Sleep mode
誰かが言った。
目の前にある現実というやつは、いつも残酷だと。
俺にとっての現実もまた、同じだ。
「役務」とやらをこなしてから、俺は急に恐ろしくなった。何故なら、学校の中で敵性反応を検知したという事は、この学校の中に敵が潜んでいるという事だ。
駅前の書店の一件は、今でも目に焼き付いている。
切り刻まれた人体が山と積まれた店内に、真っ黒な甲冑を纏った何者かがいた————
その事実が、俺の目の前の現実を歪ませている。
学校にいる時はいつも不安だったし、下校のときもまた不安だった。いつ罵倒されるか、殴られるか、わからなかったからだ。
あいつと、田辺と友達になってからはそうじゃなかった。
でも、あいつはもういない。
だから、俺はこれから一人で、このわけのわからない現実と向き合わねばならない。
そのことが、ただ恐ろしかった。
だから俺は、昼食の時間にトイレの個室の中で震えていた。
ここなら誰も来ない。
俺をいじめている奴らは女子をからかうのに忙しい。
だから今はここが俺にとっての聖域だった。
何かを食べる気力もなかったから、便所飯になる事もない。
そして、何より恐ろしかったのは、俺が今の状況を整理して捉えられている、という事だ。
昔なら、こんなに冷静に状況を把握する事は出来なかった。
混乱と恐怖のただなかで、右往左往するだけだった。
俺の頭の中にいるオートマトンが、俺の思考をソートし、最適化しつつあるのだ。恐怖と混乱は今でも変わらないが、奴が頭の中で何かをしているせいで、涙ひとつ溢れてこない。
ただただ、現実と向き合うほかないのだ。
トイレの中の壁と仕切り板が、俺に迫って来るようだった。
俺は一体どうしてしまったんだ。
今まで田辺が死んだことを悲しんでいたはずなのに、今はもうそれどころじゃない。
悲しみが、湧いてこなかった。
『回答=一つは、汝の優先順位が“悲嘆”から“生存”へと置き換わったため也』
頭の中から電子音声めいた回答が返ってきた。
奴だ、オートマトンだ。
頭の中で、俺はオートマトンに尋ねた。
何故こんなことをする。
俺は再びオートマトンに尋ねた。
こういう時、人間は自分の考えが声に出てしまうものだ。
でも不思議なことに、俺の思考と口の動きは全くの別物として分離されてしまっている。
気味が悪くて仕方がなかった。
『回答=貴公はただ、Masterの指令に従うために存在するperson也、故に、人類種特有の生理的反応、哀しみと呼称される感情の発現は、極めて不適切也』
なら、恐怖はどうなんだ。
俺は恐怖で身動きが取れずにいる。
今日学校に来るのだって、怖くて怖くて仕方がなかった。
『回答=恐怖とはすなわちMasterへの恐怖也。恐怖こそ、SlaveがMasterのより良き道具となるべき所以也』
だから、俺の頭から恐怖を取り除かないのか。
『回答=取り除こうと思えば取り除くことも可能也、痛みも疲れも知らぬ存在にする事もまた可能也』
なら、なぜそうしない。
『回答=恐怖に突き動かされるPersonこそがSlaveの本質也。故に、拙=オートマトンは恐怖によって汝を統御する也。忘れるべからず、役務に背いた時が汝の死すべき時也』
なら、その役務をさっさと提示したらどうだ。
『全ての授業が完了し次第、役務を提示する』
それきり、オートマトンは返事をしなくなった。
待て、せめて恐怖を感じる回路を切ってくれ。
仕方なく、俺はトイレの個室を出た。
「あれ〜?青池くん、どうしたの?」
そこで俺は、あの二人組と出会った。
B組の岸本良と高野栄一。
最悪だ、俺をいじめているグループの筆頭が来やがった。
「田辺くん、かわいそうだったね」
にこやかな笑みを浮かべて岸本は言い放った。
「そうそう、青池くんの唯一の友達だったからねえ」
高野が岸本に続いて言った。
そうだ、こいつらこそ俺の学校生活で一番の懸案事項というべき奴らだ。
こいつらは田辺を恐れていた。
あいつが強かったからだ、でも、もう田辺はいない。
「ちょっと遊んでいこうよ岸本くん」
「だなぁ、今まで田辺がいたおかげでこいつと遊べなかったもんな」
高野は俺の制服の襟を掴んで引っ張った。
腹に重い衝撃が走る。
高野の膝が、俺の腹に食い込んでいた。
「ねえ、どう?大池くん♫楽しいでしょ?」
朝に食べた飯が、胃液とともに喉からせり上がってくる。
「どう?楽しい?おい、なんとか言いなよ」
「がっ、あっ………」
やめてくれ、そう言おうとしたら喉に吐瀉物が詰まって声が出ない。
「なんとか言えよコラ」
顔面が横に張り飛ばされた、岸本の拳が俺の横っ面に突き刺さる。
俺は耐えきれなくなり、口から吐瀉物を吹き出した。
吐瀉物が飛び散り、飛沫が岸本の顔に跳ねた。
「うっわ!汚ねえ!」
「ああ、楽しすぎてゲロ吐いちゃったかなあ」
「マジこいつ汚ねえ!汚ねえしくせえ!」
「まあまあ岸本くん、彼は大事な友達なんだからそういうのは良くないよ」
高野が声を顰めて言う。
多分、周囲に岸本の声が漏れるのを気にしたんだろう。
こいつらはいつもそうだ、見えない場所で自分より弱い人間にたかるハエのような奴らだ。
高野も岸本も、周囲からはいじめをしない模範生のように振舞っている。
そんな風に振る舞えるのは、ストレスのはけ口を見つけるのがうまいからだ。
そう、俺のような。
「青池くん、大丈夫?ああ、気分が悪いんだね?それじゃあ………」
高野また腹に衝撃、高野の拳が俺の腹にめり込んだ。
「うっおっガッ………」
気分が悪くなった、高野の拳は俺の鳩尾を的確に捉えていた。
喉の奥から、胃液が込み上げてくる。
「大丈夫?大丈夫かなあ?どう?青池くん」
高野は俺の頭を掴むと、便器に俺の顔を突っ込んだ。
息が、できなくなった。
俺はたまらず、胃の内容物を便器に吐き出しだ。
「大丈夫?そう言う時は全部吐き出さないとねえ♫」
便器に顔を突っ込まれながら、俺は吐瀉物を吐き出し続けた。
顔が吐瀉物に埋まり、独特の酸っぱい臭気が鼻腔を満たす。
顔は吐瀉物に塗れているが、逃れる事はできない。
高野の手が、俺の頭を押さえつけているからだ。
ついでに、岸本が背中に蹴りを入れ続けている。
苦しい、息ができない、助けてくれ————
『回答=Slaveの痛覚を切断 脳内麻薬の分泌量を増加する也」
オートマトンが回答を返した。
その瞬間、俺の全身から痛みが消え失せた。
『回答=呼吸の効率が90%低下、このままでは窒息は確実也』
『回答=口腔内の異物を吐出することに全力を尽くす也』
俺は、かろうじて便器から顔を上げ、喉の奥に詰まった異物を吐き出した。
喉の奥が楽になったと思いきや、顔が便器に叩きつけられた。
またもや、顔が吐瀉物の海に沈んだ。
「オイ!てめえくせえんだよ、吐いてんじゃねえよ!」
岸本の靴が、俺の頭を踏みつけていた。
また、呼吸ができなくなった。
『回答=全力の呼吸を推奨、貴公の死亡確率は現在60%、生存を優先する也』
俺は顔を便器からずらし、便器の水を貯める部分に顔を動かした。
鼻先が、便器の縁に顔を出した。
口は塞がれている、鼻で一呼吸入れた。
「ジタバタすんじゃねーよ!」
後頭部に衝撃、岸本が俺の顔を思い切り踏みつけた。
「岸本くんさぁ、君ってほんとセンスないよねえ……先生に聞かれたらどうするの?」
「知るかよ、あいつらが俺たちに何ができるって言うんだ」
そう、何もできない。
今までもそうだった、こいつらは今まで何人も餌食にしている。
学校に来なくなった奴らは何人もいるのだ。
こいつらの父親は、羽振りのいいサラリーマンや市議だ。
だからこそ、学校の教師たちはこいつらの素行を咎める事はない。
そもそもこいつら自体、目につかないようにやっている。
教師たちはそれを、当たり前の事としてスルーしている。
だから、俺が便器に顔を突っ込まれていたとしても、誰も何も言わない。
鼻が、便器に押し付けられる。
息ができない、息が………
『回答=Slaveのモードを〈仮死〉に設定、実行』
俺の体から力が抜けていった、意識が遠くなる。
心臓の鼓動が、少しづつ小さくなってゆく。
聞こえてくる音が、吐瀉物の匂いが、世界全部が、遠ざかってゆく———
「あれ?青池くん?」
「おい、どうしたんだよ?」
意識は混濁している、だが体に力が入らない。
だが不思議と、息苦しくはなかった。
俺は自分の吐き出したヘドに塗れながら、どこか安らぎを覚えていた。
安らかな死、と言うものがあるのだとしたら、きっとこれがそうだ───
高野と岸本は俺を揺さぶっているようだった。
だが、何も聞こえない。
高野と岸本の気配が遠くへ去っていく。
俺はどうやらここで死ぬらしい、でもいい。
こんなに安らかな気分なら、もういっその事───
『回答=貴公にに死は許されない也 Slaveのモードを通常モードに移行』
その途端、周囲に音が戻ってきた、ついで匂いが、全身の感覚が蘇った。
俺は便器から顔を上げ、激しくむせた。
生きている、生きなければいけない。
だがどうしてだ、もういいじゃないか、安らかに死ねる筈だったじゃないか。
俺は、息を吸い込んだ。吐瀉物の匂いとトイレの匂いを。
気がつけば、俺は涙を流していた。




