ニギハヤヒと天孫族
ハプロで話しが出来ないのは本当に問題がある。神話読み解きならその手の専門家には適わないからだ。それでも一つの九州四国山陰を繋ぐ円の文化圏に天孫族が居たと言うのは中々良いと思う。
ただもともとの天孫族はやはり北九州だと思う。その理由は高木神にまたなる。高木神はどうみても縄文の神様かかなり古い神様になる。新しい闘争の時代の神とは思えない。誰かが高木神に別の意味を付け加えた事になる。それが九州からスタートする高木神信仰だと思う。ただし高木神社は奈良に多い。これについては天皇家の移住だと見てる。
高木が高良になったのがキーだと見てる。その人物がスサノオや徐福じゃないか?など言われてるが、これニギハヤヒじゃないか?って話を見た。これあるかも。天孫信仰と高木神信仰が婚姻を結んだ事を系図にしたと見てる。そうやって見ていくとやはり徐福なんじゃないか?と思えてくる。日向3代と徐福は全然ずれてる。スサノオの方が近い。
高木神信仰を持つD系の縄文海人の一族の父が徐福みたいなグループの母と婚姻する。これによって出来たのが日向3代となる。おそらく神社という形が縄文時代には無かったため、実際神社を作ったのはニギハヤヒ系となる。ただ元からある高木神の信仰があるため、神社の系統は東に行くほど別グループになると見てる。
ただし、天皇家と同じ海人D系が地方にも居ると思われるため、そのグループである可能性もある。これだと父と母が逆転してしまう。その辺りが難しさだと思う。スサノオが間に入るとすごく楽なのだが、ごちゃごちゃするだけなので面倒。こうなると北方系の問題が出てくる。
高良への変化はスサノオかニギハヤヒだと見てる。やはり高木神社に先に徐福のような先進的な中国人が結びついて九州で神社を作っていったというのがあるのじゃないかと。海人信仰と中国渡来人ならある程度結びつきやすいんじゃないかと。
ただニギハヤヒは物部氏によると自称天孫だが、天皇家は認めてない。これが大きな問題。高良神社の近くからニギハヤヒの随行のメンバーは集められていて、これが初期稲作文化の地と重なるのがなんとも。
縄文か渡来か?ならニギハヤヒは間違いなく渡来だと思われるが、もちろんハプロはどうでも良い。あれはなんども書くが父系があまりに過去いい加減なのでなんともつらい。出雲か?天孫か?だとかなりややこしい。
私は、ニギハヤヒの東征はかなり早かったと見てる。そのタイムラグが問題になってると見てる。ニギハヤヒ自身が私は天孫の血が薄いと述べてる。まず早くに東に向かったための胡散くささ、次に系図が正しくてもおそらくそこに大量に流れる出雲の血の濃さ。これを記紀では重視してる。そしてこれは当然物部氏の自伝では触れてない。
中臣氏などと同様天神だが天孫じゃない。その辺りかと。以前話した噴火による移動、これを裏付けるような話が見つかった。越智氏と言うのが四国にいて、ちょうど私が述べた四国北西部に当たる地区の氏族になる。この氏族物部氏に近いんじゃ無いか?と言われている。北九州の一部のグループがBC200年前に噴火にあってそこから円状に広がった可能性について。
ニギハヤヒはこのグループである可能性が高い。それゆえ天孫だという気持ちが強くて、この地域後に出雲に支配されている。出雲であり天孫。これがあったんだ。ただし越智氏の祖先神は天皇家だと自称してて、かつ謎のグループとはされてる。その中でニギハヤヒじゃないのか?が言われてる。
それと言うのも欠史8代に祖先を持って来る捏造が増えたのは、ニニギやニギハヤヒの子孫だと言う人たちが神様じゃなくて人にしたからじゃないか?と言われている。欠史8代は捏造に都合が良いとされてて、かなりの数の胡散臭い捏造がこの欠史8代に集中している。
天孫であり出雲である。北九州に近い高木神のグループであり、かつ出雲である。こういった人たちが神武のヤマトいりを支えたのではないか?かつ、神武自体その可能性がある。
物部氏は軍事ばかり見てたけど、その一族の中で鍛冶師のグループがある。これが天目一個になる。ニギハヤヒが謎なのは、ニギハヤヒは誰の子供なのか?これが分からない点。出雲、阿波、ニギハヤヒ。この3つが何か紀記は隠してると見てる。それゆえニギハヤヒから上には遡れない。
いやそもそも隠してるのではなく、分からない可能性もある。物部から匂う忌部に匂いも円形の広がりを考えたら四国が深く関係してるかではないか?と見えてくる。天孫降臨は、ニギハヤヒの四国での神話が元になって最初に出来たものじゃないか?となる。ニギハヤヒが天孫族であり出雲族である可能性は高い。
それはスサノオがおそらくかなりの範囲を勢力下に収めて、北九州と出雲の境目は流動的に変化してる可能性がかなり高い。
九州グループがニギハヤヒを北九州の別働隊とは全く見てない。そこに神武東征の謎があるんじゃないか?と見てる。神武東征は神武天皇の個人的事情だと思われる。何度も書いてるがマイナスの理由での移動になる。当時不作だった話も出てる。倭国大乱の原因の1つでもある。これは古代の気候調査で異常な雨量があった事が判明してて、これが収穫に影響しないわけが無いとなっていた。
問題はそうじゃなくて、何故ニギハヤヒ系物部は神武とグルになったのか?になる。史実どおりなら全く大軍団じゃない。そこで考えられるのは最初から迎え入れられた形になる。だがそれだと神武の背景が無さ過ぎる。送り出した人々が神様になってるからだけど。神武と物部はむしろ、ヤマトの地で融合していったと見てる。
じゃ合議ではないのでは?そこでタカミムスビ繋がりというのが出来るんだ。物部と天皇家は真正面から武力でぶつかったのはまず無い。おそらく天皇家は北九州文化で育ってるから好戦的。だが物部を征服したわけじゃない。無視できない存在になって組んだ。その後出雲勢力も巻き込んだ。理由は物部が帰順したら右に倣えになったと見てる。
出雲であり天孫なのは神武じゃないおそらくニギハヤヒだと思う。北九州とは独立した思惑で結びついた合議だと思う。すべてはニギハヤヒ=物部がどう動くか?で決まると見てる。だからここが分からないというのがかなり困るんだ。
だがニギハヤヒがどうやら九州から四国を絡めて広がったとなると阿波出雲ニギハヤヒ全部が繋がる。もちろん宗家ともいえるような物部氏は直接河内にいった可能性が在る。でもその間の四国にはすでにニギハヤヒの系統が広がっていた可能性がある。当然山陰側は後から出雲に支配されてしまう。
九州まで行ったのか?が定かじゃないが、広島や岡山は出雲の勢力範囲だったと見られている。越智氏の先祖を散々探ってる人たちがいたけど謎だったが、天孫族なら話しは違う。やはり2つの理由からニギハヤヒは排除されたんだと思う。それは隠された謎もあると思うが、多分それだけじゃない。
ニギハヤヒが天孫である事に確信が持てない。当時落ちぶれていた物部にそんな地位を与える必要が無かった点。そこが天武天皇を育てた海部氏の本家である尾張氏との差になってると見てる。私自身も正直出雲なのか?天孫なのか?ニギハヤヒは分からない。
ただ以前書いた噴火で広がった北九州北東のグループの海を挟んだ円の範囲が、出雲に後から支配されるって点が中々馬鹿に出来ないと見え始めた。
スサノオから国譲りの流れを見ると、スサノオは一度やはり九州まで勢力範囲を広げたのじゃないか?と思ってしまう。それがアマテラスとスサノオの誓約だと見えてる。何らかの婚姻関係が結ばれた可能性。
神武東征のルートから広島と岡山はほぼ確定だと思う。それがニギハヤヒだった可能性は高いが。国譲りが北九州の出来事じゃないのか?はちらほら言われている。スサノオが広げた勢力から出雲勢力を追い出したって歴史になる。だから出雲は今でも特に変化が無いと。
スタートは、新石器時代の海人達になる。その中で来たのか?分からないのが中国東海岸の住民になる。彼らが稲作民としてやってきたのはほぼ間違いないが、海人として先行してきたのか?は分からない。ただその可能性は私はあると思ってる。支配層となりえたか?は分からない。遺伝的に日本に多いO1b2の47z系には日本で増えた理由があると見ている。最大の理由は藤原氏だと見てるが、その前から、何かしらの原因があったのじゃないか?と見てる。
この次に早期の水田稲作のグループがある。まず最初に粗放稲作の伝播になる。これは日本に来たか?分からない。縄文人が、ある時期から陸稲を水稲のように植えていた時期があるらしいのだが、ほとんど広がらなかった。これが半島に伝わった早期粗放水田の模倣じゃないか?と言われてる。
まだこのあたりだと中国の文明が進んでない。ここから夏王朝、長江文明の衰退が絡んだO1系の北上が始まる。ただこの点水田稲作ですべてを括るとまずい。明らかに漁業も水田も捨てたグループの北上が見られるから。一つは夏(それに類する巨大王朝)に絡んだ胴の採掘。次に、私は発展した水田に移行する前の雑穀畑作の中の1つの作物でしかなかった農民の移住があると見てる。これが粗放水田の流れになる。
私は稲作を捨てたグループをもっと重視すべきだと思う。これは日本人の悪い癖だと思う。O1B2が北方に多い理由はおそらく長江文明衰退前から畑作で広がったと見ている。元々何故山東省で発達した稲作が始まったか?と言うと畑作文化との融合が大きい。乾田と灌漑。この2つがキーになった。りょうしょ文明から灌漑はあったようだが、どうも山東省はその文化をいまいち受け継いでない。
りょうしょ文明の稲作はどこへ行ったのか?は結構謎。新しく山東省で見るべき。稲作において呉から直接ルートを語る人はあまり知らない。なおかつ日本独自で発達した部分もあり、これが半島で古い水田が見つからない理由になってる。日本でさらに生産性が上がったからになる。
そもそもすでに山東省が遼河文明の範囲であるため、遼河人としてみるべき。日本人の朝鮮人嫌いはどうにかならないのか?と思う。日本人の祖先が長江人なんてのは的外れ。大半の遺伝子はO1が一部混血したシベリア系のN遼河人でほぼ朝鮮人と同一。朝鮮人との大きな違いは、より北西のツングース系と西方華人の割合が全く違うのが一番大きい。しかも日本の北陸東北やアイヌなどは北西ツングースとつながりがある。
遺伝的な日本人はほぼこれで語れる。縄文人なんてここに振りかける香辛料みたいなものでしかない。これらと支配層とは一部あるだろうね。この中で重要なのは、早期の弥生人になる。これは北九州の一部の縄文人が主導で混血と稲作受け入れが進んだことが分かってる。この人たちが一番縄文系支配層に近いと思ってる。次が海人になる。
後これらに絡んで斉による東夷の討伐がある。これによる山東省人の移住が考えられるが、この場合直接きたか?がかなり難しい。私はこれも、半島への北上の方が深く関わってると思う。クナドもちょっと触れておこうと思う。殷のいろいろ関わってくる。まず殷とそし朝鮮。そし朝鮮の馬韓の最後の王準王は日本に消えたとの伝説がある。
日本は殷系の青銅器が多いとは話したと思う。遼河に多いものじゃなくて、直接準王が日本で支配層になった可能性。スサノオの前の出雲王朝になる。ただ殷に絡んで、殷の甲骨文字がシュメールから来た可能性について。
馬鹿な話し出てきたなとなるけど、日ユ同祖説もこれだと思う。シュメールから多くを学んだユダヤ人と親子じゃなくて、兄弟として文化が類似した可能性。甲骨文字の原型に日本の神代文字が関係してるのじゃないか?
もちろん日本が漢字のルーツなんていわない。大半の神代文字は偽者だから。だが神社にあるヒエログラフだけは全くの偽者と言えない可能性がある。エジプトとシュメールの関係と似てて、エジプトのヒエログラフはシュメールから直接学んだんじゃなくて、感性的に文字を作るヒントになった説がある。
これと同じで、絵文字から始まったルーツとして元のヒントになる文字があったのじゃないか?それが東夷から伝わったとは言われてるし、そもそも殷がもろ遼河文明人の末裔だからになる。後の東湖と同祖じゃないのか?とは言われている。このグループがマレーから出発して、フィリピンで人種変換を起こして台湾系になって東アジアに北上したことが分かっている。そしてマレーまではG系の中東、インドの流れで人種が追える。
マレーからインド系が強くなってしまって、これがさらに台湾系が強くなって北上したり、南下してポリネシア人になっている。この原因は母系のmtDNAB系だからになる。ただしマレーで置換が起こった理由は分からない。これは母系も変化してる。文化だけの伝播の可能性がある。
台湾中国東海岸、出雲クナド神の流れになる。おそらく隼人もこのグループ。出雲末裔って人で富家ってのがあるけど、この人がシュメール系でスサノオは後から来たんだと話してる。どちらにしろ私はこれ歴史的には無視して良いとは思ってる。
呉滅亡後の支配層に秦の時代の居住民、秦の時代で難しいのは、徐福などのように、東海岸から直接やってきた人たち。徐福以外にもいるだろうと見てる。イザナギ、イザナミの歴史と共通性から呉の滅亡民の神話だろうと見られてる。タカミムスビの方が古いじゃないか?だから神社とはまた別だと思う。
高木信仰と渡来人が何故か?結びついたと見てる。だからタカミムスビからイザナギイザナミが生まれたとなる。信仰の時代変化を表してると見てる。秦の続きで、新羅系ってのがある。これは有名で辰韓秦人が多いとは言われてる。日本に来た秦氏もここの生まれになる。このメンバーの中で本当に始皇帝と同じハプロもいる。だがそれは何度も書いてるが、秦に繋がるのか?または秦が元いた山東省の住民の下になた遼河人のものと区別がつかないと書いてる。
徐福も全く同じ。日本に来てる秦系はまずハプロが出鱈目である点。これは以前書いたそもそも秦の労働民は異民族が多かったからになる。ハプロも全く出鱈目の秦系、ハプロは一致するが、始皇帝の王族と無関係の遼河、山東人の秦の先祖系。次に本物の秦の王族に繋がる系。この4つに分けられる。
だから秦氏=歴史時代に渡来したと見ない方が良い。私は高木神を信仰する一部のグループは新羅系を含めた秦人だと見ている。これに高良系が関わると見ている。おそらくだが、天孫族はこれらの支配者集団に新しく入ってきたグループが混ざって出来たものだと見てる。だから天孫族は出雲系であったり、タカミムスビ系であったりすると見ている。
全く新しい騎馬民族説のようなものは私は間違ってるとはっきり思ってる。そこでニギハヤヒと天目一個の関係になってくる。紀元前2世紀ごろに活発になる金属器文明。天孫族の一部が噴火により拡散した可能性。天孫の影にタカミムスビのような中国系と絡んで、北方の騎馬民族系の流れを感じる点。
そこを私は騎馬民族というより、金属加工集団だと書いた。玄界灘と違って佐賀の方では職人を呼んで独自に発展させたらしい。金属製品に人の移住が伴ってる。
書いていて思ったが、天皇家がどこかへ行ってしまった…。
ニギハヤヒがどうしもようなく胡散臭いのは、物部氏の先祖とニギハヤヒの系統は別に移住した可能性がある。ニギハヤヒ族は四国をおそらく中心に広がって淡路島河内に来たと思われる。この後本家が北九州からヤマトへ行ったか?は問わない。天皇家はニギハヤ族=天孫族が胡散臭いと知っていたとなる。
その胡散臭さの原因は、物部氏の東征は真実だとしても、ニギハヤヒ族全体はお前らどこのもんやねんって広がりがあったからだと見てる。ニギハヤヒこそが天孫族が北九州系なのか?出雲系なのか?よー分からんって混乱そのものだと見てる。物部氏はレガリアを持っていた可能性はある。ギリギリまで北九州に居たと思われるから。
物部氏の残した書は酷い虚偽も多いが、妙にリアルだと思う部分も多くて、誘ったメンバーを見ると盛りすぎてるが、一部確かに北九州の高良大社を中心としたメンバーに上手くなってる。ただニギハヤヒ全体としては多分レガリアは持ってない。その理由はあれはおそらく、その後の高句麗南下が影響してそうだから。
元々副葬品文化から、それを王位継承の証しにした。これ全く意味が違う。だって墓に入れてしまったら王位継承の証しにならないから。多分コピーを創る事から始まったと見てる。このレガリアとしての副葬品の活用こそが、金属加工民と独特の支配者層である天孫族の違いだと見ている。
それを持ってないってのも物部氏が天孫族に入れなかった理由の一つだと思う。尾張氏がじゃもっていたか?なら持ってないと思うが、その辺り私はその差は当時の政治的な力関係によるものだとしか見てない。物部氏は早期に移住した天孫族である可能性は高い。
ただハプロは天皇家と違うと思う。理由は、族と男子直系とは多分ずれると見てる。そもそも元は男性神っぽい太陽神を女神にしたあたりかかわってる気がしてならない。
後、ニギハヤヒこそが広がったグループなら、多分天皇家は日向=宮崎じゃない、北九州だと思う。考えれば考えるほど、物部氏の方が天孫族の天皇家にふさわしい。何故それがひっくり返ったのか?は、神話では全く分からないと思う。ヤマトに来てから謎の中心氏族になっていった過程がものすごく大事で大和について王朝が出来たなんて絶対無いと見てる。
有るとすれば、バックの高天原=北九州や、もっと広く広がるタカミムスビグループの意向に相応しかったから、それにニギハヤヒがあわせたとなる。所詮はニギハヤヒは大和の王に過ぎなかったから。出雲とのシンプルな関係ならニギハヤヒの方が圧倒的に神武より相応しい。
ヤマトに来てからのその後祟神天皇として歴史に現せるまでの間に何か?逆転するものがあったに違いない。




