第5話 蠟印(ろういん) 2
村長がナヒロの家へブリエッサを連れ、神妙な顔で来訪したのは翌日の早朝だった。
「昨日の件じゃが……」
話しながら、我が物顔で家に入ってこようとした村長をナヒロは玄関で止めた。
謝罪もなにもなく、堂々と我が家のように入るところは流石、村長だ。思わず感心してしまう。
いつもなら、仕方がないと見逃していたナヒロだが、今回はそうはいかない。こちらは巻き込まれた被害者だ。
入口に堂々と立ち塞がる。村長の足が止まった。邪魔だ退きなさいとそぶりをする。
「村長?」
笑っていない笑顔を村長に向けた。まだ、なにも聞いていない。疑った詫びを。
相手が子供だからといって謝罪を忘れてはいないだろうね? と眼力で訴えた。
「悪かったの、疑って」
村長はナヒロの目を見て謝った。謝罪は受け取り、ナヒロが入口から退くと、中へ入っていく。村長に続いて素早くブリエッサも続いてくると思い、急いで立ち塞がるが、空振る。
彼女は玄関前で立ち尽したきり動かないのだ。小刻みに震えている両手はギュッときつく握りしめられ、顔が伏せられ、前髪がかかり表情は見えなかった。
あまり綺麗と言えない家の中に、謝罪に来たとはいえ入りたくないということか。
「貴女からの謝罪は?」
ブリエッサへ向けて冷たく言い放った。言い返してくると身構えていると、ぴくりと肩が上下しただけで、ブリエッサは頑なに口を開けようとしなかった。
(なにしにきたわけよ)
村長がブリエッサを連れてきたのは、姉妹へ謝罪させるためではなかったのか。
ナヒロは小さく嘆息して、家の中へ戻った。玄関のドアは開けたままにしておく。
家内ではミルリィーネが村長の為に場所を開けようとしていて、村長はその気遣いを丁重に断っていたところだった。
「ローラ」
狭い床に両膝をつき、村長は丁寧に頭を下げた。
「すまんかった。そなたたち姉妹は潔白じゃ」
謝罪の言葉に一同が騒然となる。ミルリィーネは息を止め、外にいたブリエッサは今にでも泣きそうに顔を歪めた。
村の長が年端もいかない少女に頭を下げている。こんな奇妙な光景が今までなかった。大人たちの記憶の中では先代の村長から一度もなかった。
「パ、パパ……!」
口を一文字に引き結んでいたブリエッサが悲痛な声を上げ、玄関から飛び込み父に駆け寄った。父親が目下の者に頭を下げているのが見ていられないというように腕を掴む。そんなことしなくていいと存外に言っているようだ。その幼い手を、父は腕を振ることで払いのけた。
「お前の軽率な行動がこのようなことになったんじゃぞ!!」
きつく睨まれ、ブリエッサは息を飲む。震える声で小さく「ごめんなさい」と謝った。
ブリエッサの謝罪は父に向けてのもので、疑われた姉妹への謝罪ではない。愁傷な態度ではあるけれど、かたくなに謝罪の言葉をいわない。
「お前はアカリに悪いことをしたという自覚はないのか、それともアカリ本人なら謝れるというのか……」
ブリエッサがアカリの名にひどく反応した。
「そうか、姉ではなくおぬしはアカリに謝りたいのか」
ブリエッサが誰の目に見ても狼狽している。
アカリであろうとも謝罪をしたくないのが分かった。
「事実を先に教えてください。ブリエッサの謝罪はこの際そのあとでもいいわ」
自身に非があると認めているのなら、姉であろうと表面上はすんなりと謝れるはずだ。非がないとどこかで思っているから言葉が出てこないのだ。
言わせるまでの時間を使ってまでナヒロはブリエッサから謝罪の言葉を聞きたいとは思わない。謝りたくないのなら謝らなくていい。その代わり、今後親しくすることはない。
小さなテーブルを五人で囲む。ナヒロの隣にミルリィーネ。村長、村長の右側に後から来たルエンが座った。村長の後ろに居心地悪そうにブリエッサが座る。
「これを」
村長がテーブルの上に二つの蠟印を置いた。
小さなガラス製の蠟印。印は丸く徐々に四角くなり、その上持ち手の部分には三つの木の実の上と下が重なり連携した形。どちらも同じ形をした蠟印。
「これらには違いがあるんだが、わかるかの?」
ずいとナヒロの前に出され、確認を促される。ナヒロはその二つを手に取った。ガラス製でナヒロが隠し持つヒスメド地方の蠟印と同じように、少し重みがある。
落とさないよう慎重に扱い、右と左の飾りを合わせながら違いがどこにあるかを探した。見た目がほぼ同じでどこが違うのかわからない。
首を横に振りながらテーブルの上に二つの蠟印を置いた。
「村長、俺も見ていいですか?」
許可をもらい、今度はルエンがナヒロの置いた二つの蠟印の違いを探す。こちらもナヒロと同様に見つけられなかった。
「どこが違うんだい?」
ミルリィーネがナヒロの横へ座り直し興味津々でテーブルに置かれた二つの蠟印を見比べる。
「こうすると一目瞭然じゃ」
二つの蠟印の持ち手の柄を同じにすると、それらを印がみえるように倒した。
「!!」
「まぁ、なんてこと」
「なんだ、これは」
三人が三様に驚いた。
驚きを隠せないのは見た目では全く分からない違いが、こんなところにあったと考え付かなかった。
二つの印籠はナヒロからみて右側は、上下さかさまにならず正しい形になっている。そのまま手に持って、熱された蠟に押せば正位置になった形になる。
一方、左側は印の上が右側を向いている。
ナヒロが左側の蠟印を手に取った。
印璽の向きを合わせて手で持ってみる。持ち手の柄、木の実が手になじまず違和感がある。テーブルの上に封筒がある前提で押してみると、力を均等にいれづらく押しにくい。
ルエンもナヒロがやったことと同じことをした。違いに気がつく。
「村長、これ押しにくいですよ」
「そう。偽物は押しやすさを考えて作られとらん」
蠟印というものは本来力が均等に加わり、押された印がきれいに現れるように作られている。力の加わりがバラバラであれば線がきれいに現れず醜い印となる。
「こんなもの、使ってみればすぐにわかるぞ」
そうぼやいてルエンは偽物をテーブルに戻した。
使えば、違和感にすぐに気づく。偽物というのは人の目をごまかせられれば、見た目が同じでおればよいという観念で作られたようだ。
「さて、ブリエッサ。これを入手した経路を教えてもらわんといかんのう」
偽の蠟印を使ってアカリを貶めようとしたブリエッサは瞳に涙をためて座っていた。必死に堪えている。
村中で子供相手に威張っていたブリエッサの姿はない。三人から気づかないのがおかしいと言葉で責められたのだから、体を縮こまらせるのも当然かもしれない。
父に前へ押し出され、ブリエッサの溜まった涙が床に散る。両手が床につき、前かがみになった。堂々とした父に娘が謝罪する図のように、村長の前に、手をついた。
村長は娘を冷たく見下ろすばかりでなにも言わない。父を見上げたブリエッサは村長が助けてくれないと悟ると、口から震える声で言葉をしぼりだした。
「い、言えないです。言わないことを条件に……」
ブリエッサが言い終わる前に、頬を強く叩く渇いた音が部屋に響きわたる。
ブリエッサは床に転がり、叩かれた頬を抑え、見開いた目で父を見上げた。
「お前はまだ分っとらんのか!! この事態を!」
さらに手を上げる村長を、ミルリィーネが右手をつかんで止める。男の力にかなうはずもなく、ふり払われ後ろへ転び、壁に背中を打ち付けた。
「おばさん!」
ナヒロとルエンが、ミルリィーネが怪我をしていないか聞く一瞬の隙に、今度は後ろから殴る音がした。
村長は怒りにまかせて娘の胸ぐらをつかみ立たせると、今度は平手ではなく拳を左頬に叩き込んだようだ。胸ぐらを離されたブリエッサはそのまま床にへたりと座りこむ。右頬を手で押さえたまま、あまりの衝撃に放心状態になっている。
「村長! あんた、少しは冷静になりなっ! 娘になんてことを!」
ミルリィーネが悲痛に叫んだ。背中を打ち付けた以上に顔をゆがめている。
「子供なんですから、一度や二度の過ちを起こします! それを教えてあげるのが親の務めでしょう。それを……っ」
「許せることと許せぬことがあるんじゃ!」
ミルリィーネの叫び以上の声を上げて娘へ対する怒りを今度はミルリィーネへ向けた。
「よいか!? 蠟印の印璽は一切の狂いもない精巧なものだった。これを意味することが分かるか?」
ルエンが息をのんだ。
瓜二つの蠟印ができる人間がいる。それはこのデニレローエ村の村長として誤った情報を領主に、さらにはほかの村へも手紙として送れてしまうということだ。村長が知らないうちに。
村の存続にも、信頼にもかかわる重大な、大きな事件に発展していくだろう。
テーブルに置かれた二つの蠟印の、今度は印璽の部分をそろえて確認してみる。
その後ろからナヒロも覗き込んだ。
二人同時に目を見張った。押しの悪さはあるが、全く寸分の狂いもなく同じもの。
村長が娘に寛大といえど、許せる過ちと許せぬ過ちがある。
今回のは許せる過ちではない。まったくもって桁違いのゆるせぬ過ちをブリエッサは起こしてしまったのだ。
「日曜……学校の帰りに」
放心状態だったブリエッサが床に座り込んだ格好のまま、か細い声で話し出した。
「知らない……人から……声、かけられて」
「どんなふうにだい?」
ミルリィーネが優しく続きを促す。
「ここの、村長の娘さんだよね? って。懲らしめたい子がいるかって……聞かれて、そうだって答えたら……お兄さん簡単に懲らしめる方法、知っているよって言われた……。聞いたら内緒にできることを条件に偽物の蠟印を作れるよって言われて……」
「お前、まさか渡したんか!? これを!?」
本物の蠟印を乱につかみ、ブリエッサの前で怒りに震える村長に、「はい」と小さく声を出した。
「お主は蠟印がどういうものかわかっとるんか!」
怒りに任せて、蠟印を床に叩きつけてしまった。本物の蠟印が衝撃で割れてしまう。
やっと開いた口がまた一文字に閉じられた。どうやら知らなかったようだ。
「これはな、この蠟印はとても大事なものなんじゃ。これが押されているということはわしから出された手紙となり、通達となるのじゃ」
蠟印を厳重に扱わなければならない重大さをブリエッサは己自身で考えた。
この蠟印が押されている以上、偽りであろうと父である村長が発したことになる。どんなに許せない内容でも、蠟印がある以上は、決定事項として村の内外へ伝えられてしまう。真実でないことが真実となり外へ伝えられ、それが領主のもとへ届いたとき――。
ブリエッサの顔が蒼白になった。
領主へ間違った情報が真実として届き、領主が鵜呑みしたとき、父はどうなるのか。
「ごめ、なさ……っ! ごめんなさい!」
恐怖にとらわれたブリエッサの口から自然と謝罪の言葉がこぼれ出た。
ブリエッサが蠟印の重要性に気付いたところで、なぜこのようなことをしでかしたのかの理由がわからなければ、ナヒロは納得できない。
大事な妹が、偽物の蠟印で盗人とされ、全身ずぶぬれになって熱をだし寝込んだ理由。理由次第ではブリエッサを許すことはできない。
「村長、ブリエッサがなぜこのようなことをしたのか理由を知りたいのですが? うちの大事なアカリが熱を出して寝込んだ原因は貴方の娘ブリエッサにあるんだから。偽の蠟印を含め、ほかに理由があるんじゃ?」
平伏し謝るブリエッサをどこか冷めた態度でナヒロは見下ろした。
根本になにかがなければ、偽の蠟印を作ろうとは思わない。顔見知りでもない男に何を言われても受け流せたはずのことを、聞き入れてしまったなにかが。
「あぁ、そうじゃな。ブリエッサ、なぜこのようなことをしでかした。――口を割るまでは家には帰れないと思いなさい」
厳しい父にブリエッサが口を閉口しつづけるわけもなく、小さな声で許せないと呟いた。
「リーライがアカリを好きだから。……苦労もせずにリーライに好かれてるアカリがすごく頭にきてっ! アカリはリーライの気持ちに全く気が付いていないし、リーライはアカリのこととなるとすぐに行っちゃうしっ。それなら、アカリが村にいなければ、リーライはあたしのこと少しは見てくれるって、思って!」
(リーライをめぐる恋、ね)
何の努力もしないでリーライから好意をもたれているアカリが憎い。
憎くて憎くて、いっそいなくなってくれればと思ってやったということだった。
「そんなことで……」
村長はあきれて言葉も出ない。恋心で蠟印の偽物を作ったところはかばう余地もないが。
「女の色恋沙汰を馬鹿にしないでちょうだい」
すっくと立ち上がり、両手を腰にあてたミルリィーネが怒りをあらわに村長を見下ろした。
「なにぃ! そんな馬鹿馬鹿しいことで危うくわしの首がとぶところだったんじゃぞ!?」
「こんなちっさな村の村長なんて、そんな大した仕事していないでしょうに?」
「おい、言いすぎだ」
妻の発言にルエンが指摘する。
「あんたは、黙ってらっしゃい! いい? 恋した相手が自分ではない他の人を好きだって知った時の、あの悲しさと言ったらないわ。なんとかこっちを振り向いてほしくて必死になっているのに、好きな人が好きな女があっという間に努力を無駄にするようなことをしてくれる。どうしていいかわからなくなって、ならその相手がいなくなればいいって思うのもわかる」
ルエンが昔を思い出し、苦く顔を歪めた。どうやらなにか思い当たることがあったらしい。
「だけどねぇ、そこに村の大事なものを持ち出すのは間違っている!」
途中から説教相手がブリエッサに変わっていた。ルエンが安堵する。余程のことが夫婦の過去にあったようだ。
「ブリエッサさん、ちょっと顔をあげてもらえないかい?」
ゆっくりブリエッサが顔を上げた。醜かった顔が涙でさらに酷さを増している。
正面にずんと高い壁のように両足を広げて立つミルリィーネに目を見開き、視線が彷徨う。
怒られる、と反射的に察したのかもしれない。
「人の顔を見なさい!」
怒鳴られ肩をすくめた。ナヒロもブリエッサ同様に、ミルリィーネの一喝に驚き、首をすくめた。優しい近所の世話焼きの女性が声を張り上げるとこうも怖いのかと、ナヒロは初めて目の当たりにした瞬間だった。
ブリエッサはおずおずと視線を上へあげると自然と顔も上へあがってくる。ナヒロ側からはミルリィーネの表情は伺えないけれど、よほど怖い顔をしているのか、ブリエッサは瞳をおびえさせ泣きそうな顔になっている。
「どれだけ人を嫌ってもいい。だけどね、村の大事なものを持ち出すことは絶対にしちゃいけないことだ。あんた、この二日間でどれだけの人に迷惑をかけたかわかってるのかい? 忙しい時間に村中の大人たちに時間をとらせたんだよ? 人に迷惑をかけるようなことはやっちゃいけない。たとえ子供でも赦されないことなんだよ」
「ごめんなさ……」
「それは村中の大人たちに直接謝りなさい。あたしじゃないよ」
これ以上、子供からの謝罪はうんざりだとばかりに今度はミルリィーネが肩をすくめた。
「は、はい」
「あと、迷惑をかけたローラとアカリに謝りなさい」
ミルリィーネに促され、やっと、ブリエッサはナヒロに正面から向き合った。
「ごめんなさい」
頭を床につけんばかりに下げ、謝罪する。素直な、心からの謝罪だった。
まだアカリの熱が下がっていないとはいえ、受けないわけにはいかない。間違ったことをしたと気づき、謝罪したその言葉を。
「もう、いいわ。アカリにも無自覚ながら悪かったところもあったようだから」
アカリに変わって、ナヒロが赦した。もう、同じ過ちをブリエッサはしないと信じて。
その後、ブリエッサは村長に連れられて、村中を周り、事の顛末を簡易ながらに話して謝ったそうだ。故意でないにしろ、村長は本物の蠟印を壊してしまい、新しい蠟印の作成許可を貰いに領主の元へ行かなければならなくなってしまった。
領主から相当言われたのか、事件があってから一カ月は村長は誰の目から見ても落ち込んでいた。
ブリエッサの謝罪訪問から四日後。
アカリの熱は下がり、しばらく家で療養し、翌週には日曜学校へと行けるまで回復した。
騒動を起こしていたときは意気消沈していたブリエッサが、三週間後には元に戻り、何事もないかのように堂々とアカリに対して目障りだと態度に現し始めた。
アカリは、ブリエッサに話しかけても相手にされるどころか、嫌味を言われるようになり、とうとう話すことをやめた。顔を合わせれば嫌味を言われ、ブリエッサから逃げるようになった。
ブリエッサがアカリを嫌えば、周りも同じようになっていく。アカリは二か月後に日曜学校へ一切行かなくなってしまった。
ブリエッサはナヒロと顔を合わせると、こちらへも嫌味を言うようになった。けれど言われっぱなしは性に合わない。言い返されると思っていなかったブリエッサは言い負かされ続いた。それが気に入らず、どうやらアカリに少なからず影響しているようで、アカリは一人で村の中を歩かなくなった。
――そして、四年の歳月が経ち。ナヒロ、十六歳。
出稼ぎができる歳になり、時期をみて王都へ出向くようになった。
重要な情報が――ヒスメド地方に関するものが手に入れられず、ヤキモキしているときにレイカから突然の連絡が来たのだ。




