いてないと言って、花枝が殆どお茶を口にしなかったり。
諦めかけたこともあった。
しばらくお薬を飲まさない日もあった。
でも、そうしたらまた、花枝が天井を夜中に叩いて騒いだ。
一度目の治療の時の精神安定剤より、二度目の治療の時のお薬はかなり進化してた。
花枝はだるくならなかったし、無気力になって居眠りしたりしなかった。夜もぐっすり眠るようになった。
治療が続いたけど、一年経っても、二年経っても、花枝は妄想に苦しんだ。
花枝はなかなか、自分が病気という自覚が持てなかったよ。