第3話 救いの手
道の左右を草木が並び、藍色の空の下、月の光を頼りに歩く男性の背中で、小さな子供が寝息をたてて寝ている。
隣を歩く若い女性は、子供が寒くないよう自分が着ていた薄い上着を上からかけた。
もうすぐ二歳になる子供は歩き疲れてしまい、ぐずりだしてしまった。目的地まで距離があり、すぐ着きそうにない。
男性が持っていた大きい鞄を女性に預け、子供を背負うとすぐに寝てしまった。
「疲れちゃったのね。重くない?」
子供が起きてしまわないように、ジェナーンに小さく囁いた。
「これぐらい、平気さ。それより、君は寒くない?」
「ふふふ。平気よ。大丈夫」
女性ミティーアは朗らかに笑った。
寝ている子供にかけてあげるものが見つからず、着ていた外套を子供にかけた。子供の身体には大きい外套は、首のところに鈕がついている。鈕を調整して留めても、首回りが少し空いてしまう。そこに秋のひんやりとした風が当たって身体が冷えてしまわないようフードを頭にかぶせ、風除けにしていた。
暖かい格好をしていても、やはり夜の風は身体に堪える。ミティーアはジェナーンから一歩後ろを歩きながら、身体を震わせた。
ミティーアの手には、大きな鞄と、小さな鞄を左右の手に、可愛らしい小さな肩掛け鞄が肩にかけられている。荷物の重さで、足取りが重くなっていく。
「アカリが寝ていなければ、ミティーアの鞄を持ってあげられたんだけど……重くないか?」
ゆっくりと距離が開いていくことに気がついたジェナーンが振り返って、ミティーアを案じた。
「あら、アカリの体重よりか荷物の方が軽いのよ? 知ってた?」
荷物は確かに子供よりも軽い。鞄の持ち手は細い紐で、そこから手にじんと痛み、歩きが遅くなってしまう。
荷物を持ち直し、大丈夫よとミティーアは笑った。
ミティーアの歩調は荷物が、増えたために、遅くなっていくのは明らか。ジェナーンは子供を片手で支えて、小さな鞄に手を伸ばすと、女性から取り上げた。
「これくらい平気だよ」
小さい鞄とはいえ、大きな鞄を両手で持てるようになり、優しい男性に感謝した。本当は、荷物の重さに足が疲れてきていた。
「よっこらしょっと」
重い荷物を両手で抱えて持ち直し、ジェナーンの隣に並ぶ。
「ありがとう。気をつけてね。アカリぐっすりと寝てるから、起こさないようにしてね」
片手で娘を支えているにしても、危なっかしい。石につまづいたりして起こさないように、と声をかけた。
歩き出して数メートル。
何か小さいものが二人の前を突如横切った。
「キャッ」
びっくりしたミティーアは手の荷物を手放し、ジェナーンの足に直撃した。荷物に足を取られ、危うく片手で支えているアカリを落としそうになる。
「動物かな……って、ミティーア!?」
こんな夜に茂みから飛び出してくるものといえば、大抵が動物である。
それが、ミティーアは動物が横切り去った方向を凝視し、何かがいるかのようにゆっくりと慎重に近づいていく。
動物に構っている時間はないというのに。
「ミティーア、早くしないと次の町に着けなくなる」
男性は荷物を手放し、ミティーアの腕を捕まえた。茂みへ今にも入っていきそうだ。
「もぅ。なぁに?」
茂みの中へ逃げた動物から目を離さないで、ミティーアは抗議する。離してと言わんばかりに、腕を振った。
「そんな野生の動物にかまっていたら遅くなるって言ってるんだよ」
「動物なんかじゃないわ。人の子よ」
ミティーアの話を信じたわけではないが、自分の妻がそういうならと、暗闇を凝視してみた。
確かに動物ではないものが、草むらで倒れている。
「ねぇ、なにかいるわ」
倒れているのが人とは限らない。ジェナーンが警戒して、妻を道に引き戻そうとする前に、ミティーアはするりと抜け出し、草むらへ入って行った。
「ジェン、女の子よ。こんなに濡れて……風邪をひいてしまうわ」
倒れた少女の服はびっしょりと濡れ、夜風が子供の体温を奪い、全身冷えきっている。
「君、大丈夫!?」
あまりの冷たさに慌てたミティーアは、熱がないかと額に手をあてる。自分の額を触らずとも分かる。とても熱い。
「大変だわ!! ジェン、この子を連れて急いで先に行って。アカリは私が連れて行くから。お願いね!!」
ミティーアは、夫のジェンの背からアカリを下ろし、代わりに少女を背負わせる。大きい荷物を置いて、我が子にかけていた外套を、少女に羽織らせる。羽織っただけは、冷え切った身体に温かさは戻らない。熱を出した少女を背負い、ジェナーンは夜道を走った。
ナヒロが目を覚ますと、木の天井が視界に入った。見慣れた綺麗な天井ではなく、年季の入った古臭い木目に、一度瞼を閉じた。
領地から遠くへ逃げなきゃと、ひらすら走った記憶はある。途中から、水を含んだ服に風が当たり、体温は徐々に奪われ、足の裏は草で切り傷を作った。
「……ん?」
手に違和感を覚え、手を持ち上げると小さな手がナヒロの腕を抱き枕の代わりのようにひっついている。
その先を辿っていくと、知らない小さな子供が、寝息をたてて隣で寝ていた。
ベッドの端に明るい茶色の髪を散らし、両腕を交差させ、中央に頭をおいて寝ている知らない女性がいる。
「ここは……」
どこなのだろう。ナヒロの知っている場所でないことは確かだ。
なんだか体がだるい。
休まずに走り、身体に無理をさせたせいだろうか?
子供の手をほどき、ベッドから起き上がると、部屋のドアが開けられた。
「おや、目が覚めたのか?」
小さな鍋と椀をのせたお盆を持って長身の青年が部屋へ入ってきた。
ナヒロのそばで寝ている女性と似た髪色の短髪から覗く紺碧の瞳が柔らかく細められた。
知らない男性だ。ナヒロが普段見慣れているかしこまった服装よりも、簡素な服はナヒロに彼がどういう人なのか教えてくれる。
毎月決まった日に徴収される税金を払う側の人間だ。ナヒロは支払われる税金の一部で生活をしていた。そう、屋敷から逃げるまでは。
相手はナヒロの事を知っているようで、親しそうに話しかけてきた。
「君の事を道の途中で見つけたのはそこで寝ている妻なんだ。覚えている?」
返事の代わりに首を振った。なにも覚えていない。
「体が冷えて、高熱を出しているからって、夜にも関わらず、僕が君を背負って村まで走ったんだ」
男性は、ベッドの縁で眠る女性に外套をかけてあげると、ナヒロを手招きした。
「おいで。喉渇いているだろ? 水があるから飲みなさい」
透明な液体がコップへ注がれ、手渡される。受け取ると、ほんのりレモンの香りがした。
「レモン水だよ。レモンの汁が入っているだけだよ」
ナヒロはいぶかしみながら、コップに入れられた水を受け取った。
毒が入ってるんじゃと一瞬思ったが、ナヒロを助けてくれたようだ。本人は熱にうなされた記憶すらないというのに。
コップに口をつけると一気にレモン水を喉に流し込んだ。
冷たい水が喉を潤してくれる。それだけでは足りず、遠慮がちに水を要求した。
男性はよし、と笑い、コップに注いでくれた。
ナヒロは何も言わずにそれを飲み干す。
「あの、ここ、何処ですか? あなた達は?」
三回ほどそれを繰り返し、喉も潤わされたところで、ナヒロは男性に聞いた。
ナヒロのいる場所が何処だか知りたかった。ヒスメド地方からどれだけ離れられたのか気になる。
「ここはヒスメド地方から少し西にあるユーシャ村ってところなんだけど、知ってる?」
ナヒロは迷わず頷いた。
ヒスメド地方からまだ全然離れられていない。早く遠くへ行かなければ、叔父が追ってきてしまう。消えたナヒロを探しに、きっとこの村に立ち寄るだろう。
ナヒロを止めたと知れば、宿泊所が危ない。
ナヒロの顔が蒼白になっていくのに気がついているのかいないのか、青年はゆったりとナヒロの知りたいことを話してくれた。
「僕は、ジェナーン。寝ているのが妻のミティーアと、娘のアカリ。新しい村へ行く途中で君をみつけたんだよ」
「そうですか。あの、助けてくれて、ありがとうございます。あの、私……」
ナヒロが名乗ろうとしたところで、ベッドに身体を預けて寝ていたミティーアが目を覚ました。
この人がナヒロを救ってくれた恩人の一人。
「あら、起きてたの? 身体は平気?」
「あ、あのっ」
「熱は下がったのかしら?」
ナヒロが言う前に、さっと額に手をあてられ、熱を測られた。
「大丈夫そうね」
ミティーアはほっと一息つくと、ナヒロの頭を撫でる。その優しさは、母に似ている。
「あの、私……私っ」
切羽詰った顔で、ナヒロは二人を見つめた。
「ナヒロって言います。ヒスメド地方の領主の娘です」
自分が誰であるかを言った後、なぜ、熱を出して道端に倒れるようなことになったのかを、二人に全部まくしたてるようにして話した。
名前しか知らない、赤の他人なのに、ただ、看病してくれたと言うだけなのに、この二人にはナヒロを安心させてくれるそんな雰囲気を持っていた。
だからかもしれない。ナヒロは、自分が見たことをすべて二人に話していた。
話すつもりなどなかったのに、自分の心の内に潜めておくつもりでいたのに、口から堰をきったようにしゃべり出していた。
ナヒロの事情を聴いた若い夫婦は、子供の前だというのに真剣な表情を崩さなかった。
「辛かったでしょうね。でも、もう大丈夫よ」
二人は子供の話だと馬鹿にすることなく最後まで聞き終えると、ミティーアが涙を流すナヒロを抱きしめ頭をなでてくれた。
男性はじっと考え込むように椅子に座り続けると、何かを思い出したかのように椅子から立ち上がり部屋の外へ出て行った。
「わたし、ミティーア。隣に座っていたのは夫のジェナーン。わたしはジェンって呼んでいるわ。よろしくね」
ミティーアは、ナヒロの体をそっと離すと笑顔で名前を教えてくれた。
その笑顔を見ていると、なんだか心がふんわりと温かくなる。
「はい。ジェナーンさんから教えていただきました」
「え。そうなの? 娘の名前も?」
隣で眠る小さな子供を見て聞いてきた。
「はい。アカリって言うんですよね」
「私の寝ている間に……もうっ。――あ、そうだ」
少し怒ったように頬を膨らませると、思い出したかのように小さく両手を叩く。
「そうだわ。柔らかいものなら食べられる? 三日も寝ていたからお腹減っているでしょ? 少しでもお腹に入れないとね」
ジェナーンがベッドのサイドテーブルに置いた盆を差し出してくれた。小さな鍋の中にはやわらかく潰された御飯が入っている。
迷わずに、盆から椀をとると、木さじですくい口へ持っていく。
冷めてしまった御飯は汁を吸っていた。空いたお腹を満たしてくれることに変わりはない。
「よほどお腹がすいていたのね。まだあるから食べちゃっていいわよ」
サイドテーブルの盆が置かれていた場所のすぐ傍には鍋が置かれ、中には同じものがたくさん入っていた。空になった椀を差し出すと、ミティーアはすぐに椀へ入れてくれる。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
すべて食べ終えると、空腹だったお腹は満たされていた。頭を下げて、お礼をした。
「まだ夜だから寝てなさいね。わたし、これを片づけてくるわ」
盆に空になった鍋と椀を置き、持ち上げ、部屋を出て行った。その後に続いてジェナーンも出て行く。
「キャッ」
「危ないっ」
静かな廊下からミティーアのこれまた危険な声が木霊してナヒロの部屋まで聞こえてくる。
(落としてないかな?)
声の後は物が割れたり、落ちる音はしてこない。
ミティーアの危なっかしさに、本人が戻ってくるまでナヒロは寝ることができなかった。