第1話 情報
ナヒロがローラと名を変え、アカリの姉となり過ごすと決めた日から二年半が経った。
ヒスメド地方と隣接している地方のデニレローエ村に居住を二年前に移した一家は、誰も使われていない家でひっそりと暮らしている。二部屋しかない家は、小さい子供二人と大人二人には狭かった。どんなに狭くても、家族で暮らせる家があることは幸せだとミティーアは言う。
ナヒロもそう思う。ヒスメド地方の屋敷が襲われ、家族が迎えに来てくれるのをただ信じていたあの日。誰かがナヒロに声をかけてくれるのを待っていた。
眠りに落ちていたナヒロは、ミティーアにゆり起こされた。閉じてしまいそうな眼を必死にこじ開けて起き上がる。
「寝てるところ、ごめんなさい。……起きたかしら?」
こくりと頷いた。頭はまだ半分眠っていて、覚醒仕切っていない。ひとつ大きく欠伸をした。
隣で眠るアカリは寝返りをしても起きる気配はない。
「どうしましたか?」
「ちょっと、話があって」
歯切れの悪いミティーア越しに、眉間に皺をよせたジェナーンが見えた。家族で使うテーブルに両手を投げ出して、ナヒロに気がつくとこちらに来なさい、と手招きする。
二人の間にあったのだろうか? ミティーアを下から覗きこむと、ナヒロの視線に気づいて困った笑みをした。いつもの笑顔と違う。不審に思いながらも、ミティーアの後に続いてアカリの寝ている部屋を出た。
部屋の中央よりやや入り口近くに置かれた小さなテーブルのジェナーンの前に座った。ナヒロの定位置はジェナーンの隣だ。しかし、今はミティーアが隣に座った。
いつもの雰囲気とは違うぴりりとした緊張感のある空気。いつもは静かだと感じられる外が、なぜだが騒がしいと感じられるほど、部屋は静かだ。
外から聞こえる虫の音がやけに大きく聞こえる。
深刻な顔をし、口を開いて閉じてしまうジェナーン。なんだろう。また言いにくいことが起きているのだろうか。
デニレローエ村へ移り住む半年前。
ナヒロは、消極的なアカリをからかって遊ぶ年上の男の子たちと喧嘩をした。人よりも負けん気が強いナヒロは男の子たちとの喧嘩に勝った翌日。住んでいた家を村人の手によって奪われた。
ナヒロが手を出した男の子は、村でも二番目に権力のある家の息子だったのだ。息子の訴えによって、ナヒロは悪くないのに、ナヒロに一方的にやられたと全ての責任を被らせた。
その時も、ジェナーンは深刻な顔でナヒロに「新しい村に越すことになった」と言った。
突然のことに、理由を聞くとジェナーンは、知らなくていいと教えてくれない。村を出ることになった日、その男の子はナヒロに勝ち誇った笑顔で、ナヒロを見送った。
その隣に立つ父親は、ジェナーンをしつけの出来ない親を見るような目で蔑んだ。
ジェナーンがなにを言われたのか、ナヒロはそれだけで悟った。
謝ろうとジェナーンの腕を引っ張ると、ジェナーンはナヒロの頭をひとなでした。
「ローラはなにも悪くない。相手が悪かっただけだ」
ミティーアと世間話をするほど仲の良い村の妻たちは誰一人、ミティーアに別れの挨拶をしなかった。
あの時の事が頭をかすめる。
デニレローエ村では、手を出さないでいたし、喧嘩にならないように気をつけていた。
不安になったナヒロはミティーアへ視線を移す。
ミティーアは自分から話す気はないのか、ジェナーン自信が話し出すのを待ちなさいとでも言うかのように首を振った。
ジェナーンが話し始めるのを息が詰まる思いで待った。
「ローラ、君に言わなければならないことがある」
何度目かの睡魔と戦っていた時、ジェナーンは唐突に話し出した。
睡魔などに負けてなどいられない。
また、移住する事になってしまうのだろうか。
過去の記憶がナヒロを怯えさせる。
ジェナーンは覚悟を決めた目で、まっすぐにナヒロを見る。その表情は優しい表情とはうって変わって真剣だ。
「ローラ。君の家族を襲った災難の後、ヒスメド地方が今どうなっているのか知っているか?」
移住の話だとばかり思っていたナヒロは、ぽかんとしてしまった。
ナヒロがジェナーン、ミティーアの家族となってこら、ヒスメド地方の話は何一つ聞かない。
父亡き後、叔父が後を継いでいるのだろう。領主の証となるペンダントはナヒロの手にある。
母がナヒロを屋敷から逃がした日、父の首から下がっている家紋を母はナヒロに預けた。
再び出会えたら、返してもらうからと。結局、渡すことは出来なかった。ナヒロはこの証と共に屋敷から離れた。
領主の証がないままに、領主となれるのかナヒロは知らない。ヒスメド地方に近い村に住んでいるからといって、かの地の話が聞けるわけでもない。
「い、いえ、知りません。ヒスメドがどうかしたのですか?」
ナヒロが逃げだしたヒスメドが今どうなっているのか知っているのなら教えてほしい。
領主がいなくなったその後、変わりなく生活できていればよいが、それはギオムの後に着いた領主次第になる。
「本当なら、まだ子供の若い君に言うには早いっていうのは分かっている。けど、言わなければならないことが今あそこで起きてしまっている」
なにが起きているのだろう。不安になる。
「……」
ナヒロの腰が浮いた時、ジェナーンは重い口を開いた。
「ヒスメドは、ここ二年半で一変しまった。現領主、君の父親の跡を継いだヒーオメという男になってから、ね」
ヒーオメ……。
一日たりとも忘れたことがない。ナヒロから家族を奪った憎き叔父。
今でも、鮮明に思い出せる。
叔父が賊と手を組み、領主という名声欲しさに父母を、兄達を、乳婆を死に追いやったあの男のにたりと笑う姿がはっきりと浮かびあがってくる。
「……っ!」
両手を握りしめる。
あの男はナヒロだけでなく、その地に住む人々までも苦しめているというのか。
今すぐにでも、行きたい衝動にかられ、玄関へ駆けた。その足を、ジェナーンに止められる。
「話はまだ終わっていないよ」
座るよう、指示された。
ジェナーンはヒスメド地方が一変したと言っただけで、どうなったか言っていない。
「ローラ、座って?」
ミティーアに諭され、ナヒロは座っていた椅子を引いてきた。その場所はジェナーンに近い。
座っても、頭の中はヒスメド地方のことばかり。
「ローラ。落ち着いて聞きなさい。ヒスメド地方の主はヒーオメへ正式に移っていない。なぜなら、証がないから」
ナヒロはそれがなんのことを言っているか察した。ナヒロが片時も肌から離さずに持ち歩いているペンダント。父から母へ、そしてナヒロへ手渡った家紋。
「そう、君が持っているものだよ」
ここにこれがある限り、ヒーオメは領主と名乗れないのか。
ならば、渡さないまでだ。父が大切にしてきた土地を叔父になんか渡さない。
ぎゅっと胸元を握りしめる。
「ヒーオメはギオム一家が何者かによって襲われ、連れ去られたと言っているそうだ。その間、領主の代わりは自分だと」
ナヒロは驚愕に目を見開く。
「だから、領主の証がないのは仕方がないと、言っているそうだ」
ナヒロが持って逃げ、その証が見つかるまで、連れ去られたと言い続けているわけか。よくそんな薄っぺらい、調べたらすぐに分かってしまう嘘で、(仮)領主となったものだ。
怒りを必死に抑え込むナヒロの手にジェナーンが手を乗せる。
「君の気持ちも分かる。けど、今はこらえるんだ。まだ、君が出て行く時期じゃない」
弱冠七歳。まだ、領主と名乗り出るには幼い年齢だ。言葉の発する威力は叔父の方が遥かに強い。いくらナヒロが正論を言ったところで、叔父のでっちあげた話に、勝てない。
「分かって、ます」
悔しさをこらえる。
早く、大人になりたくて仕方がない。
発言力のある年齢に早くなりたい。
もっと自分が大人なら、今すぐ、飛んで行けるのに。
もっと早く生まれていれば、こんな思いしなくて済んだのに。
「聞いて、ナヒロ。あの日、ヒーオメ様がいたという賊の情報を極秘でね、私たち手に入れたのよ」
ナヒロは手の力を緩めて、顔を上げる。
何の情報を手に入れたのかをミティーアに訊ねると、こう返ってきた。
「賊の名前と、彼らが頻繁に現れる場所よ。――賊の名はホラルダ。頭の名前はジェキス。貴女の叔父はこのジェキスって言う男とつながっていた可能性が高いわ」
「お、おいミティーア。そこまで言わなくても」
ジェナーンはナヒロへ知っていても言うつもりがなかった情報をミティーアに言われ、慌てる。
「この子は知るべきなのよ。自分に起こったことを知るべきよ。本当ならご家族で、ヒスメドの屋敷に暮らしているはずだったのよ? ジェン、この子の幸せを奪った人が誰なのか、知らなくては何も始まらないわ」
日頃おっとりとしているミティーアにしては珍しい、真剣な物言いに、ミティーアに口止めしておけばよかったとジェナーンが後悔した。
ナヒロにしてみれば、教えてもらえてありがたい。子供だからと、教えてもらえず、やきもきするよりも。
「ナヒロ、わたしたち、ジェキスと繋がっているある人と会う約束をしたの。出稼ぎに行くついでに会ってくるわ。危険かもしれないけど、大丈夫よ。貴女の将来に役に立つことを伝えることが、偶然貴女に出会ったわたしの、使命だと思っているから」
危険がつきまとうことならば、そんな仕事しなくていいと、叫びたい。行かなくてもいいと。
覚悟を決めたミティーアを、ナヒロは止められない。こうと、決めたらどんなに周りが止めようとも聞いてくれないのがミティーアだ。
危険なことはやめてほしいと言ったところで、やめる人じゃない。
「気をつけて下さい。無事、戻ってきて」
「それは承知だ。危険かもしれない。それでも、行くと二人で決めたんだ」
ジェナーンはナヒロの手を強く握りしめた。ジェナーンの意見に同意だと、ミティーアは頷く。
二人の決意は固い。変わることはないだろう。
「わかりました。でも、無事帰ってきてください。アカリのためにも」
わたしのためにも。
飲み込んだ言葉は二人に伝わった。夫婦は、大丈夫だと、愛しい子供に向けた優しさのこもった笑顔をナヒロに向けた。
「ナヒロ、もし、なにかあったら、隣のミルリィーネさんに聞くといい。それと、いつものように彼女にお世話になりなさい。分かったね?」
ミルリィーネはナヒロの家のお隣に住む一家だ。隣と言っても離れた場所に住んでいるが。
ジェナーン「分かりました」と言った。
翌朝。
ジェナーンとミティーアは、仲良く姉妹に見送られて村を出て行った。
寂しさから泣くアカリを宥め、ナヒロは笑顔で二人を見送った。不安な気持ちで押しつぶされそうになっているのを打ち消すかのように、満面の笑みで。
見送った後も、不安な気持ちは消えることはなかった。
この気持ちが消えるのは、夫婦が笑顔で帰ってきた日だろうなと漠然と思い、家に戻って行った。
ただ、ひたすらに二人の無事を祈っていた。