非日常へようこそ
思いの外、覚えることが多い。
狼奈の後ろに並ぶ形で客足が出てきた店内を歩き、定められた巡回ルート、見るべき場所を確認していく。三階建ての大きな建物ともなると、建物内の隅や従業員用の裏通路等、監視カメラの死角となる部分が多い。それら一つ一つを確認して回るのは、なかなか骨が折れる作業だった。
先程、唐突に無礼を働いてしまったにも関わらず、狼奈は一つ一つを丁寧に教えてくれた。人は見かけによらないとはこのことだ、とか考えながらも、順調に仕事の流れを覚えていく。
一階を全て見回り、エスカレーターが配備されている、中央広場に足を運んだ時。
それは、突然起こった。
「はー、思ったよりも回るところって沢山あるもんだなぁ」
「別に全部覚える必要はないわ。五日間だけのたかがアルバイトのことを頼りにしているわけじゃないから」
「……へいへい」
この辛辣な態度だけは何とかならないものか、と軽く呆れて返事をする。
「次は二階。一応どこのエスカレーターを登って、最終的にどこを降りてくるか、っていうのも決まっているから。覚えるなら、死ぬ気で覚えなさいよね」
そう狼奈が言った瞬間、今までずっと沈黙していた無線機のイヤホンから声が発せられた。
『防災センターから、巡回中の姫々島狼奈と芦那雅生へ。店内に《鎌鼬》が来店。警戒及び、可能であれば対処せよ。繰り返す……』
一瞬、意味が分からずに硬直。
内容から察するに、何者かがカットエッジにやって来て、それに対して警戒しろ……ということらしいが。
「姫々島、今のは……?」
すると、彼女はこちらを見向きもせずに、真っ直ぐに何かを睨んだまま無線を返した。
「こちら姫々島、今すぐに隊長を連れて来なさい。もう既に……奴の視界に入っている」
「は?」
彼女の睨む先。
多数の客が歩き回っている中、一人だけ立ち止まってこちらを向いている、フードを深く被った人物が居た。体格的に見て、雅生とそう変わらない体長の男。頭を軽く垂らし、両腕は力なく前でぶらついている様に見える。
明らかに様子がおかしいその男が、軽く首を横に捻った瞬間。
「────ッ」
駆け出す。
客と客の間を、有り得ない速度で駆け抜け、瞬く間に雅生達の場所にまで到達すると、右腕を後ろに引いた。
「うわっ!?」
「チッ……!」
フード男が右腕を前に突き出したと同時に、突然、狼奈に胸を強く押されて後ろに倒れ込む雅生。よく見ると、フード男の右手には、鋭利なナイフが握られていた。
瞬時に理解する。
こいつは、俗に言う不審者。
先程の《鎌鼬》とは、こいつのことだ、と。
「まさか、アルバイト初日でこいつに遭遇するだなんて……あんた、相当運が無いわね!」
狼奈がフード男を突き飛ばし距離を取らせると、雅生を庇う形で立ち塞がった。
「お、おい、まさか戦うつもりかよ!」
「あんたね、警備員がそんなこと出来るわけないでしょう?警察と違って逮捕権がある訳でも無いし、不審者への対応は一般人と同じで正当防衛に縛られる。ナイフを持っていようが、銃を持っていようが、やり過ぎては過剰防衛でこっちが罪に問われるわ。だから、攻めるのではなく、あくまでも守る体を貫かなくてはならないわけ。覚えておきなさい」
今や相手は完全に戦闘態勢に入っている。
それなのに守ることだけを考えていては、確実にこちらだけが怪我を負うことになってしまうだろう。
フード男が首を左右に倒し、関節の音を鳴らすのを見て、雅生は立ち上がろうとした。
その時、手の先に何やら硬い物が当たる。
指先に落ちていたのは、先程世理から渡された黒いケース。倒れた拍子に落ちてしまったのだろう。蓋が開いて、中身が飛び出していた。
その中身は……。
「これって、警棒……?」
直後、フード男が足を踏み鳴らし、再び駆けだしてきた。
狙いは、丸腰の狼奈だ。
「とにかく!危険だから、あんたは一旦下がってなさい!ここは私が……!」
「……ふざけんな」
そんなこと……出来る訳がない。
狼奈の忠告を無視して彼女の前に立ち塞がり、フード男の振りかぶったナイフを、伸縮性の警棒で防いだ。
店内に響き渡る鋭い金属音。
その音で、次第に周りに居た客が事態に気付き、徐々に動揺が広がっていく。悲鳴が飛び交い、雅生達の立つ場所から人々が離れ、気付けば円形に人集りが出来上がっていた。
雅生は、フード男のナイフを睨みながら言う。
「か弱い女の子を凶器で襲うとか……恥ずかしいと思わねぇのかテメェッ!!」
「あんた、何を……!」
何やら動揺した声が狼奈の口から発せられたが、気にしている暇はない。
だが、雅生の行動にも無反応を貫くフード男が、ナイフを持つ腕に一層の力を込めた時、異変が生じた。
「う、ぁ……ッ!?」
警棒を持つ手に突然痛みが走った。
まるで無数のカミソリの渦に手を突っ込んだかの様に、次々と手が切り刻まれ始めたのである。
飛び散る鮮血と、揺れ動く心。
事態を冷静に捉えられず、切り傷が腕を登り始めた時、背後から甲高い声が挙がった。
「────宣言します!対象を《剥離者》と認識!X号警備の執行を許可するッ!!」
「もう少し早くしろっつーの、隊長……!」
同時に狼奈が、雅生の後ろ襟首を引っ張り、瞬時に前へ出ると、フード男に鋭い蹴りを斜め下から上に向かって当てる。
すると、まるで突風に煽られた紙の様に、フード男の体が回転しながら、二階辺りままで蹴り飛ばされたのである。
そう、地上十メートルまで、無造作に、なんの細工もなく、ただの蹴り技で。
更に狼奈自身も、一度地面を蹴るだけで、フード男と同等の高さまでの飛翔を見せた。
「は、あ……!?」
現実的に有り得ない光景を前に、唖然と立ち尽くす。だが隣にやって来た世理の存在に気付いて、ようやく正気に返った。
「ごめんなさい、遅れてしまいました。でも、もう大丈夫です。人払いも、戦場の確保も、無事に完了しましたから」
ふと辺りを見渡すと、先程まで周りを囲んでいたあの人集りが、完全に消え去っていた。
気配も、風も、空気の流れも、何も感じられない。
まるで密閉空間となった店内に存在するのは、雅生と世理、空中で人間離れした肉弾戦を繰り広げる、狼奈とフード男の四人だけだ。
「な、何が起こってるんだ……?それに、あいつらの動きも……まるで人間じゃないみたいじゃないかよ……!」
世理は、その通りです、と切り出してから、こう続けた。
「狼奈さんからも既に聞いているかと思いますが、警備員とは逮捕権を持たず、有している権限は一般市民とほぼ変わりがありません。しかし、ここ数年の間に新たな脅威の出現と共に、警備員に特例として新たな権限の保有を許可するに至りました。彼ら、《鎌鼬》の様な超能力を持つ者達に対して、超能力を持ってして制す、『X号警備』です」
「超、能力……?」
以前、警備員について調べた時、警備業務には一号から四号までの区分があることは分かっていた。だが、彼女が言う『X号警備』という記述は見覚えがない。まるで敢えて隠されるように、X(未知)の名前が付いているのを考えると、ネット等で簡単に調べられる代物ではないことが分かる。
超能力を持った不審者(新たな脅威)に対して、超能力を持った警備員(新たな権限)が対抗する、『X号警備』。
狼奈の馬鹿げた飛翔能力や、フード男の鎌鼬の様な力も……そしてこの不可解な空間も、全てその超能力の恩恵なのだろうか。
「そして、X号警備を執行する警備員が私達……」
世理が呟いた瞬間。
二つの人影が凄まじい勢いで地面に墜落した。
すると、黒い制服を揺らして、狼奈が手を払いながら立ち上がった。
「制圧、完了……!」
「X号兼務特殊警備員、またの名をオールオブガーディアン────通称、WOGと呼ばれています」
まるで、それが日常茶飯事であるかの様に。
掠り傷程度の狼奈と、地面に転がるフード男を見て、世理は満足げに頷いたのだった。
「超能力者の集団……ウォッグ……」
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カットエッジの営業時間が過ぎ、店の締め切り作業を終えてから、ウォッグの面々は防災センターに集まっていた。
モニタールームの中心に長机を配置し、折りたたみ式の椅子を四つ並べる。入り口から見て、右の奥側から世理と狼奈、左の奥側から津々代、雅生といった形で座ると、まずは世理が口を開いた。
「はい、では皆さん。只今から毎夜恒例の定例会議を開催します。本日の業務で気になる点、もしくは意見等がありましたら、手を挙げて発言をお願いします」
「はい」
一応、真っ先に軽く手を挙げておく。
「おぉ!アルバイト初日から緊急会議で発言をするとは、素晴らしい向上心ですね芦那さん。それでは記念すべき第一声を、よろしくお願いします!」
「いや、伊須乃はこれ参加してんの?」
雅生が指差すのは、相変わらず監視モニターと向き合ったまま微動だにしない瑠羽である。
それについては即座に、瑠羽自身が補足した。
「返答です。瑠羽の仕事は、監視モニターを見守ることと、異常があった際に報告することです。こちらを見ながらでも、会議の内容は洩らさず頭の中に入ってきているので、問題は一切ありません。そちらを向けと命令するならば、そのように致しますが。それから、瑠羽のことは伊須乃ではなく、瑠羽と呼んで下さい。瑠羽は伊須乃瑠羽ではありますが、伊須乃ではありません、瑠羽は瑠羽です」
「……??お、おう、了解しました?」
最後の方は分かりにくかったが、つまりのところ今のままで気にすることはない、で問題ないらしい。
世理が心なしか、そんなことですか、と言いたげにこちらを見ているのが若干腹立つが、今は抑えておこう。
「さて、気を取り直しまして、他に何かある人は居ますか?」
すると次は突然、狼奈が強く机を叩いて立ち上がった。
「納得出来ないわ!あの野郎が、また偽者だったなんて……あいつら、どこまで私達をおちょくれば気が済むのよ!まるでわざとやられに来てるみたいじゃない!」
午前中に、狼奈が制圧した《鎌鼬》のことだ。
あの後、地面に激突して動かなくなったかと思ったら、残っていたのは衣類だけだったのである。逃げたのかどうかは分からないが、その名前の通り、まるで風の様に姿を消してしまった。
締め切り作業の流れを教えてくれた時にも、どこか浮かない顔をしていたのは、やつを逃がしてしまったことを悔いていたからなのだろう。
「これで五度目、だったかしらねぇ。まるで幽霊を相手にしている気分になってくるわぁ」
「報告です、監視カメラの映像を分析中ですが、姫々島狼奈が戦闘中には間違いなく《鎌鼬》はそこに居ました。姿を消したのは、《鎌鼬》を掴み、地面に激突させた、約一秒の間、ということになりますが……」
監視モニターの一つに、空中戦を繰り広げてから、フード男の首根っこを掴み取り、地面に叩きつける場面が映し出された。
エグい。
とても人間のやることとは思えない。
味方のやっていることの筈なのに。
「どちらにしても、消えたということは、また近々来店してくる可能性が高いと考えて良いでしょう。狼奈さんには申し訳ありませんが、次の時までに対策を練ってから、再び対処をお願いします」
「言われるまでもないわ。次は必ず息の根を止めてやる……!」
おかしい。
いや、この空気に付いていけない、こちらがおかしいのだろうか。
さっきから警備員が口にしてはいけない言葉が、無造作に飛び交っている様な気がしていた。
「あの、ちょっと良いか?説明を、お願いしたいんですけど、さぁ?」
「説明、とは?」
「いや、強いて言うなら、あんた達が話していること全部、っていうか……ウォッグが何なのかは分かったけど、そもそもあんた達は何者?何であんな超能力を持ってんの?それに、あの《鎌鼬》とやらも、何でこのデパートに堂々と来店して、かつ戦闘を始めちゃってんの?最近の世間一般ってのは、知らない内にこんな幻想染みたことが普通になってる訳か?」
超能力なんて、物語だけの存在だと思っていた。
だが、今となっては最早、それすらも古い常識となっているのだろうか。
「化け物じゃなくて、幻想だなんて、嬉しいことを言ってくれる子ねぇ。お姉さん、そういう気を遣う男の子大好きよぉ?」
「うおっ!?ちょ、ちょっと……!」
隣に座った津々代が、肩に手を掛けて密着してくる。その豊富な胸を押し付けられ、女性の甘く柔らかい香りが漂い、心臓が大きく跳ね上がった。抵抗しようにも、彼女のどの部位を押し返せばいいのか分からない。腕も、身体も、ましてや腕も、触ったら色々と駄目な気がする。
為すがままに抱き付かれていると、世理が明らかに不機嫌そうな顔を向けてきた。
「まぁ取り敢えず、そちらのケバいお姉さんはさっさと芦那さんから離れてください。厚化粧が芦那さんに移るでしょう」
「厚化粧が移るってナニッ!?」
遠くから津々代を手で払うようにしながら、いきなりキツい毒を吐く。
「あらやだぁ、世理ちゃんったらぁ。お姉さんは化粧なんてしないわ。まだピチピチの二十代前半よぉ?雅生ちゃんも許容範囲でしょ?今なら、お姉さんが色々なこと手取り足取り教えてあげるけど、どうするぅ?」
「どうするって!?スゲェうかがわしく聞こえるのは多分俺だけじゃねぇよな!?」
「ちょっとそこ。脱線してから勝手に暴走するのは辞めて下さい。あと芦那さん、アルバイトの身でありながら、先輩に鼻の下を伸ばしたことは万死に値します。後でみっちり指導するので、私の所に来るように」
何故か怒りの矛先が、雅生へと向いた。
「えェェェェェェッ!?今の悪いの俺ェェッ!?権力乱用だ!今回ばかりは俺は断固戦います!法廷で勝負するぞこの野郎!」
「はい、冗談です」
「あぁもうッ!!スッゴく調子狂うんだけどなんなのこの職場ァァァァッ!!」
そして、全てを帳消しにする一言。
彼女は、本当によく分からない。
「それはそうと、今回の件も含めて、私達のことは全て口外禁止です。秘密と、約束を守る上でならば、後ほど詳しくお話しさせて頂きますね。今は勤務を一時中断させた上での会議ですから、まずは現状の情報交換を済ませたいので……芦那さん、ごめんなさい……」
「そこまで真剣謝られたら……こっちこそ、すまない。デリカシーがない質問をしちゃって……」
「いえ、誰もが疑問に思うことですから、芦那さんが気にすることはありません。むしろ、そうやって謝って頂けただけでも、私達はとても嬉しいんですよ?」
結局、何だかよく分からないまま、話は一時保留になった。
続けて、四辻が口を開く。
「じゃあお姉さんから一つだけ良いかしらぁ。今日はねぇ、結構な数のぬいぐるみさんが届けられたのよねぇ。クマちゃんとか、ネコちゃんとかぁ、可愛い子が多いわけなのよぉ」
「はぁ、それで?」
「こんなに沢山あるなら、一つぐらい貰っても良……」
「却下です。引き続き受付業務に専念してください、以上」
「即決ぅッ!?」
全く繕う様子も見せずに、手元の資料をまとめ始めた。
もしかして実はこの二人、あまり仲が良くないのではないだろうか。
「あぁん!もう、世理ちゃんのイケずぅ!でもぉ、そんなところが大好きよぉ?」
「相変わらずよく分からないわね、この女は……」
それから約三十分程度、様々な議論がされたが、具体的な対応策が生まれることはなかった。
問題は《鎌鼬》の正体と、その目的が全く明らかにされていないことだ。やつが現れ始めたのは九月の初旬頃。その時に対処をした際も今回と同じ様に、直ぐに姿を消してしまったらしい。
それが今回で五度目。
どちらにしても、早めに対処しなくては、来客者にも不信感が広がり、経営自体に大きな損害が出てしまう。警備員としても、何とかして避けたい事態である、とのことだ。
「一先ず現段階では現状維持と、《鎌鼬》の解析作業を意識して業務を続行しましょう。四辻さんは引き続き受付業務を、瑠羽さんは解析作業に力を入れてください。狼奈さんは明日の脅威に備えて、早めに休息を取るように。芦那さんは、本日はこれで業務は終了です。宜しければ、場所を変えて先程の説明会を行いたいと思うのですが……大丈夫でしょうか?」
「おー、シルバーウィークだから、アルバイト以外は暇みたいなもんだしな」
「分かりました。それでは定例会議は以上です。皆さん、解散してください」
世理の言葉を合図にして、全員が一斉に立ち上がる。
雅生は、世理に促される形で、防災センターを後にしようとすると、突然狼奈に呼び止められた。
「あ、あんた、ちょっと……!」
「え?」
彼女は顔を強張らせながら、何かを言いたげに口を動かすが、雅生と目が合うと即座にそっぽを向いてしまう。
「……な、何でも無いわ!明日も来るなら精々足手纏いにならないよう、肝に銘じておきなさいよね!」
そう吐き捨てると、仮眠室へと入っていった。
「俺、朝のあれ以外に何かしたか?」
狼奈の後ろ姿を眺めながら、訝しげに首を傾げる。
そんな様子を見て、世理は呆れたように溜め息を吐いた。
「さぁ、知りませんね。それはそうと、女の子ばかりの職場だからといって、彼女達のことを狙わないように。思春期の男子は獣同然になると聞きますが、どうなんですか野獣さん?」
「何ですかねぇその言い草はァッ!」
「えぇ、冗談です」
「嘘つけッ!」
可愛い冗談ならまだしも、一歩間違えれば人権侵害に匹敵する冗談だ。ほぼ初対面の相手に、こんな言い草を見せるなんて、肝っ玉の座った少女である。
「羨ましいくらいに青春を謳歌してるわよねぇ。瑠羽ちゃんもそう思わない?」
「返答です、実体験がないので理解できませんが、一応同意しておきます」
後ろの方で約二名が何かを言っているが、反論する余地もくれない。
結局、世理に引っ張られながら、雅生は防災センターを後にしたのだった。