表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

長編「冬の戯れ」シリーズ

震える指先

作者: 有月 晃

当作品は、エブリスタにて2016年クリスマス企画として開催された「カレンダーに秘めた想い」 参加作品を転載したものです。


企画詳細はこちら → http://nanos.jp/aaaxmas




 ベッドサイドのカレンダーに、彼女の白い腕が伸びる。


 その指先が、冬の日差しに細かく震えていた。



 一緒に暮らす様になってしばらく経った頃、駅前の雑貨屋で彼女が見つけてきたカレンダー。


 共に過ごす日々を慈しむ様に、日付が変わるとそっと一枚、彼女はそれを破っていた。



 その仕草が好きだった。


 そして、その行為の先にある現実を憎んだ。



 気が付くと、オレはその華奢な手首を掴んでいた。


 今まで聞いたことがないくらい大きな悲鳴が、室内に響く。


 次の瞬間、大きく見開かれた瞳がこちらを振り返り、驚きと喜びで混沌とした言葉が彼女の口からほとばしった。



 不意に横から現れた腕に掴まれて、驚かないはずがない。


 肩のあたりを強く叩かれる。 


 さすがに驚かせ過ぎたか。



 しばらく、されるがままに任せた。


 一通りの抗議の後、さらに質問の言葉を紡ごうとする彼女の口許を、そっと掌で覆う。


 至近距離で覗き込む瞳には、大粒の涙が滲んでいた。



 胸がまだ上下している。


 覗き込んだ彼女の瞳孔に、密に並ぶ翡翠色の花弁を錯視する頃。


 ようやく目蓋が静かに落ちて、細い両腕がこちらへ伸びてきた。



 それは、やがて別離へと繋がる営み。


 焦燥を噛み殺しながらも、確かな約束は何ひとつ交わさなかった。


 その代償として、互いに求め合う。



 そこに存在しない何かを埋め合わせるかの様に、毎日身体を合わせる。


 いまもまた、それを繰り返そうとしている。



 濡れた粘膜に耽溺する皮膚。


 既に慣れ親しんだはずなのに、悦楽の境界が曖昧になって、衝動へと追い立てられてゆく。



 やがて、カーテンの隙間から射し込む冬の日差しが、室内の薄闇に染み入る頃。


 自らの重みすら支えられなくなった二つの意識は、乱れたシーツへと沈んでいった。




――――――




 規則正しい彼の寝息に耳を傾けながら、癖のある黒髪にそっと指を差し入れる。


 少し硬めの感触が、掌を愉しませる。



 昨日は本当に驚かされた。


 普段は穏やかな性格なのに、彼は時折、思いもよらない悪戯心を発揮した。


 呑気な寝顔を見せている彼の耳を少し引っ張って、こっそりもう一度、抗議しておく。 



 彼と暮らす様になって、数か月。


 私が彼に与えられる物は、もう何もない。


 そして、何も与えないまま、私は既に欲しい物を手に入れていた。



 彼の元を去らずにいるのは自責の念、あるいは、芽生え始めた本能からか。



 カレンダーの薄紙の上では、赤い衣装に身を包んだ老人が微笑んでいる。


 真っ白なあごひげを蓄えたその人物は、起源となった聖ニコラウスの来歴からは遠ざかって、北欧出身とされている。



 私と同郷だと微笑む彼に、こちらも思わず頬が緩んだ。


 その穏やかな在り方に、私は安らぎを見出している。



 仕事に向かう彼を見送って、私も出掛ける用意をした。


 部屋を出る時に、あのカレンダーをマンションのゴミ捨て場にそっと置き去りにする。



 日差しに緩み始めた朝の空気に乗って、少し離れた商店街から漂ってくるクリスマスソング。


 この島国の冬は、湿気混じりの涼風が肌に優しく感じられた。



 図書館に返却する本を小脇に抱えると、私は坂道を下り始めた。




――――――




 すっかり通い慣れた図書館の片隅で、私はその本に出会った。



 いままで足を向けたことがない児童文学コーナー。


 その奥の書棚には雑多な本が、まばらに並んでいた。


 未整理なのだろうか。



 それらの中の一冊、濁った赤色の背表紙に視線が引き寄せられた。


 銀字のタイトルは掠れて読めない。



 手に取ってみると、革の装丁が手のひらにしっとりと冷たい。


 ページを繰って視線を走らせてみても、どんなジャンルの物語なのか読み取れなかった。



 それほど分厚い本でもない。


 今日は新たに本を借りる予定はなかったけど、貸出カウンターにその本を持って行く。


 いつもの不愛想な司書のおじいさんが、ぶつぶつ呟きながらバーコードリーダーを押し当てて、貸出の手続きをしてくれた。



 図書館に隣接している公園の並木道。


 地面を覆う広葉樹の葉が、足元でカサリと音を立てる。


 これは何という名の植物だろうか。



 ふと空腹を覚えている自分に気付いた。


 辺りを見回して、目に留まった喫茶店に入る。



 老夫婦が営む小さな店内には、何十年分もの珈琲豆の香りが沈殿しているみたい。


 トーストとコーヒーのモーニングを頼む。


 今日、二回目の朝食。


 寒い季節は、いつも以上にお腹が減る。



 お婆さんが運んできてくれた厚切りのトーストから、シナモンの香りが濃く立ち昇っていた。




――――――




 部屋に戻って少し休憩してから、掃除機を手に取った。


 玄関の扉を少し開いて、週末の香りが停滞した室内に風を通す。



 オーディオを操作してお気に入りのアルバムを選ぶ。


 半世紀前に録音されたジャズピアノの旋律が、スピーカーから零れ始めた。


 ソファの上に放り出したトートバッグから、さっき借りてきた本が覗いている。


 膝掛けを手繰り寄せ、本を開いてみた。



 最初の十数ページに目を通して話の筋に引き込まれ始めた頃、洗濯機の無粋な電子音に意識を呼び戻される。


 誰に聞かせるわけでもないのに、小さく溜息を漏らしてしまう。


 家事は苦手だ。


 

 洗いあがった洗濯物をカゴに移して、ベランダに出た。


 彼のお気に入りのニットカーディガンを、冬の朝日にさらす。



 少し冷たくなった手でコーヒーメーカーを操作して、薄めの珈琲を淹れた。


 それをベッドサイドのテーブルへ運ぶと、シーツに身体を横たえて腰まで毛布を被る。


 再び、本を開いた。



 登場人物の名前と印象がもう一度結びついて、すぐに本の世界に戻ることが出来た。


 ピアノの旋律が、ゆっくりと背後に遠ざかってゆく。


 ベランダで風に舞う洗濯物に合わせて、窓から射し込む光が本のページの上を行ったり来たりしている。


 気が散るので、少し姿勢を変えてみた。



 クッションを引き寄せて胸の下に敷き、うつぶせになる。


 視線でなぞった文字達が、頭の中で映像になって踊り始める。


 彼女はこの感覚が好きだった。



 ベッドサイドのコーヒーは、いつの間にか冷えてしまっている。




――――――




 その本の主人公は、コートの前を合わせて坂道を下っているところだった。



 人影のまばらな朝の街並みを、淡々とした描写でなぞる作者。


 抑制された描写に、かえって想像力が刺激された。



 一歩一歩、地面の感触を確かめる様な歩調で、足を前に送る。


 そうでもしないと、彼はいますぐにでも踊り始めてしまいそうだったから。



 ベッドに寝そべっている私の腰のあたりにも、さっきから浮遊感が滞っている。


 主人公の胸中を、まるで悪戯を思いついた子供みたいな躍動感が満たす。


 そんな年甲斐のない自分に緩みそうな口元を、必死に自制している。



 文字を追うにつれて、朝の澄んだ空気が頬に感じられた。


 左腕を伸ばして、コートの袖から覗く腕時計に視線を向ける。


 ケーキ店の開店まで、まだ少し時間があった。


 どうしようか。



 ふと脇道に視線をやると、小さな公園が目に入った。


 行く当てもないので、とりあえずそちらへ足を向ける。



 入口で見つけた自動販売機で、缶コーヒーを買った。


 革手袋を外して、冷たくなった指先を温めた。


 そういえば、この街に住んでもう何年にもなるけれど、いつも仕事に追われていてゆっくり散策したこともなかったな。



 数分後、空になった缶コーヒーをゴミ箱にそっと落として、私は公園を後にした。




――――――




 そこから十数ページにわたって、私は主人公の視点で、見知らぬ街をあてもなく散策した。



 角を曲がるたびに現れる初めての眺めが、私達の心を弾ませた。


 小学校や集会所、住宅街に点在する小さな店舗。


 ありふれているけれど、どれもが初めて目にする場所ばかり。


 不思議な高揚感が、胸を満たす。



 やがて視線の先に、見知ったケーキ屋が見えてきた。


 小さな店構えだが、どこかの有名店で修業してきたというオーナーパティシエが作るスイーツは、地元住民の間で定評がある。


 ついさっき開店したばかりのその店で、予約していたクリスマスケーキを受け取った。


 磨き上げられたショーケースに、スーツ姿でケーキを提げた自分が映り込んでいる。


 その滑稽さすら、いまの彼には好ましい。



 ケーキ店を出ると、いよいよ足取りが軽くなる。


 いつも通り仕事に向かう振りをして家を出たけれど、今日は有給休暇を取っていた。



 息を弾ませながら、最短距離で自宅を目指す主人公。


 マンションのオートロックのエントランスを通り抜けると、足早にエレベーターの前に立った。


 せっかちな指先が、ボタンを三回も叩いてしまう。




――――――




 エレベーターを降りる時、勢い余って扉に肩をぶつけてしまった。


 思ったより大きな音がしたけれど、立ち止まることなく廊下を進む。



 すぐに見慣れたドアが視界に入った。


 キーホルダーを取り出そうと、ポケットに手を伸ばした時。


 ドアにストッパーが挟まれていて、少しだけ開いていることに気が付いた。



 隙間から、室内の様子を伺う。


 自分の家なのに、まるで不審者みたいだ。



 微かにピアノの旋律が耳に届く。


 常ならざる高揚感が、更なる悪戯心を掻き立てた。


 彼は扉の隙間をそっと広げると、素早く身を滑り込ませる。



 仕事鞄とケーキの箱を、玄関に置いた。


 足音を忍ばせて室内に進むと、彼女の姿はベッドにあった。


 サイドテーブルにはコーヒーが入ったマグカップ。


 うつぶせになって、本を読んでいるらしい。 



 冬の光の中で、彼女の髪が琥珀色に波打っている。


 その小さな頭部が不意に動いて、本から視線を上げた。


 気付かれたのかと思って息を詰めたが、どうやら違うらしい。



 ベッドサイドのカレンダーに、彼女の白い腕が伸びる。


 その指先が、冬の日差しに細かく震えていた。



 一緒に暮らす様になってしばらく経った頃、駅前の雑貨屋で彼女が見つけてきたカレンダー。


 共に過ごす日々を慈しむ様に、日付が変わるとそっと一枚、彼女はそれを破っていた。



 その仕草が好きだった。


 そして、その行為の先にある現実を憎んだ。



 気が付くと、オレはその華奢な手首を掴んでいた……




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ