讐~その為に~
《不可侵領域》が使えないとはいえ、それなりに戦える自覚はあったつもりだ。
町を徘徊するチンピラ相手ならば軽くあしらえるし、狼奈を相手にしてもギリギリ渡り合える実力はある。
それなのに、あまりにも一方的過ぎる展開だった。
「は、ァッ……!はァッ……!あ、ぐぅッ……!」
開戦から瞬く間に、左手首を握り潰され、右足をへし折られる。
立つことすらままならずに地面を這いつくばると、猛烈な追撃が世理を着々と追い詰め、遂には反撃の意志すらも消え失せてしまった。
仰向けで床に転がって全身の痛みを堪えるが、ケウクは息つく暇も与えない。
「フヒッ、フヒヒッ……!良い光景だ。実に清々しい、ねぇッ!」
無防備になった喉元を、踏み付ける。
「ご、ぼォ、ォッ……!」
尋常ではない激痛と共に、呼吸なのか喘ぎ声なのか、よく分からない声が、自分の口から漏れ出る。
今、自分がどうなっているのか。
何をされているのか。
何をすれば良いのか。
あらゆる思考が完全に死んでしまったかのようだった。
「正義の味方の思想は素晴らしい。わたくしは心から尊敬しているし、何よりも愛している。君の透き通ったような心も、愛らしい華奢な身体も……フヒヒッ、全てが素晴らしい」
ケウクは目の前で屈むと、足先から、太股、腰、へそ、胸元、喉から顔へと、ゆっくりと指先でなぞり始める。
それから、胸元の警備員の紋章を鷲掴みにすると、何かが溶けるような音が響き、紋章を服から引き裂いた。
「な……ゴホッ!ゲホッ!な、なに、を……?」
「だけれどね?よく考えてみてくれ。正義の味方は、善か?悪か?正義とは、人の道理に従って正しいことを指す言葉と言うけれど、道理なんてものは所詮は他者が決めた楔に過ぎない。そんなものに、自身の信念を形付けられるのは、あまりにも不公平だろう?正義とは、形のないもの、形のないものは誰かが作り出すしかない。つまり、正義とは、善でも、悪でもない……その人の考え方次第で決まるものだよ」
「はぁ……はぁ……ケホッ……つまり、何が、言いたいのですか……?」
首が痛いし、酷く熱い。
左手首が潰れ、右脚が折れている為、満足に動くことすら出来ない。
余裕ぶっているケウクを見て、既に確信していた。
こいつは、いつでも自分を殺せる、と。
それでも、敢えて威嚇するように、威圧的な態度だけは崩さなかった。
対してケウクは紋章を見ながら、『あの単語』を持ち出してくる。
「────『ソウスイノゲン』」
「……!」
「隹とは、鳥を作る文字のこと。古代の時代では、鳥の鳴き声や、止まった枝の方向、飛ぶ方向を見て吉凶を占う、鳥占術を扱う習慣があった。きっと彼らは、隹の言葉を神の意志として、人々に伝える役割を果たしていたのだろう。吉凶、異変、気象……そして、訟獄も。全ては、双対なる隹の導くままに」
双対、隹、神の言。
何かの謎掛けかと思ったが、そうではない。
これは答合わせだ。
ケウクの目的が全て、この言葉に詰まっている。
「双隹の言……『讐』……!まさか、全ては復讐の為だったと……!?」
身体の震えを押し留めながら叫ぶように言うと、ケウクは緩やかに両腕を広げながら、こう言い放つ。
「わたくしは、開放したいんだよ。わたくしを非人道的な人体実験で化け物に変え、未だのうのうと悪事を働いているある男……六角喜介から、ねぇ」
「……取締役を……!?ま、待って、下さい……非人道的な人体実験、ですって……!?何故、あの人が……!?」
大前提として、六角喜介、彼は一般人だ。
それに、カットエッジへの剥離者被害に頭を悩ました末、ウォッグに警備依頼をしてきたのも彼である。
そんな彼が、何故?どうやって?
「フヒッ……!むしろ目の前に居たにも関わらず、何故気付かなかったのか……なるほど、灯台下暗しとは存外アテになる言葉であるらしいねぇ?」
ケウクは嘲笑した声を漏らしながら、自身の仮面に手を当てる。
すると、かなり力が入っているのか、仮面が軋む音を立てながら、真ん中に一筋のヒビが走った。
怒っている。
彼の名前を口にしながら、凄まじい憎悪を発し続けているのだ。
「フヒッ、フヒヒッ……!彼は、悪だ。善人ぶったフリをしながら、部下であるわたくしを利用、しやがった……フヒッ、許せない。絶対に許すわけにはいかない。わたくしも悪として、あの悪人に地獄を見せることを誓った。そう、奴は地獄に堕ちるべき存在なのだから」
「利用……?ま、さか……あなたを覚醒者にさせたのは……!?」
ケウクは人間を恨んでいる。
理由は恐らく、自分が覚醒者に変えられた時から始まっていた筈だ。
その実行犯が……あの六角喜介だとでもいうのだろうか。
「だから、こう思っている。わたくしのしていることは紛れもなく、正義なのだ、とね。悪に染まり、悪で塗り潰す、悪による悪の為の正義……その執行の為には、君たちが邪魔なんだよ」
「ふざけないで下さいッ!!」
身体が許す限界まで、大声を張り上げた。
ケウクは真っ黒な瞳を、真っ直ぐにこちらへと向ける。
「……んん?」
「あなたは自分の悪行を正当化しようとしているだけです!何が正義ですか!?何が悪の為の正義ですか!?そんなふざけた思想を掲げて!無関係な人々を巻き込むなんて、そんなの、そんなの……」
善か、悪か。
正義か、悪道か。
ケウクの理念がどういうものか、簡単に判断することは出来ない。しかし、そこには間違いなく、自身の意思に対する絶対的な自信があるように感じた。
悪を貫く正義を正当化してしまうような、信じがたい力強さを、だ。
目には目を、歯には歯を……そして悪には悪を。そんな正義を正当化してしまえば、人間の道理なんて簡単に崩れ去り、人が人を殺すことが当たり前の世界になってしまう。
だからこそ、絶対に譲るわけにはいかない。
「────絶対に間違っているッ!!」
完全否定。
自らの力を振り絞り、ケウクの信念を全て否定した。
しかし、ケウクはそんな心の叫びを受け止めつつも、一切動揺を見せることはなかった。
「ふぅん、なら君は何も間違ったことはしていない……と?」
「え……?」
今までで一層の侮辱を込めたような言い方だと気付き、思わず固唾を呑む。
「おや、もしかして気付いていない?ならば……」
ケウクはベルトから無線機のイヤホンを引ったくると、耳へと入れてきた。
「……ッ!」
「君のお仲間の言葉を、直接聞いてみるがいいさ」
何を言っているのか、全く理解不明だった。
しかし、無線機の向こうから聞こえてきた声が、鼓膜を揺らし、脳へ深々と突き刺さる。
『……本当に、あなたが……?』
『────信じられませんか?私が、ウォッグの裏切り者、だと』
「……ッ!?……ぇ……?」
自身の耳を疑った。
今のは間違いなく、ウォッグのメンバーの声だった。
今まで長い間共にしてきた相手である為、肉声だけで誰のものかは即座に判断出来る。
だからこそ、信じられない。
どうして『彼女』が、自身を裏切り者と称しているのか。
「そんなにもわたくしの信条を否定したいのならば、君は自身の信条をぶつけるしかない。まぁ、それにどんな自信があるのかは知らないよ。ただ、ねぇ?」
「……な、に……を……」
ケウクの嘲笑する声が、より一層強く響き渡ってきた。
「敵に唆されて仲間が暴走寸前まで追い込み、自身の秘密を押し隠して反感を買った上に、チーム内では裏切り者が現れた……こんな間違いだらけで、結束力が無いチームをまとめる君に、わたくしを上回る信条を自信満々に提示することが、果たして出来るのかい?」
「まち、がい……?わた、しが……?」
「信じられない?ならば、高らかに宣言すればどうだい?自分の心を欺き、虚無にまみれた汚い言葉で、自信満々に嘘を吐けばいい。『私は何も間違っていない』、と。それが嫌ならば、現実を見たくないならば、わたくしが君を取り巻く真実を、現実逃避をする君に分かるように教えてあげよう。フヒッ、フヒヒッ……!」
「あ、ぅ……や、やめ……」
聞きたくない。
それを聞いたら最後、今まで長い間で築き上げてきた、チームの結束、信念、生きる意味……全てが崩れ去ってしまうような気がしたからだ。
しかし、そんな願いはケウクに届くはずがなかった。
ケウクは優しげに頭を撫でてきてから、可哀想な者を見下したような口調で、こう言い放つ。
「君が築き上げてきたものに────意味はない」
「……あ……ぁ、ぁ……」
心を支える土台が、音を立てて崩壊する。
ウォッグは、生きる希望、証も同然だったのに……意味がない存在だった。
信じたくないのに、目の前の現実が無残にも希望を撃ち殺し、自身の心を絶望のどん底へと突き落とす。
「わた、し……わたシが、間違ッテ……あ、あァァ……だめ、だ、メ……く、来、ル、なア、ァァ、あァァァァ……アァァァァァァァァァァァァッ!!」
絶叫。
冷たい涙が止めどなく溢れ出し、眼球が飛び出る勢いで目を剥く。
身体がくの字に折れ曲がり、何かに取り憑かれたように痙攣を起こすと。
突然動きがピタリと止んだ。
すると、まるで見えない糸に吊られる操り人形のように、手と足を使わずに身体を起こす。
その様子に、ケウクも訝しげに首をかしげた。
「……?」
それは、覚醒だった。
世理という人物が長い間押し留め続けていた、起こしてはならない禁忌の存在。
心を蝕む悲哀の感情が世理を飲み込み、別の人格が目を覚ました。
「……ァ、ァ……あぁ、ったく。手間取らせやがって……ようやく出てこられたぜ」
「そんな身体でまだ動くことが……いや、違うね。君は、誰だ?」
それは、答える。
宮園世理の面影を一切感じさせない、凶悪性に満ちた笑みを浮かべながら。
「『オレ』が誰かって?────テメェらの創造主様だよ」




