第1話 嵐の幕開け
ローラが幼い頃、「ナヒロ」と呼ばれていた時期があった。
両親と歳の離れた兄二人の家族に囲まれ、楽しい毎日だった。二人の兄に溺愛された末っ子は、聞かなくても兄たちからなんでも教えてもらえた。
上の兄からは領地や、情勢。下の兄からは遊びに、悪知恵までなんでも吸収していった。
このまま家族で幸せに暮らしていくと信じていた。
一夜にして、一家が壊滅した事件が起きるまでは――。
「キィラ兄様!」
玄関ホールへ繋がる階段の上からナヒロは帰宅したばかりのキィラールを呼んだ。
濃茶色の肩にかかる髪を後ろに束ねた青年が顔を上げる。深海のような深い青の瞳が捉えたのは、二階から玄関ホールへまっすぐ繋がる階段に妹が仁王立ちして立っていた。
我が妹ながら逞しいな、などと感心しながら片手をあげた途端、ナヒロは「兄様ー!」と歓喜の声をあげ、兄をめがけて階段を駆け下りてきた。夜も更けているというのに、妹ながら元気すぎる。
キィラールは駆けてくる可愛い妹のためにしゃがむと、ナヒロが体当たりしてきた。勢いがありすぎて後ろに仰け反る。後ろにまだ荷物が置いてあったおかげか、かろうじて倒れずにすんだ。
「キィラ兄様! おかえりなさいっ」
五歳になるナヒロは、極上の笑顔を浮かべ兄を下から見上げた。その瞳はキラキラと輝いている。
「ただいま、ナヒロ。まだ、起きていたのかい?」
キィラールはナヒロを抱えあげ、その頬にただいまのキスをすると、ナヒロからおかえりのキスが頬に返された。
「兄様を待っていたのよ」
ナヒロは兄の首に抱きついた。兄の懐かしい匂いが鼻腔を擽る。
嬉しさのあまり、腕に力を入れてしまい、カエルが潰れたような声がした。
キィラールの、首をしめてしまっていたようだ。
「ごめんなさい、兄様」
「平気だよ。ナヒロ」
頭を撫でられれば、ほっぺたが自然と緩む。
「ナヒロ様! まだ起きていらしたのですか!?」
そこへ、乳母であるタキが目敏くナヒロを見つけ、二階のセントラルホールから、階段を降りてきた。
ナヒロは小さく悲鳴を上げ、キィラールから降りると後ろへ逃げ、タキの手から逃れようとする。
数十分前、ナヒロはタキによって寝かしつけられた。だが、今日兄が帰ってくると知っていたナヒロは寝てなんかいられない。兄を迎えるべく、寝たふりをして、タキが出ていった後にベッドから起き上がってきたのだ。
タキにしてみれば、寝かしつけたはずの子供がどこから持ってきたのか、きちんとナイトドレスに着替えをして、キィラールの腕の中にいるのだから、目を疑ってしまう。
「ナヒロ様!」
兄の背に必死に隠れようとしているのをタキは捕まえて、キィラールの前に引きずり出した。
ナヒロが身に着けているドレスは、よく見ると最近衣装部屋で見当たらず、なくしたかもしれないとタキが思っていたものだった。
タキの知らない間に、衣裳部屋にもぐりこんで、部屋に隠し持っていたらしい。これは、他にも持っていっている可能性がある。衣裳部屋にはたくさんの装飾品も一緒にしてあって、それらも持ちだしている可能性がある。
「タキィ、お願いよ。今夜はキィラ兄様とお話したいの」
愛らしい声を出し、ナヒロは懇願した。目は上目遣いで、手は左右の指を交互に重ねて祈りの時の手にする。
タキはこの姿を見て呆れた。
それで許されると、この少女は本気で思っていることが、ひしひしと感じれる。
他の者達は簡単にだまされるこの姿。乳母であるタキには通用しないと言うことをナヒロは考えていない。
「駄目です。キィラール様はお疲れなんですから、明日お話されればよろしいでしょう? 今夜はもうお休みください」
「タキ、嫌いっ」
ぷぅと頬を膨らませ、唇を尖らせて言い放つ。
「もぅ何でタキは、この手に引っかからないの」
そっぽを向いてぶつくさと文句をはくナヒロに、二人の会話をずっと聞いていたキィラールは吹き出した。
「あはは! ナヒロは面白いね。本当に可笑しい。くっくっくっ」
ナヒロは一体何がキィラールの笑いのつぼをついたのかさっぱり理解できない。こちらは真剣に演技をして、乳母が全く騙されてくれなかったというのに。
兄にも笑われ、機嫌を損ねると、「兄様なんか知らない!」と捨て台詞を言い、ナヒロは階段を駆け上がった。
「タキの意地悪!」
エントランスホールに着いたところでタキにも一言言うことを忘れはしない。
「嫌いで結構です」
言われた当人達は、顔に笑顔を浮かべながら軽く流した。
ナヒロはいじけても、次の日ケロッとしてまた、一人で屋敷中を歩き回る。明日は、起きたら一目散にキィラールの部屋に訪れることを、ナヒロを知っている者なら容易に予想できた。
「タキ、ナヒロを頼んだよ」
忍び笑いをしながら、乳母にいじけた妹を託す。
キィラールには、まだやらなければならないことが残っている。
「はい、分かっています」
丁寧にお辞儀をすると、タキはナヒロを追っていった。
タキは嫌がるナヒロをやっとの事で寝かしつけると、衣裳部屋へと向かった。
装飾品の紛失確認のためだ。無くなっていたらナヒロのいない間にナヒロの部屋を探さねばならない。
屋敷の窓から外を眺めると、綺麗な星が空一面にちりばめられている。
綺麗な夜空に魅入っていると、仕事を思い出し視線を戻した。
なにやら、赤いものが視界を掠める。
「? ――何かしら?」
目に映るは屋敷の正面へ向けてくるいくつもの赤く揺れるもの。それが徐々に増えていく。ものすごい速さで。
視力のいいタキは、じっと凝視すると、赤いものが何なのかが分かった。あれは炎――正確には、木の先端で燃えている火だ。
長年、ジェバリア家に使えるタキはそれが何であるかを瞬時に判断し、慌てて兵士の部屋へ走り出した。出動の要請をする為だ。
普段、主の要請がなければ兵は動かない。今は緊急を有する。あの炎がいつ到達するか、時間の問題だ。主に報告していては出動が遅くなってしまう。
兵士を動かすと、次に従者達。これは全員に伝達させるには時間がかかる。伝達に一人使わせ、屋敷総出で臨戦態勢を取るようにした。
最後に向かうは、主人の寝室。
勢い余って通り過ぎそうになる足を、自力で止めるとドアを強く乱暴に叩いた。
「旦那様――! 奥様! 大変ですっ! 起きてくださいませ!」
寝室のドアを叩き、二人を呼び起こす。これでも起きないようであれば、無礼を承知で中へ踏み込むしかない。
夜の触れ合いの最中でも、だ。
「だんなさまぁぁぁっ!」
これ以上出せないと言うほどの金きり声を上げ、主のギオムを呼んだ。
ここを開けるしかないとタキが選択した頃、ドアがゆっくり開かれた。
「タキ、こんな夜更けに何事だ?」
ギオムは妻のメリシィルと共に部屋から顔を出した。
メリシィルは眠そうな目をこすっている。
この部屋からたいまつのほのおは見えない。タキの切羽詰まった顔にギオムの顔が引き締まる。
「何事だ」
「何者かがここを狙っております! 沢山の松明の炎が屋敷へ向かってきております!」
ギオムとメリシィルの目が大きく見開かれ、廊下を走る。門前が見える窓へ駆け寄り、近づく炎が確認できた。
「旦那様、奥様は子供達と共に裏口から逃げてくださいまし!」
懇願するタキに、ギオムは唸った。
屋敷の外で何が起きているのか。
ギオムは一人の人物が頭をよぎった。首を振ることで振り払う。
不安顔のメリシィルとタキ、交互に見回せば、二人は覚悟を決めた表情で頷き返す。
「メリシィル、お前はナヒロを! タキ、お前はダセスだ。急いで裏口から出るぞ! これほど多くては私の兵だけでは応戦できまいて」
ギオムは辛そうに、顔を歪めた。
眠りに入ったばかりのナヒロは、メリシィルにより乱暴に起こされた。
「まだ、外暗いよぉ? タキィ、私まだ眠ぃ」
目ボケたナヒロは母をタキと勘違いして、ベッドの中に潜っていこうとする。
「タキではありません! 寝ぼけている場合ではありません! すぐに起きなさいっ」
眠くて瞼を開けようとせず、駄々をこねるナヒロにかまう時間も惜しい。
ナヒロをベッドから引きずり降ろすと、瞼をこするナヒロを軽装な服に着替えさせ背中におぶった。
「しっかりと服を掴んでなさい! いいわね!?」
まだ完全に目が冷め切っていないナヒロにメリシィルは怒鳴りつけた。
二階にある子供部屋を出て、廊下を走り裏口のある厨房を目指す。廊下を走っていると、外からは多くの人の声と、剣が交りあう音、何かが燃える音、何か分からない様々な音が聞えてきた。
メリシィルが廊下から見た炎は、もう屋敷へ到達してしまっているのだ。
屋敷側で必死に守衛しているのが、ギオムの兵。対する相手は、炎の数から計り知れない。
ギオムの兵だけで到底勝ち目はないのは明らかだった。
厨房にほど近い階段を目指す最中、門兵をすり抜けて前庭に入り込んでいる炎が二階の窓から視認できた。
急がなければ。玄関がいつ蹴破られてもおかしくない。
屋敷を守ろうと必死に剣を握る兵士の無事を祈り、メリシィルは廊下を急いだ。
炎に圧倒されて、足を止める時間はないのだ。
屋敷の兵士で太刀打ちできないことは、屋敷に住まう皆が分かっている。
しかし屋敷の主を逃がすまでは、ここを守りきる。その思いだけで兵士、従者は進入しようとする賊を押し留めてくれている。
厨房前に差し掛かる手前で、厨房の入り口を押さえている人影が見えた。あのドアを通らずして外へ出る方法がない。
緩やかに足を止めると、ドアを押さえるタキと次男ダセスだ。
ダセスが押さえるドアがものすごい音を出している。
「ダセス、タキ、どうしたの!?」
状況から鑑み、族が厨房に入り込んでいるのは明らか。頭でわかっていても、どうしたって尋ねずにいられなかった。
「奥様、ここから逃げることは叶いません!! 賊が裏口からも侵入してきております! ここは封鎖しましたが、時間の問題。どうかこのまま廊下を突き当たり、外の植木などの下に身をひそめてください!」
メリシィルは顔が青くなった。
ここを突破されるのも時間の問題となれば、ドアを押さえている二人は――こんなときに考えたくもない。
「タキ、後で落ち会いましょう。ギオム様にもそうお伝えして」
「は、はい。わかりました。参りましたらお伝えします。早くお行きください」
メリシィルは迷わず廊下へ引き返し、走り出していく。
「ダセス様もお早く!」
横でタキと同じくドアを押さえていたダセスに、二人と共に逃げるようタキは懇願した。
タキの力ではとても抑えきれない力がドアの向こうから感じる。もうドアは持たないだろう。押さえつけているドアは今にも壊れてしまいそうなぐらい、蝶番が悲鳴を上げている。
「ダセス様!」
タキが叫んだそのとき、開かないドアにしびれを切らしたのか、木のドアから剣が突き刺さってきた。銀色に光る剣先はタキの腹部をかすめていった。すぐさま次の剣がドアの向こうから突き刺さってくる。
「タキっっ!!」
突然のことに、ダセスは叫んだ。
扉の向こうから複数人の人の気配がする。
ゴクリと唾を飲み込む。
扉を押さえていたダセスにも、その切っ先が向けられようとしていた。




