マスター/スレーブ/インプリント
夕焼け空が次第に暗くなり、夜の帳が下りる。
街に灯が点りだす。
住宅街、歓楽街と呼べるほどではない小規模な商店街。
その周辺を走る大小の道路。
道路はひっきりなしに車が行き交っている。
東京都内であればどこにでもあるような街だ。
その街の上空を、光点が通過してゆく。
地上から見上げれば、それは航空機の発光信号と変わらない。
しかし、その光点は音も無く飛び去ってゆく。
その光点に望遠カメラでフォーカスを合わせようとしても無駄だ。
恐ろしいまでのスピードで空を飛び去っていく。
その光点は人の形をしていた。
オカルトマニアならそれを『幽霊』と呼んだだろう。
あるいは宇宙人か何か。
とにかく『人ならざるもの』だ。
確かにそれは幽霊だ、“それ”は、否、“彼”はそう呼ばれている。
幽霊、囁く者、明滅、スペクター。
彼はそのように呼ばれている。
同類から、あるいは敵から。
彼は街を眼下に見下ろす。
彼の目は視覚中の光を倍増でき、闇夜でも鮮明に対象を視る事ができた。
だから、眼下に見下ろす街は全てコマ落としの映像、スローモーションに見える。
彼は光と同じ速度で飛ぶことが出来る。
街道の上を飛び去りながら、下を流れていく車の列を視た。
ヘッドライトとテールライトが、赤、黄、様々な光の流れを形作っている。
だが普段より車の流れは少ない。
見ると、通行止めができている。
検問だ。
あの街で起きた事件は早くも大事として扱われそうだ。
だが警察はこの事件をどうする事もできないだろう。
彼はその事を良く知っている。
その心中は穏やかではない。
仕事は一つ片付けた。
だが、もう一仕事残っているのだ。
恐ろしく骨の折れる面倒な仕事が。
しかしやらねばならない。
それも、至急に。
彼はそのまま帰路へつく。
スピードを維持したまま、街の光のなかの一点を目指す。
見る見るうちに街は通り過ぎ、宗方総合調査事務所の窓の隙間を通り抜ける。
彼は床に降り立った。
絨毯の敷かれた簡素なオフィスには、青池が横たわっていた。
そして、宗方の帰還と同時に青池の体がぴくり、と動く。
宗方は青池に足早に歩み寄り、青池を見下ろしつつ言った。
「起きろ、この間抜けが」
風が吹き抜けている。
標高100メートルほどの高さ、この街に作られた新築のマンション。
その最上階のテラス。
そこで彼女は震えていた。
テラスはとても広い。
小規模なガーデニングができるほどの広さであり、事実そこには大小さまざまなプランターが置かれている。
デイジー、マリーゴールド、雛菊、薔薇。
普段なら陽光を一杯に受けているであろう花々。
だが今は夜の帳の中で静かに眠っている。
ここは、どこなのだろう。
大島ゆう子は全く見知らぬ場所に居た。
あの地獄から幽霊に助け出され、そして今はここに居る。
全身は血に塗れている。
靴も、制服も、酸化した血で赤黒く染まっている。
ここはひどく寒い。
高さ、吹き抜ける風、明らかに異常な出来事の数々が彼女をひどく混乱させていた。
窓をちらりと横目で見る。
頑丈なアルミサッシのガラス戸はカーテンが下りている。
しかし、そこからは明かりが漏れている。
(入ってもいいのだろうか…)
扉に手をかけるが、その時えもいわれぬ不安に襲われた。
いや、罪悪感が彼女の心中に沸き起こった。
このドアに手をかけてはいけない…許しがあるまでは手をかけてはいけない…
何故かそう思えた。
だが彼女には確信があったのだ、ここに自分の救い主がいるのだと。
しかし、入れない。
許しを得ていないからだ。
そもそも、自分は常識的に考えれば不法侵入者だ。
だから彼女は震えていた。
それは風のせいではなく、彼女の恐怖によるものだった。
この中に居るであろう救い主に、もし、拒まれたら?
それがとてつもなく恐ろしかった。
彼女はなすすべも無く、テラスで震えていた。
ふと、プランターの花々に目をやる。
大小様々なプランターに咲き誇る花々。
どれを見ても、丹念に手入れがなされている事が分かった。
見知らぬ花があった。
その花だけは夜でも見られるようにと、ライトスタンドでライトアップされている。
彼女はそれにひときわ目を引かれた。
鉢植えに細い枝の株が植わっており、枝先端に薄紫色の花がいくつも咲いている。
桜に似ているが、それよりも細かい花がいくつもいくつも。
とても色鮮やかで、その花があるだけで他の花の存在が薄れてしまうほどだ。
彼女は我を忘れて、その花に見惚れていた。
携帯の着信音が鳴った。
びくりとする。
あの人は私がどこに居るか知っている。
何を言われるのだろう?
それが自分を拒む言葉であったらどうしよう?
彼女は恐る恐る携帯を開いて通話ボタンを押した。
動悸が治まらない、不安げに携帯を耳に当てる。
「あの…私です」
彼女は自信なく言葉を紡ぐ。
その間にも彼女の脳裏では、どう謝ろうかと必死に考えていた。
「酷い目に合ったわね…でももう大丈夫。ここは私の場所だから。とにかく入って、鍵はかけていないから」
楚々とした優しい声。
彼女が望んでいた声だった。
「あの、でもわたし…服が、汚れているし」
「気にする事はないわ、それよりも早く貴方と直接話がしたいのああ、とりあえず身支度を整える必要があるわね……安心なさい、バスルームがあるわ」
望外の対応と言えた。
「でも」
だが彼女には迷いがある、そこまで世話になっていいのだろうか?
「替えの服もそこにある、ひとまず体を洗って服を着替えて…
それからお話をしましょう?」
電話の向こうの彼女は、それでも彼女を拒む素振りは一切見せなかった。
「あの」
「遠慮する必要はないわ。それに外に居たら風邪を引いてしまう。
そう、靴は履いたままでいいわ。
この家は土足で入っても大丈夫だから」
やはりこの人は私の救い主なのだ。
彼女はそう確信した。
ガラス戸を開くと、部屋の中と入って行った。
俺は飛び起きた。
理由は二つある。
自らの体を離れた意識が戻ってきたこと。
そして、もう一つは宗方の声に反応したこと。
一つ目はともかく、二つ目が信じられない。
そもそも彼は、宗方と会ってから1日も経っていないのだ。
だが自分は、宗方の言葉に無意識に従った。
それがどうにも解せなかった。
憮然とした表情で立ち上がる。
宗方は満足そうににやにやと笑っている。
青池は、その表情を見て恐怖と不快感に顔を歪ませた。
「…今の事態が理解できんだろう。それもそうだ、そもそもお前のような奴が今の状況に放り込まれれば
気が狂うか死んでいるか、そのどちらかだろうからな」
「ふ、ざけるな!お…俺、俺はを一体どうしやがった!」
「感謝しろ、今からお前に状況を説明してやる。ひとまずは入門編というところだ…一度に多くは言わん。
お前のちっぽけな度量に合わせて、小分けに伝えよう」
宗方は愉快そうに頬を歪めながら滔々と言う。
「第一に、お前は人間ではなくなった。
第二に、お前は私の言うことに従うようになった。
第三に、お前はこれから地獄を見る事になる。」
ここまで言い置いて、宗方はさらに言葉を続ける。
「おめでとう青池一くん。
君は人間のクズから脱することができた。
お前はもう人間のクズではなく私のSlaveだ。
良く覚えておけ。」
バスルームを出て身繕いを済ませた私は、どうにか落ち着きを取り戻していた。体から血を洗い流し、新品の制服に着替えると見も心も生き返る気分だった。しかし、腑に落ちない点がある。
シャワールームに用意されていた着替えは、私の学校の制服と同じものだった。
サイズも全く同じものだ。
どうしてこんな事が?
でも、これから“あの人”に会う事を思えば心が弾んだ。
彼女の救い主はまだ姿を現さなかった。
この部屋はとても広い。
32LDKほどの広さはゆうにあった。
テラスは3つの部屋に面している。
明かりのる漏れ出る一番大きな部屋へと、少しづつ歩み寄る。
樫製の重厚なドアがある、光はそこから漏れ出ている。
ドアを恐る恐る叩く。
「どうぞ、カギはかかっていないわ」
声がした、あの声だ。
扉を開いて、部屋に一歩足を踏み入れる。
足元の感触が、固い床から柔らかなものに変わる.
床には絨毯が敷き詰められている。
足が埋まりそうなくらい柔らかい。
見回すとそこは書斎だった。
高い本棚が部屋の四隅を埋め尽くしている。
日本語や英語、それから大島の知らない外国語の書籍が棚を埋め尽くしていた。
さらに、各所に様々な電子機器と思しきものが配置されている。
モニターやPC、スキャナ、プリンタが設置され、
さらに各所にモデムとワイヤレスルータが設置されている。
そのなかを少しづつ歩く。
足元の柔らかい絨毯の感触が少々覚束ない。
部屋の奥にマホガニー製の机があり、皮製の椅子に腰掛けた人影が立ち上がる。
「あの…お邪魔します」
少しづつ、少しづつ歩み寄る。
彼女の姿を視界に捉えたとき、大島は目を見張った。
高い背丈。
均整の取れた細いプロポーション。
腰まで届くほどの長く艶のある黒髪に、高い鼻少し薄い目と楚々とした眉。
落ち着いた雰囲気と気品を漂わせた美しい少女だった。
彼女の年齢は見たところ自分と少しも変わらない。
「本当によく無事だったわね大島さん…」
彼女は、親しさと安堵を込めて口を開く。
「あなたは…」
大島も、おずおずと口を開く。
彼女はそれを見て、少し悪戯っぽく微笑む。
「いいえ、ユウと呼んだ方がいいかしら?」
「え…?ええぇっ!」
大島は心底驚いていた。
「どうして貴方は…私の“プロフ”を知ってるの?」
プロフとは携帯電話対応のSNSサービスだ。
そのプロフで彼女は他校の生徒と連絡を取り合っていた。
「その理由は簡単よ。私はErikoだから」
Erikoは“プロフ”での友人だ。
彼女とはプロフを始めた後にすぐ知り合った。
彼女は学校での悩みや愚痴を沢山聞いてくれた。
ネット上で面識が無い彼女に対してである。
すぐにメールアドレスを交換し、その後は何度もメールをやりとりした。
だから、彼女は大島の一番の友人であると言えた。
「うそ!Erikoさん…なの?」
だから、大島は一層驚いていた。
「そうよ!本当に…無事でよかったわ」
彼女は大島に歩み寄って、彼女の手を優しくそっと握った。
「あなたは私の大切なお友達だもの、本当に良かった」
大島は彼女の表情を見る。
目を細めて、安堵と悲哀の表情を浮かべていた。
大島はなんともいえない、暖かな気持ちに満たされた。
ただのプロフでの友人なのに、彼女は私を友達と呼んでくれた。
手を握ってくれて、心から心配してくれた。
「あ、ありがとう…本当にありがとう…
私にそんな事言ってくれる、なんて…」
大島の声に涙が混じっていた。
「私はあなたの大事なお友達。だから助けたの。
それより、これから貴方にはたくさん、
そうね…たくさんの事を伝えなくてはいけないの」
彼女は慈愛に満ちた表情で、大島を見つめる。
「でも、今はひとまず…腹ごしらえね。
お腹空いたでしょ?さ、こっちよ」
彼女は部屋の出口へと早足で歩き出す。
そこでくるりと振りかえる。
「そうだわ、私の本名を言い忘れていたわね。
私は恵理子、宮野恵理子よ。よろしくね、大島さん」
彼女はにっこりと微笑んだ。