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家がゴミ屋敷の一歩手前までいった

 統合失調症って言うと、世の人達は、障害者年金たくさんもらってそうとか思うかなぁ。

 出ないよ。

 医療支援制度とかも全然教えてもらなくて、ずっと使ってなかった。

 それも精神科のお薬代が月々・数百円安くなる程度なんだけどさ。


 市役所の福祉課で紹介してもらったお医者さんに、蝶子(ちょうこ)が母親の花枝(はなえ)のことを相談した時、

「うちじゃ、そんな重症の患者さんは無理ですねー」

 って、断られたよ。

 別の大きな病院に何度か花枝を連れて行ったんだけども、

「ちょっと重症過ぎます。うちでは無理です…」

 って、やっぱり断られちゃったんだよね。


 花枝もその病院を気に入らなくて、

「さっき、売店でジュース買った時、前の椅子に座ってた人、裁判官のバッジ付けてたでしょ。あの人、私の裁判の裁判官よ。私の頭が大丈夫かどうか、見に来てたの。こういう病院に来てたら、私の裁判が不利になっちゃう」

 と言い、病院に行きたがらなくなった。

「被告のいないとこで、裁判なんかやらないよ」

 蝶子が説明しても、

「わかってるの。日曜に私の裁判をやってる。私の悪口を言わない人は、拘置所に入れられる」

「日曜に裁判やらないって」

「私の悪口を言うようになるまで、近所の人は拘置所に入れられる。私が不利になることを裁判で証言してくれる人は、五十万円もらえるの。私の頭がおかしいって証言する人は、車が買ってもらえたり、旅行をプレゼントしてもらえたり。お向かいにいつもクール宅急便が来るのも、そう。私には全部わかる…」

 花枝は興奮して言い張るんだよね。


「天井裏に泥棒が棲んでる。前に住んでた家のお隣が、泥棒するとこを見てしまった。夜中に、大量の精米する前の新米を、家族で運んでたのよ…。三十キロ入りの新米を、年寄り三人家族で一度に十袋以上も買うわけないでしょ。どっかの農家から盗んできたのよ…。私はそれを見てしまったから…。お隣はソーカに入ってたから、ソーカが組織力で口封じしようとしてるの。その為に、私の頭がおかしいとか、私がスーパーで万引きしてるとか言いふらしてる。あの家族が本当の泥棒なのに、私を泥棒に仕立てようとしてるんだ。あのお婆さんの息子が、今、引っ越して来た新しい家の天井裏に棲みついてる。私に嫌がらせする為に…」

 花枝は涙声になる。


 数年前、花枝がお隣さんともめて、近所にいられなくなって引っ越しした。

 それでも、花枝はお隣さんの恐怖から逃れられないみたいだった。

 可哀相に、花枝は本当に苦しんで、深刻に悩んでた。

 新しい環境には馴染めなかった。

 自分から挨拶して、相手の返事がよく聴こえなかった日は、自分の裁判と結び付けて考えてた。


 蝶子は現在の両隣の家の奥さんに、正直に話して頼んである。

「うちの母、統合失調症なんで。もし何かおかしなこと言っても、否定しないで、そーなの? って流してもらえませんか? 否定すると興奮するので…」

 とにかく、笑顔でご挨拶していただければ、それだけで有難い。


 花枝は見た目、平凡なおばさん。若い頃はとても美人だった。

 おかしな人には見えない。優しそうな、おとなしい人。

 でも、時々激昂して泣き喚いたり、大声でおかしなことを口走ったりする。それ以外は、本当に普通。



 蝶子が花枝の異変に気付いたのは、もう何年も前になる。


「近所のスーパーで、万引き犯扱いされた。買い物に行くのが怖い。蝶子、ついて来てよ」

 花枝から言ってきた。

 その頃、蝶子は実家を出て、一人暮らしをしてた。妹は二十歳で結婚していて、花枝と真一は夫婦二人きりの生活をしてた。

 蝶子はその話を聞いて、腹が立ったんだ。

「失礼だな、その店員」

 勿論、スーパーについて行った。


 花枝の話では、スーパーに怖い顔の女店員がいて、花枝の後ろをつけ回し、買い物カゴの中を絶えずチェックするんだそうだ。

 そして、レジでお金を払う時も、レジ係の横に立って、花枝がお金を払うまで睨みつけてるんだって。

 蝶子は花枝の話を丸々信じた。

 花枝は嘘が付けない、とても真面目で几帳面な性格だったから。


 だけど、田舎のごく小さなスーパーで、そんな失礼な店員は見当たらなかった。

 蝶子は花枝の何メートルか後ろを歩いて、店内の様子を窺った。特に問題なかった。

 花枝が買い物の代金を支払い、二人で駐車場へ出る。

「お母さん。今日は大丈夫だったね。よかったね」

 蝶子は安心して言ったんだけど、

「見た? 蝶子。レジの横に立って、腕組みしてた女。こっち睨んでたでしょ。あいつよ」

 花枝は本気で怯えてた。


 その時だよ。

 蝶子は花枝が幻覚を見てることに気付いた。

 ないものが見えてたんだよ。


 最初、何が起きたのかわからなかったけど、花枝は典型的な被害妄想を話すようになった。

 監視されてる、盗聴されてる、中傷されてる、尾行られてる、そういう類いだ。

 家の中に盗聴器があると思って、そこら中探したり、電話が盗み聞きされてると思って、

「しっ。この話、聞かれてるから!」

 と、よく言ってた。


 向かいの地区集会所の二階に警察がいて、カーテンの隙間から二十四時間監視されてると言った。

 お隣のお婆さんに、垣根や庭の植物に除草剤を撒かれたと思い込むようになって、お隣と何度も喧嘩した。


 一番最初に見てもらったお医者さんは、

「更年期の妄想症です。睡眠導入剤を出しておきますね。毎日ちゃんと寝たら、すぐよくなりますよ」

 って、診断した。

 ちっともよくならなかった。


 花枝は誰かに毒を盛られてると思い込むようになった。

 真一の高血圧の薬を捨ててしまった。シャンプーや台所洗剤を捨てた。蜂蜜や砂糖、コーヒー、牛乳、ミネラルウォーターなどを、いつも一口飲んだだけで、開封したばかりなのに捨ててしまった。

 よく、白い車を覆面パトカーだと思い込んだ。

 カラオケで新曲が歌えると、頭が正常だと思ってもらえるので裁判が有利になると言って、三百曲の歌を覚えた。


 何が病気のきっかけだったのか、わからない。

 お隣さんの夜中の買い物を見たことがきっかけなのか、それすら幻覚だったのか。

 明るい笑い声の家庭は、花枝が一日に十回も妄想を話すようになって、いっぺんに暗くなった。


 花枝は親切で、とてもいい人だ。

 ちょっと心配症で人見知りだけど。

 子供の頃にイジメに遭い、担任の先生がひどかったとよく言ってた。トラウマになってるらしくて、対人恐怖症の傾向があって、引っ込み思案。

 でもまぁ、長く働いてた職場を辞めた後は、専業主婦をしながら趣味の農園と園芸とカラオケに、溌剌として明るく生きてた。


 長女の蝶子が一人暮らしして、次女の鹿子(かのこ)が結婚して、夫婦二人きりの生活の間、花枝は世間から少し遠ざかってた。

 娘達が気付かない間に、花枝は少しずつ病んでいったんだろう。



 蝶子が一年に何度か帰省すると、実家がゴミ屋敷の一歩手前まで物が溜まってた。

 蝶子は帰省する度、いらない物を捨てた。花枝は使わないはずのパッケージとか紙袋、スーパーのお惣菜が入ってたパック、デザートのプラスチックのカップなどを山のように溜め込む。

 それで、鹿子(かのこ)が、

「テレビでゴミ屋敷のお婆さんの話観たんだけどさぁー、統合失調症の症状の一つなんだって。あれ、うちのお母さんもじゃないの?」

 と、言い出した。


 蝶子は本屋さんで立ち読みして、調べたんだよ。

 そしたら、花枝の最近のおかしな行動が、殆ど統合失調症に当てはまる。

 蝶子と真一は頭の中真っ白になって、どうしていいかわからなくなった。


 蝶子は市役所の福祉課に相談に行った。

 詳しい話をして、たぶん統合失調症だろうってことになって、病院をいくつか紹介してもらった。

 そして、その全部で断られたんだよ。

 大抵の病院は、認知症と睡眠障害と摂食障害と鬱病しか診てくれないんだと。


 蝶子はネットで専門のクリニックを探したよ。

 専門のクリニックで評判がいいところは、本当に少ない。

 大抵、口コミでボロクソ書かれてる。

 患者の心に傷付けるような、理解のないことを言われたとか、そんな話が山ほど出てる。

 何より問題だったのは、花枝が自分を正常と思ってて、その手のクリニックに行くことを嫌がるということだった。


 花枝の症状はいったん火が点いたら燃えるように、劇的に悪化した。

 花枝はいろんな幻覚・幻聴に悩まされ、一時的にパニックになってた。


 本に書いてあったり、専門家に受けたアドバイスは、患者の話を否定しないこと。

 安心させること。話を聞いてあげること。

 興奮している時には、さりげなく話題を変えること。

 本人はとても深刻に悩んでる。親身に話を聞いて、

「私にはわからないけど、お医者さんならわかるかも知れないから、話聞いてもらいに行こうか」

 という方向に持っていく。


 この最後のところが、死ぬほど難しい。

 精神安定剤を飲ませるのも難しい。本人は自分が病気だと思わないので、薬を自発的に飲もうとしない。


 統合失調症って、心が壊れるみたいに思ってる人がいるかも知れないけど、それは違う。

 脳内の神経伝達物質のバランス、感情の起伏をコントロールする物質のバランスが崩れてるだけ。例えば、ホルモンの異常みたいな感じだよ。脳のドーパミンの量を調整するお薬をもらうの。

 体の健康が損なわれるのと同じ理屈だよ。


 遺伝子は大概の人が持ってる。誰でもなる可能性がある病気なんだよ。

 花枝の親族で、他にこの病気を発症した人はいないんだ。

 理解してもらえたら、嬉しいなぁ。



 蝶子は何とか花枝を宥めて、病院へ連れてった。

 蝶子は車の免許を持ってないので、電車に乗るしかないよ。

 駅に着いた時、花枝は急に、停車してた一台のトラックに近付いた。

 花枝は開いてた運転席のウィンドーを覗き込み、トラックの運転手さんに向かって、

「私立探偵に雇われてるんでしょ。わかってんだから。もう顔を覚えたから、次から私を尾行けるのは無理よ!」

 と、怒鳴った。

 運転手さんはポカンとしてた。

 バス停にいた人達は、何事か? と、こっちを見てた。


 花枝は電車の中でも、ずっと、

「あの男の人は私立探偵よ。あの女子大生も、私立探偵に雇われてる。私が行くところを先回りして、行く場所に私の服装とかを伝えて、私が頭おかしいって言いふらすつもりなの。私には私立探偵と私服警察官が全部わかるの。ピンと来る」

 と、ヒソヒソ話す。


 タクシーに乗った時は、花枝は興奮して、

「蝶子。後ろのタクシー、ソーカだわ。あの泥棒に頼まれて、私を尾行けてる!」

 と、言い出した。

「あっ。隣の車もだ。こっちの車も。車のナンバーをメモしなきゃ。七台で囲まれてる!」

 花枝は大騒ぎして、レシートの裏紙にボールペンで、周囲の車のナンバーをメモし始めた。

 タクシーの運転手さんはドン引きしてた。


 花枝はこうして、病院へ連れて行こうとする度、神経をピリピリさせた。

 睡眠導入剤や精神安定剤は、全部毒だと言って、捨ててしまった。飲んでくれなかった。


 蝶子は花枝抜きで、病院の先生に相談した。

 蝶子が精神安定剤を、花枝のお茶にこっそり仕込むことになった。

 花枝に見られずにお茶に入れるのは、とても大変だった。

 最初の薬はかなりきつくて、花枝は昼寝ばかりするようになった。体がダルイと言って、好きなカラオケもやらなくなった。

 花枝が好きなことを出来なくなって、活発さが落ちるのは、蝶子には可哀相に思えた。


 その病院にも結局断られ、見捨てられた。

 診てくれるお医者さんがいなくなって、家族は困った。

 それに、蝶子も鹿子も真一も、花枝の変化を受け入れられなかった。衝撃過ぎた。

「否定しちゃいけないんだって。否定すると、余計に妄想が悪化するんだって」

 蝶子が言っても、真一と鹿子は、メソメソ泣きながら訴える花枝に対し、

「そんな馬鹿なことあるわけない。考えたらわかるはずだよ。お母さん、暗い話はいい加減にして!」

 と、突き放した。


 統合失調症の患者に一番してはならないこと。

 否定。

 本当は、相手を尊重してるんだよってわかるように優しく話を聞いて、

「そうかも知れないね。だけど、そんなに心配しないで。みんな、お母さんの味方だよ」

 って、落ち着かせてあげればよかったんだけど。


 誰だって、大切な家族が急におかしくなっちゃったら戸惑うし、信じたくないし、混乱するんだよね。

 この時の家族の反応は、避けられないものだったんだと思うよ。


 で、花枝は泣き喚いた。

「なんでわかってくれないの。世の中全部狂ってしまった。私しかまともな人がいない。みんな、泥棒の言うことを信じるのね!」

 花枝は近所中に響く大声で喚き散らしたり、ゴジラみたいに床をドスンドスン踏み鳴らして暴れた。

 怪獣みたいだった。



 真一はコーヒーが好きな花枝の為に、コーヒー豆を挽く器具とドリップのセットを買い揃えた。

 ブランドのコーヒー豆を買って来た。

 味覚と嗅覚が脳を刺激して、神経が落ち着いてくれたらと思ったらしい。

 真一の愛情も、残念ながら花枝の病気に効果がなくて、花枝の前頭葉は縮んでいった。


 花枝の治療は一回目、頓挫した。

 蝶子は他府県で一人暮らしを続け、花枝の治療がないまま、時間が過ぎた。



 真一が脳梗塞で倒れた。

「人生で一番ショックだったのは、自分の奥さんの頭が変になったこと」

 真一が言ってた。


 真一は脳梗塞の名医がいる病院に入院したけど、花枝がそのお医者さんに向かって、

「脳梗塞なんか起きてない。そのCTの画面に、埃が付いてるんだと思います」

 とんでもないことを言った。

 そして、真一が転院させられた。


 真一の転院先でも、花枝は看護師さんともめまくった。

 蝶子が他府県にいたので、いつも病院に呼び出されるのは次女・鹿子だった。

 真一は脳梗塞で倒れた時、背骨の一部を骨折してた。花枝はそれを、看護師に殴られたものだと主張した。真一の爪が折れた時も、看護師がやったと騒いだ。

 度々、病院に呼び出された鹿子は、事務員の仕事を解雇された。

 それから、真一は殆ど無理やり退院させられた。

 真一は脳梗塞の後遺症もあり、寝たきりになった。



 蝶子は一週間休みを取って、実家の引っ越しの荷造りをした。

 引っ越しして、お隣さんと離れれば、花枝も落ち着くかも知れないと、家族で相談して決めた。

 鹿子が即入居可の中古物件を探し、手続きした。


 ゴミ屋敷一歩手前だった家は、大きなゴミ袋にゴミを詰めても詰めても、ゴミが減らなかった。業者に頼んで、数十袋のゴミを回収してもらった。

 壊れた椅子や籐の椅子が何脚も、納戸化した二階に積まれてたし、恐ろしい状態になってた。

 早朝から深夜まで、蝶子は一人でゴミ出しと荷造りに励んだ。時々、鹿子が応援に来た。


 そんな時も、花枝は寝たきりの真一と二人で、居間でお茶を楽しんでた。

 花枝は引っ越し作業を一切手伝わなかった。まるで他人事だった。


 蝶子は花枝の治療を再開するべきだとわかってたけど、真一は花枝に介護してもらうことを望んでた。

 花枝は興奮した時以外はまともで、相変わらず優しく、真一に献身的だった。

 花枝はきつい精神安定剤を飲まされると、グッタリして昼寝ばかりしてた。だから今は、真一の為に蝶子は投薬を諦めようと思った。


 鹿子は真一の往診の先生に、花枝も診てもらえないか、頼んだ。

 その先生は人格者で知られてて、地域で人望がある先生だったけど、数カ月後、

「あなたのお父さんは明るくていい人で好きだけど、お母さんはね…。お母さんの病気はわかってるけど、正直、これ以上は耐えられません」

 と、真一の往診を断ってきた。



 新しい家に引っ越しして一年後、真一が誤嚥性(ごえんせい)肺炎で亡くなった。

 花枝は真一に愛情いっぱい、献身的に介護をしてきた。

 花枝は夜中も何度も起きて、真一の寝ている体勢を変えたり、タンを吸引したりして、慢性的な睡眠不足になってた。

 その結果、花枝の脳は以前よりも委縮が進んでた。前頭葉だけじゃなくて、側頭葉まで委縮してきた。

 そうすると、軽度の認知症の症状が出て来る。

 アルツハイマー型認知症とは違うんだけどね。アルツハイマー型は全体に脳が縮んで来るからね。


 蝶子は実家に戻る決心をした。

 ちょうど、財産のあるおうちの一人息子と結婚話が出てたけど、子宮の病気をして子供が出来なくなった。蝶子の結婚はパアになった。

 蝶子は花枝の投薬を再開することにした。簡単じゃないのはわかってた。


 蝶子は一人暮らしの荷物を処分して、実家に戻って来た。





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