マスター/スレーブ
俺は、空中に浮かんで暗闇の中を凝視している。
その場所は、控えめに見ても地獄と言っていい場所だった。
いつもはまばらな客が立ち読みをしているばずのその場所。駅前の本屋には死体が積み上げられ、床は血の海になっている。
クラスメートの大島が、書棚の上にしゃがみ込んで震えている。大島が何かを叫んだ。
突然、店内の本全てが本棚を飛び出した。
平積みの雑誌が開き、紐でくくられていたものの結束が解ける。
本から文字が飛び出し、そして黒い人影を覆う。
今店内は様々な文字が恐ろしい勢いで飛び交っている。
アレは何者だ? あの…死体の山はあいつの仕業なのか?奴は人間なのか?
どうしてあんな事を平然とできる?
いや、それ以前に…俺は今ここで何をしてるんだ?
今、何が起きている?
気絶している間に見た幻覚。
わけも分からずに、脅しに屈した上で叫んだ言葉。
『我が名はマギウス』
そして、突然俺の意識は自分の体を抜け出して今ここにいる。
今の状況が信じられない。
分からない事だらけだ。
(落ち着けこれは夢だきっとそう目が覚めるそうだきっとそうに違いない)
恐怖と驚愕で思考は混乱しきっている、脳がぐずぐずに爛れてしまいそうだ。
だが体は動かない、逃げ出すこともできなかった。
そもそも俺の体はここにはない。
逃げられるのか?
俺は意識を、ここではない場所へと向けた。
ここから数ブロック離れた事務所へ。
その中で倒れている俺の体へ意識を向けた。
その瞬間、目の前が真っ赤に染まる。
頭を強く殴られたような痛み。
歯茎の神経に針を突き刺されるような痛み。
脳の芯が真っ赤に燃え上がるほどの疼痛が俺を襲った。
目の前に赤い文字が現れる。
『逃走は不許可』
逃走は不許可逃走は不許可逃走は不許可逃走は不許可逃走は不許可逃走は不許可逃走は不許可……
赤い文字が目の前を埋め尽くし始める。
逃げようと思う度に、痛みは次々と襲ってくる。
俺は両手で自分の頭を覆って…いや、何かがおかしい。自分の手のひらを目の前に翳す、指先から少しづつ崩れ始めている。
光になって、少しづつほどけていく。
足もつま先から順々に少しづつ…光の粒子に変わっていく。
こ、これは一体何だ?何なんだ?
目の前に、ひときわデカいくて赤い文字が出現する。
『汝はslave也 Masterに非ず 汝にMasterの設定せし“役務”を放棄する権限無し』
『逃走は死あるのみ也 Masterに従わざるもの 死あるのみ也』
『継続せよ 繰り返し警告する 役務を継続せよ』
文字は次々と現れては消える。
赤い文字はおそらく、俺に警告を発するためのものなのだろう。
役務を継続せよ
役務を継続せよ
役務を継続せよ
この文字が現れる度、俺の体はどんどんと崩れていく。
右腕が、消えた。
左腕、右足、消失。
胴体も恐ろしい勢いで消えていく。
気がつくと俺は、首だけになって空中に浮かんでいた。
死ぬ。
このままでは間違いなく俺は死ぬ。
ならどうする?
どうすれば?
このまま死ぬ?死んでいいのか?
(まだMasterが提示した条件を満たしていないのに…)
俺の脳裏に見知らぬ言葉が浮かんだ。
(どういう事だ、俺は従わなければいけないのか?そうだ!従う……いや違う!俺は死ぬ!死ぬから、だから従う……Masterに従…くそぉっ!)
また、俺の脳裏にMasterという言葉が現れる。
まるで頭の中に命令がインプットされたみたいだ。
死ぬのは嫌だった。
「マスターに従う!死にたくない!クソッ!」
俺がそう叫ぶと、赤い文字は消えた。
俺の体に光の粒子が集まって、体が元通りになった。
そしてまた、赤い文字が現れた。
「役務を継続せよ」
俺は腹を立てて、虚空に向かって叫ぶ。
「なんだよ!役務って!」
『回答=“雛鳥の捜索及びMasterの周囲の捜索”』
『回答=完了済み“雛鳥の捜索”』
『回答=未完了“Masterの周囲の捜索”』
『役務:Master 宗方礼一の周辺を目視で見張る』
文字は消失した。
(…くそっ、何だよ…何なんだよ!)
Masterが宗方?あの中年が?どういう事だ?
俺は中空に浮かびながら、辺りを観察する。
そうしなければ死んでしまうからだ。
だが、奴は居ない。
黒い人影は血塗れの黒い刀剣をぶら下げて、大島に一歩づつにじり寄ってくる。
その瞬間、光の塊が飛んできて閃光を発した。
そこにあのクソ中年、宗方が立っている。
奴は大島に視線を向けた後、黒い人影と向き合う。
「田辺栄太郎を殺したのはお前か」
こいつが俺の友人を。
田辺栄太郎を殺したのか?
あいつの死因は鋭利な刃物による裂傷と失血だ。
間違いない、こいつだ。
こいつが俺の友人を殺したんだ。
しかし…たとえそれが事実だったとしても、これからどうするんだ?
宗方は警察官じゃない。
「犯人はお前だ」などと言い当てたところで意味は無い。この場で宗方を殺せばそれで済む。
それとも銃でも持っているのか?
宗方はジャケットの裾に手を突っ込む。
しかし、俺の予想に反して取り出されたのは3本のペンライトだった。
そんなものでどうやって?
宗方はそれを投げつける。
3本の光の矢が黒い人影に向かって撃ち放たれた。
黒い人影は、刀剣を振り下ろして2本を打ち落とす。
ペンライトが根元からブチ折れ、内部の回路が破壊されたのか光が散る。
だがそのうちの一本は奴の足に突き刺さっていた。
奴の足が赤く焼けている。
高熱を帯びた鉄のようだ。
いや?奴はどうやら鎧のようなスーツを身に纏っているようだ。
あの黒い人影は、体にフィットする真っ黒な甲冑のようなものを着込んでいたのだ。
気がつくと奴はいない。
黒い人影の背後に回りこんでいる。
奴は、腰から懐中電灯を抜く。
懐中電灯が伸びた。
いや、懐中電灯から光の刃を生み出している。
宗方は犯人を殺すつもりなのだ。
やめろ!と声を上げるが、その声は出てこない。
そもそも俺の声は誰にも聞こえる事がない。
宗方は黒い人影の腕を、鮮やかな太刀筋で切り落とした。
黒い人影はそのまま踵を返して走り出す。
そのまま出口のシャッターに衝突。
シャッターは紙のように引き裂かれて破壊される。
金属とガラスの破片を撒き散らしながら、奴は書店の外へと駆け抜けていった。
宗方は大島に駆け寄る。
あいつは全身血まみれだった。
床を浸していた大量の血液、その中に落ちたらしい。
あいつは宗方の助けを拒否した。
無理もない。
だが携帯電話で2,3何かを喋った後に頷く。
とにかく、ここからどこか別の場所に移動するようだ。
俺は目の前で起こったことが信じられない。
今にも意識が飛びそうだった。
だが俺は、宗方の周囲を見張り続けた。
突然、大島の背後に人影が。
そいつはカメラを構えてフラッシュを炊いた。
「…!おい!なんで…!」
宗方は懐から金属の固まりを取り出して、放り投げる。
極大の閃光。
同時に、大島と宗方の姿は消えている。
残されたのは、空中に漂う俺。
そして…カメラを構えた男。
その顔を俺は良く知っている。
俺の兄、フリージャーナリストの青池一。
奴は満足げな笑みを浮かべて、店内へと踏み込む。
血塗れの店内をカメラのフレームに収めては、何度もシャッターを切る。
店内に積み上げられた死体の山。
奴はそれを見て、さらに満足げな笑みを浮かべる。
シャッターを切る、切る、切る。
切り続ける。
フラッシュが何度も炊かれる。
その度に血溜まり、死体、破壊された店内が暗闇の中で克明に浮かび上がる。
吐き気をこらえつつも、俺は叫ぼうとした。
しかし、俺の体は突然ふわりと浮き上がった。
天井が迫ってくる。
俺は天井を突き抜けて街の上空へと飛び上がる。
街を眼下に見下ろすと、街の明かりが見える。
俺は高く高く舞い上がり、そして、落下していく。
街の明かりの中にある一点。
そこをめがけてどこまでもどこまでも落下していく。
落ちた先に俺の体があった。




