震える指先
当作品は、エブリスタにて2016年クリスマス企画として開催された「カレンダーに秘めた想い」 参加作品を転載したものです。
企画詳細はこちら → http://nanos.jp/aaaxmas
ベッドサイドのカレンダーに、彼女の白い腕が伸びる。
その指先が、冬の日差しに細かく震えていた。
一緒に暮らす様になってしばらく経った頃、駅前の雑貨屋で彼女が見つけてきたカレンダー。
共に過ごす日々を慈しむ様に、日付が変わるとそっと一枚、彼女はそれを破っていた。
その仕草が好きだった。
そして、その行為の先にある現実を憎んだ。
気が付くと、オレはその華奢な手首を掴んでいた。
今まで聞いたことがないくらい大きな悲鳴が、室内に響く。
次の瞬間、大きく見開かれた瞳がこちらを振り返り、驚きと喜びで混沌とした言葉が彼女の口からほとばしった。
不意に横から現れた腕に掴まれて、驚かないはずがない。
肩のあたりを強く叩かれる。
さすがに驚かせ過ぎたか。
しばらく、されるがままに任せた。
一通りの抗議の後、さらに質問の言葉を紡ごうとする彼女の口許を、そっと掌で覆う。
至近距離で覗き込む瞳には、大粒の涙が滲んでいた。
胸がまだ上下している。
覗き込んだ彼女の瞳孔に、密に並ぶ翡翠色の花弁を錯視する頃。
ようやく目蓋が静かに落ちて、細い両腕がこちらへ伸びてきた。
それは、やがて別離へと繋がる営み。
焦燥を噛み殺しながらも、確かな約束は何ひとつ交わさなかった。
その代償として、互いに求め合う。
そこに存在しない何かを埋め合わせるかの様に、毎日身体を合わせる。
いまもまた、それを繰り返そうとしている。
濡れた粘膜に耽溺する皮膚。
既に慣れ親しんだはずなのに、悦楽の境界が曖昧になって、衝動へと追い立てられてゆく。
やがて、カーテンの隙間から射し込む冬の日差しが、室内の薄闇に染み入る頃。
自らの重みすら支えられなくなった二つの意識は、乱れたシーツへと沈んでいった。
――――――
規則正しい彼の寝息に耳を傾けながら、癖のある黒髪にそっと指を差し入れる。
少し硬めの感触が、掌を愉しませる。
昨日は本当に驚かされた。
普段は穏やかな性格なのに、彼は時折、思いもよらない悪戯心を発揮した。
呑気な寝顔を見せている彼の耳を少し引っ張って、こっそりもう一度、抗議しておく。
彼と暮らす様になって、数か月。
私が彼に与えられる物は、もう何もない。
そして、何も与えないまま、私は既に欲しい物を手に入れていた。
彼の元を去らずにいるのは自責の念、あるいは、芽生え始めた本能からか。
カレンダーの薄紙の上では、赤い衣装に身を包んだ老人が微笑んでいる。
真っ白なあごひげを蓄えたその人物は、起源となった聖ニコラウスの来歴からは遠ざかって、北欧出身とされている。
私と同郷だと微笑む彼に、こちらも思わず頬が緩んだ。
その穏やかな在り方に、私は安らぎを見出している。
仕事に向かう彼を見送って、私も出掛ける用意をした。
部屋を出る時に、あのカレンダーをマンションのゴミ捨て場にそっと置き去りにする。
日差しに緩み始めた朝の空気に乗って、少し離れた商店街から漂ってくるクリスマスソング。
この島国の冬は、湿気混じりの涼風が肌に優しく感じられた。
図書館に返却する本を小脇に抱えると、私は坂道を下り始めた。
――――――
すっかり通い慣れた図書館の片隅で、私はその本に出会った。
いままで足を向けたことがない児童文学コーナー。
その奥の書棚には雑多な本が、まばらに並んでいた。
未整理なのだろうか。
それらの中の一冊、濁った赤色の背表紙に視線が引き寄せられた。
銀字のタイトルは掠れて読めない。
手に取ってみると、革の装丁が手のひらにしっとりと冷たい。
ページを繰って視線を走らせてみても、どんなジャンルの物語なのか読み取れなかった。
それほど分厚い本でもない。
今日は新たに本を借りる予定はなかったけど、貸出カウンターにその本を持って行く。
いつもの不愛想な司書のおじいさんが、ぶつぶつ呟きながらバーコードリーダーを押し当てて、貸出の手続きをしてくれた。
図書館に隣接している公園の並木道。
地面を覆う広葉樹の葉が、足元でカサリと音を立てる。
これは何という名の植物だろうか。
ふと空腹を覚えている自分に気付いた。
辺りを見回して、目に留まった喫茶店に入る。
老夫婦が営む小さな店内には、何十年分もの珈琲豆の香りが沈殿しているみたい。
トーストとコーヒーのモーニングを頼む。
今日、二回目の朝食。
寒い季節は、いつも以上にお腹が減る。
お婆さんが運んできてくれた厚切りのトーストから、シナモンの香りが濃く立ち昇っていた。
――――――
部屋に戻って少し休憩してから、掃除機を手に取った。
玄関の扉を少し開いて、週末の香りが停滞した室内に風を通す。
オーディオを操作してお気に入りのアルバムを選ぶ。
半世紀前に録音されたジャズピアノの旋律が、スピーカーから零れ始めた。
ソファの上に放り出したトートバッグから、さっき借りてきた本が覗いている。
膝掛けを手繰り寄せ、本を開いてみた。
最初の十数ページに目を通して話の筋に引き込まれ始めた頃、洗濯機の無粋な電子音に意識を呼び戻される。
誰に聞かせるわけでもないのに、小さく溜息を漏らしてしまう。
家事は苦手だ。
洗いあがった洗濯物をカゴに移して、ベランダに出た。
彼のお気に入りのニットカーディガンを、冬の朝日にさらす。
少し冷たくなった手でコーヒーメーカーを操作して、薄めの珈琲を淹れた。
それをベッドサイドのテーブルへ運ぶと、シーツに身体を横たえて腰まで毛布を被る。
再び、本を開いた。
登場人物の名前と印象がもう一度結びついて、すぐに本の世界に戻ることが出来た。
ピアノの旋律が、ゆっくりと背後に遠ざかってゆく。
ベランダで風に舞う洗濯物に合わせて、窓から射し込む光が本のページの上を行ったり来たりしている。
気が散るので、少し姿勢を変えてみた。
クッションを引き寄せて胸の下に敷き、うつぶせになる。
視線でなぞった文字達が、頭の中で映像になって踊り始める。
彼女はこの感覚が好きだった。
ベッドサイドのコーヒーは、いつの間にか冷えてしまっている。
――――――
その本の主人公は、コートの前を合わせて坂道を下っているところだった。
人影のまばらな朝の街並みを、淡々とした描写でなぞる作者。
抑制された描写に、かえって想像力が刺激された。
一歩一歩、地面の感触を確かめる様な歩調で、足を前に送る。
そうでもしないと、彼はいますぐにでも踊り始めてしまいそうだったから。
ベッドに寝そべっている私の腰のあたりにも、さっきから浮遊感が滞っている。
主人公の胸中を、まるで悪戯を思いついた子供みたいな躍動感が満たす。
そんな年甲斐のない自分に緩みそうな口元を、必死に自制している。
文字を追うにつれて、朝の澄んだ空気が頬に感じられた。
左腕を伸ばして、コートの袖から覗く腕時計に視線を向ける。
ケーキ店の開店まで、まだ少し時間があった。
どうしようか。
ふと脇道に視線をやると、小さな公園が目に入った。
行く当てもないので、とりあえずそちらへ足を向ける。
入口で見つけた自動販売機で、缶コーヒーを買った。
革手袋を外して、冷たくなった指先を温めた。
そういえば、この街に住んでもう何年にもなるけれど、いつも仕事に追われていてゆっくり散策したこともなかったな。
数分後、空になった缶コーヒーをゴミ箱にそっと落として、私は公園を後にした。
――――――
そこから十数ページにわたって、私は主人公の視点で、見知らぬ街をあてもなく散策した。
角を曲がるたびに現れる初めての眺めが、私達の心を弾ませた。
小学校や集会所、住宅街に点在する小さな店舗。
ありふれているけれど、どれもが初めて目にする場所ばかり。
不思議な高揚感が、胸を満たす。
やがて視線の先に、見知ったケーキ屋が見えてきた。
小さな店構えだが、どこかの有名店で修業してきたというオーナーパティシエが作るスイーツは、地元住民の間で定評がある。
ついさっき開店したばかりのその店で、予約していたクリスマスケーキを受け取った。
磨き上げられたショーケースに、スーツ姿でケーキを提げた自分が映り込んでいる。
その滑稽さすら、いまの彼には好ましい。
ケーキ店を出ると、いよいよ足取りが軽くなる。
いつも通り仕事に向かう振りをして家を出たけれど、今日は有給休暇を取っていた。
息を弾ませながら、最短距離で自宅を目指す主人公。
マンションのオートロックのエントランスを通り抜けると、足早にエレベーターの前に立った。
せっかちな指先が、ボタンを三回も叩いてしまう。
――――――
エレベーターを降りる時、勢い余って扉に肩をぶつけてしまった。
思ったより大きな音がしたけれど、立ち止まることなく廊下を進む。
すぐに見慣れたドアが視界に入った。
キーホルダーを取り出そうと、ポケットに手を伸ばした時。
ドアにストッパーが挟まれていて、少しだけ開いていることに気が付いた。
隙間から、室内の様子を伺う。
自分の家なのに、まるで不審者みたいだ。
微かにピアノの旋律が耳に届く。
常ならざる高揚感が、更なる悪戯心を掻き立てた。
彼は扉の隙間をそっと広げると、素早く身を滑り込ませる。
仕事鞄とケーキの箱を、玄関に置いた。
足音を忍ばせて室内に進むと、彼女の姿はベッドにあった。
サイドテーブルにはコーヒーが入ったマグカップ。
うつぶせになって、本を読んでいるらしい。
冬の光の中で、彼女の髪が琥珀色に波打っている。
その小さな頭部が不意に動いて、本から視線を上げた。
気付かれたのかと思って息を詰めたが、どうやら違うらしい。
ベッドサイドのカレンダーに、彼女の白い腕が伸びる。
その指先が、冬の日差しに細かく震えていた。
一緒に暮らす様になってしばらく経った頃、駅前の雑貨屋で彼女が見つけてきたカレンダー。
共に過ごす日々を慈しむ様に、日付が変わるとそっと一枚、彼女はそれを破っていた。
その仕草が好きだった。
そして、その行為の先にある現実を憎んだ。
気が付くと、オレはその華奢な手首を掴んでいた……