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喫茶店と接近遭遇

 近衛不動産超常現象検証機関の入っているマンションは思いのほか高級マンションだった。


一階のエントランスで部屋番号をインターフォンで押し、内部から開錠しなければ入れないようになっている。


もう少し都心部に近い繁華街周辺なら何処にでもあるマンションなのだが、この地域にあるのは珍しい。というか奇異に見える。


 どのような人が住んでいるのだろうか。この地域にそれほど金回りの良い人が集まる理由はない。


私鉄沿線で目立ったオフィス街に出るには満員電車に揺られることになる。


駐車スペースが申し訳程度に設けられている程度だから、車で通勤している人たちが住んでいるわけでもなかろう。どうも住人の生活のイメージが湧かない。


 ふと何気なくスマホを開いてみると丁度周辺地図が表示されており、良く見ればアパートの裏側に小さな飲食店のマークがある。


商店街とは反対方向だから、地図が古いとかなりの無駄足になるだろう。しかし、念の為、この周辺のことも知っておいた方がいいだろうと思い直し、俺はその喫茶店を訪ねてみることにした。


 その喫茶店のある通りには何もサインが出ていなかった。


地図に示された場所まで行くと、入口に申し訳程度のプレートがぶら下がっており、辛うじて何かの店があるよう見える。


プレートには『喫茶 アルトカイール』と書いてあった。


 窓は無く入口のドアに曇りガラスの部分があるだけで、中はかなり暗いようだ。


閉まっているのかと思いきや、中からコーヒーの臭いと人の気配がする。


俺は思い切ってドアを開けてみる。


 店内は奥に向かって細長い間取りで、一番奥のテーブル席には男女のカップルがいるようだが、プラントで仕切られているので顔は見えない。


何かを話し合う声で男女であることだけはわかる。どうも書類を捲る音も聞こえるので仕事の打ち合わせなのかもしれない。


奥のテーブルから手前に向かって二つほどテーブル席があり、カウンターはL字型に並行して伸びている。


入口近くに古いキャッシュ・レジスターがあり、その手前左手奥に手洗いがあった。


 喫煙できるテーブルはありますかと小声でマスターに聞くと、マスターは無言のまま全席喫煙であることを身振りで示す。


良く見るとマスター自身も煙草を吸っていた。


カウンターの中からこちらを斜めに見返してくるマスターは、背が高く細身だが肩幅はしっかりしており、所謂細マッチョの体系だ。


やや脂で汚れたような白いシャツとヨレヨレのジーンズ、それに無精ひげのコンビネーションが見事に雰囲気を作り出している。


マスターは無言でカップルの隣の席を顎で示した。


「アイス・コーヒーお願いできますか」


 俺が軽く会釈しながら小声で頼むと、マスターは分かったという雰囲気で軽く目を閉じた。


静かに考え事をするのには良さそうな店だ。しかし、この調子で客が来るとは思えない。


昼時に常連客でもまとめて来るのだろうか。余程の資産家が趣味でやっているとしか思えない店だ。


 そうだ、俺は別に喫茶店経営を調査に来たのではない。金の出所をあれこれ想像してしまうのは銀行員時代の悪い癖だ。


俺はカップルの隣の席に座り、スマホのkindleを立ち上げた。


煙が隣の席から漂ってくる。カップルもどちらかが煙草を吸うようだ。これならこちらも安心して吸える。


 煙草に火を点け深く吸い込み、kindleでダウンロードしたばかりの小説を読もうとしたとき、隣のテーブルから再び会話が聞こえてきた。


「しっかし、俺の会社にこんなエリートが入るなんてねぇ。メガ・バンクに新卒で入行した後、外資系投資銀行だってさ。しかも国立理系でバイリンガルだろ?」


「所長、まだ来ていただけると決まったわけじゃありません。それに応募して下さった方の経歴とか外で喋るべきじゃないと思います」


 もしかして俺のことか?男の方は若く見せるために軽薄を装うような喋り方、女の方は低い声だが若さを感じる。もしかして20代かもしれない。


男の方が女を諭すように話し始めた。


「玲子ちゃんも心配性だなぁ。いいかい?あの不動産屋からうちのオフィスまでに大きな目立つ喫茶店があっただろ?


初めてうちに来る人がわざわざ裏手にあるこの喫茶店まで来るわけがない。


 それにここは目立つ看板は出してないしね。絶対的な安全地帯。


 この手のエリートは効率的に動こうとするものさ。なぁに、簡単な推理だ」


 残念、お前の推理は間違っている。


「しかし、まったく玲子ちゃんの時より驚いているよ。不景気万歳だ。俺と同い年のオヤジだけど、玲子ちゃんだってノリノリなんだろ?」


「そんなんじゃありません。そもそも、所長が後先考えなしに大金払って買ったデータベースがいけないんじゃないですか。


 レポートもマニュアルと一緒に付いてくるから大丈夫とか言うのに騙されて、ふたを開けてみたら主成分分析とか回帰分析とかわけわかんない話が当たり前に書いてあるようなレポートばかり。


 比較文化学科卒業の私がどうしたらわかるっていうんですか?」


 なにかツボにはまったようで、若い女の声に怒りの棘が混じり始める。


「意味が分からなくて問い合わせに行ったらあの数学屋、一般的な教養で十分理解できると思ったとか平気な顔で人を馬鹿にして。


 挙句の果てに嫌らしい目で人の身体見回して、良かったら夕食でも食べながら一緒に勉強するかとか言ってきたんですよ。


 大卒で基礎知識がないことがバレたら会社で困るだろうとか言って、本当に悔しかったんですから。


 殴ってやりたかったけど、所長に迷惑かかるといけないと思ったから黙って帰ってきたのに」


 女の声がヒステリックに高まりはじめた。


「わ、わかってるって玲子ちゃん。この人雇って何とかするから。


 もう無理に勉強して報告しろとか言わないから。そうだ、オフィスに帰って準備しよう。それがいい」


 何やら慌ただしく席を立つ気配がする。まずい、別に俺がまずいわけではないが気まずい。


 思わず辺りを見回すと、訳知り顔のマスターが入口近くのトイレを顎でしゃくって示す。


 何とか姿を見られずにトイレに逃げ込むと、しばらくして入口のドアが大きな音を立てて閉まった。


 少し出ずに様子を見ているとノックがして、マスターが低い声で言った。


「おう、行っちまったぞ」


 俺はトイレからこそこそ出てきて礼を言った。


「すいません。助かりました」


「気にするな。で、どうするんだい?あんたがそのエリートなんだろ?」


「実はそんなエリートじゃないんです。僕の十倍以上の給料もらってた人もいますから。


 その上、今はリストラされた、・・・ただのオヤジです。なんか顔合わせたら面接のとき気まずそうだったから隠れちゃいましたけど・・・。


 まぁ、話を聞いて給与水準が合えば考えますけどね。長期的な関係にするにはお互いにメリットがなきゃダメですから。


 先方にもビジネスになるって確証がなきゃ気が引けますね」


 俺の姿をマスターは改めて品定めするように眺めまわす。


「さっきの何チャラ分析とか思い当たるのか?」


「ああ、主成分分析とか回帰分析とか言ってた奴ですか?多変量解析って奴の基本的手法です。それなら直ぐにわかります」


「そりゃ一般教養って奴なのか?」


「まさか、理系なら論文読むときの共通言語かもしれませんが、一般の人が知ってるなんて期待しません」


 マスターは思案顔で少し俯き突然言った。


「金が払われれば雇われてやるつもりか?」


「人の良さそうな所長みたいですからね。俺みたいな老人採用していいもんか悩ませるのも気の毒でしょう。


 試用期間という形で普通の給料で1ヶ月間働いてみて、その後はお互いに商売になるかどうか相談するという条件でどうかと提案してみるつもりです。


 かなり難しい内容でも3週間あれば大体見当つくものですし、それ以上の期間が必要なほどの難しい内容だと、内容わかっても説明が困難ってこともありますから。


 互いに納得できなけりゃ仕事は上手くいきません」


「あの男を見て人が好さそうと言った奴は初めてだな。しかし、・・・そうか。それなら今夜あたりかなぁ・・・」


「今夜?何がです?」


「いや、所長も色々考えるだろうと思ってね。所長のどの辺りが、人が良さそうに見えるんだ?」


「若い女の子が涙を見せるなんて甘えてる証拠じゃないですか。案外、就職活動で困っている子を、所長が拾って社会人として育ててるのかもしれない。


 勿論、なにか見所がある子だったんだろうけどね。


 泣き声に負けたような口調だったけど、男の照れ隠しって奴で、実は自分の娘を馬鹿にされて復讐心満々の親父の気分なんじゃないのかな」


「なるほどね。良ければまた寄ってくれ。うちは営業時間があって無いような店だ。


 定休日は日曜なんだがな。ここに電話してくれれば空いてるか閉まってるかわかる」


 店名と名前と電話番号だけが書かれた小さな名刺を渡された。


   アルトカィール 店長 倉林 信也


 なんとなく気の合いそうな男だ。俺も慌てて名刺を渡す。


「もうリストラされちゃった会社の名刺ですけど、森田健介です」


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