ブラッドバス
枕元でアラームが鳴っている。
起きなきゃ、もうこんな時間…起きなきゃ…
でも学校はつまんないし、行きたくないな。
このまま寝ていようか…といっても、家族が起こしに来るかな。
いや、私はいつも自分で起きてるんだったっけ。
なら、このまま寝てたら逆に怒られるな。
心配されるかも、それはそれで面倒くさい。
ところで、今、何時?
というか、なんで床に寝てるの?
ここ、どこ・・・?
目を開く、固い床に寝ていたためか体が少し痛い。
そこは真っ暗な闇の中だった。
辺りを見回す、嗅ぎなれた紙の香り。
ここは駅前の本屋だ。
そうだ、思い出した。
私は学校から帰る途中本屋に寄って、雑誌を読んだんだ。
さっき頭の上に落ちてきたのはあの雑誌だ。
で、その後…その後は…
怖いから思い出したくない、でもその恐怖の元は数歩先に転がっていた。
バイブレーション機能で、床の上を微かに動いている。
アラーム音だと思ったのは、携帯の着信音だった。
電源を切ったはずなのに、今はなぜか電源が入っている。
デフォルト設定の単調な音が、店内に鳴り響く。
暗闇の中で、赤、青、紫、オレンジのLEDが瞬いている。
怖い、いつも使っている携帯なのに凄く怖い。
携帯が床の上を少しづつ這い回っている、なにか未知の生物のように見える。
そもそもどうして店内の照明が落ちているんだろう?
それから、店員や他の客の姿も無い。
あの時は確か、レジ番の店員がひとりいたし…
それに会社帰りのサラリーマンや主婦、少なくとも10人前後は店内に居た筈だ。
この本屋は21時が閉店時間だ。
私が来た時は18時ごろ、弊店までゆうに3時間はあった。
でも、誰もいないのはどうして?
そもそも、床に倒れた私を店員が放置した理由が分からない。
少なくとも、店で人が倒れていては邪魔になる。
冷酷な性格の人間しかいなかったとしても、商売上なにがしかの対応はしたはずだ。
それから気になる事があった。
鉄分に満ちた臭い。
女である自分にとっては馴染み深い、だがここでは場違いな臭い。
血の臭いだ。
着信音と振動音はまだ、やかましく鳴っている。
意を決して一歩づつ歩み寄る。
一歩、二歩、三…そこで気づく。
床が動いている?いや?
携帯電話のまわりに、何かが迫っていた。
床を流れる、液体。
血。
夥しい血液が、携帯を浸そうと床を流れてくる。
呼吸が止まる。
それでも必死に呼吸を再開する。
『はっ、はっ、はぁっはっ…はっはっ…』
心臓が脈打つのを感じた。
叫びだしそうになるのをぐっと堪える。
あと一歩、踏み出す。
かがんで、手を伸ばす。
携帯に手が届く、携帯を掴んだ。
掴んでポケットに入れる。
だが血はどんどん流れてくる。
一瞬の思考ののちに、平積みの雑誌の上に飛び乗っていた。
さっきまで居た床を、血が川のように流れていく。
ふだんならこんな事は絶対にしない。
というかしたくない。
でも、今の状況は異常だ。
ポケットの中で着信音は鳴り続けているが、
電源ボタンを押して着信を切る余裕がない。
雑誌の上で呼吸を整える。
息を深く吸って吐く、それを数回繰り返す。
動悸がなんとか収まりそうな時に、
ザシュッ
何か、音が。
ベシャッ
また、音が聞こえた。
「ひっ…ひぃっ…」
とっさに平積みの雑誌の上にしゃがみこむ。
人の気配がした。
確かにした。
ゆっくりと立ち上がり、音がするほうを見ようとする。
見たくない。
でも私の首の角度は、音がする方向へと向いていった。
その音の源がなんなのか、確かめずには居られなかった。
真っ黒い「山」が、店の奥にできていた。
そして、その山から大量の血が、流れ出していた。
その山の傍らに、黒い人影が蹲っている。
何か棒状のもの、いや、おそらくは刃物を振りかざして…
それの刃物で、床に転がっているであろう「何か」を切りつけていた。
私はそれを見た瞬間にしゃがみこんでいた。
目からは涙が溢れ出ていた。
泣き出しそうに鳴るが、それを必死に押し殺す。
もう分かっていた、あの血の川は黒い山から流れてきている。
この店の人間は私を除いて全員、殺された。
このままじゃ自分も間違いなく殺される。
逃げよう、今すぐ。
今いる『島』は雑誌の『島』だ。
しかもレジに近い入り口側。
音がするのは店の、奥側。
(今なら…出られる?)
ゆっくりと立ち上がってあたりを伺う。
少し目が慣れてきたがやはり真っ暗で、何も見えない。
店の外はガラス張りだ、外を見る。
アルミ製のシャッターが、下りていた。
「う…そ…」
ミシッ
店のどこかで、何かが立ち上がる音がした。
ピチャッ ピチャッ
血に濡れた床を踏む音が聞こえる。
なんとなく、自分は死ぬのだという事が分かった。
携帯の着信音がまだ鳴っている。
誰からの電話だろう?
ぼんやりと考える。
自分がここで死ぬにせよ、最後に誰かと話をしておきたい。
心からそう思った。
ポケットから携帯電話を取り出し、すばやく開いて耳に当てる。
通話ボタンを押した。
「ねえ!無事!?返事をして!ねえ!」
スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、聞いたことのない声だった。
涼やかで、でも落ち着きのある声。
年齢は多分、私と同い年くらい。
「だ、誰…?」
「今は何を言っても信用はしてくれないと思う…でも良く聞いて!
そこから出られる方法があるの!」
「え…?」
突拍子も無い発言だった、この状態でどうやって助かる?
どう見てもビルの電源は完全に落ちている。
何かの手段で警報装置を作動させたとしても、警備会社が到達する前に私は殺されている。
「選択の余地はないの!いい?今からわたしと同じ事を言って! その言葉は……」
私は、闇の中でおびえながら彼女の言う事を聞くことにした。
どうしてもそうしなければならないと、全身から警報が鳴っているような気がした。
彼女は、スピーカーの向こうで囁いた。
私は、わけもわからずに彼女の言うがまま叫んでいた。
『我が名はマギウス!大島ゆう子!全ての“文字列”は!私に従う!』
私がそう叫ぶと、突然足元の雑誌、いや、この本屋の全ての本のページがひとりでに開いた。
雑誌を結束していた紐が弾ける。
続いて、ページが勢いよく破れた。
全ての本から、活字が飛び出した。
活字は列となり、混在しあい、絡まりながら空間を埋め尽くした。
そして、黒い人影に目掛けてその文字列は襲い掛かった。
人影は、黒い文字の渦に取り囲まれている。
そいつは、手に持っていた長い刀剣でそれを振り払うが、後から後から文字の列は湧き出した。
私は携帯電話の向こうにいる「彼女」に話しかける。
「ねぇ、これ、これからどうすれば?」
「待ちなさい。大丈夫、すぐに助けをが来るわ」
スピーカーの向こうから、今まで聞いたことがないようなとても優しい声が聞こえてくる。
私はこれから何がどうなるのか分からなかった。
でも私は安心していた。
私のことを救ってくれる存在を、今見つけたのだから。
携帯電話から響いてくるとても優しげな声に、私は心から魅了されていた。 あんな声はいままで聞いたことがない。
家族からもあんな風に話しかけられたことはなかった。 もともと自立心が強かったというのもある。
だがあの奇妙なウィルスに感染してから、私は家族に対しても心を閉ざしがちだった。
家族もその事を察してはいたのだろう。
学校の友人達はすでに私の周囲にはいなかったし、ネットの友人達にもウィルスの事は明かさなかった。
何を言われるか分からなかった、それが怖かったのだ。
でも、この人は違った。
違っていたのだ。