不動産屋
業界外に転進するのは難しい。いくつかシナリオを考えてはいたが、それでも本格的に転進というのは未知の世界だ。
これまでの全てのキャリアを失う覚悟をしなければならない。俺は不動産屋に立ち寄り部屋の賃貸料を先払いしようと考えた。
恐らく不動産屋も40代の無職男を店子にもって不安を覚えているはずだ。業界外への転職なら顔の広い不動産屋が何か情報を持っているかもしれない。
スウェットの上下をジーンズとポロシャツに着替える。
しばらく履いてなかったスニーカーを足に合うように丁寧に履いて、ビニール傘をもってアパートの玄関の扉を開ける。
しとしとと雨が降っていた筈だが、外に出てみると既に雨は上がっていた。まだ多少湿った雰囲気だが、これなら傘は不要だろう。
再び扉を開けて傘を中に放り込む。如何にも安物のカギをかけて、さて歩き出そうとしたら201号室の老婆に話しかけられた。
「森田さんお出掛けですか?」
「ええ、少し駅前の方に・・・、不動産屋さんに挨拶がてらに賃貸料を払ってこようかと思いましてね」
別に近所付き合いが嫌というわけではなかったのだが、仕事があった時期は忙しかったし、仕事がなくなってから近所に挨拶というのも間抜けた話だと思っていたから、結果的には近所付き合いは殆ど無かった。
しかし、愛想の良いこの老婆のおかげで近所の情報が入ってくるのはありがたい。老婆は訳知り顔で話してくる。
「まあ、人生なんて焦っても仕方ないですよ。若いんだから自由にやるのがいいんです」
老婆は俺が失業したということを知っているようだった。
朝一番に部屋を出て、夜一番遅く帰っきていたから、近所の人は仕事をしているときも引き籠りだと思っている人が多かった。
老婆は朝が早かったので時折挨拶を交わしていたから、俺が結構まともなサラリーマンだということは知っていた。
ただ、同時にここ一年ほどは部屋に籠っていることも知っており、それなら俺に何か起こったと想像するに難くはあるまい。
俺も将来のことが心配になり、近所の人々が如何に生計を立てている知りたいとも思っていたので、この老婆と会う時には世間話をするよう心掛けている。
確か101号室には50代の男が住んでいると言っていた。名前は佐藤孝之とか言った。
下の名前まで覚えていたのは、佐藤という名前があまりにも多くて紛らわしですねと老婆と話した時に教えてもらったからだ。
東建託とかいう会社で営業をしているらしい。興味をもって調べてみたことがあったが、かなり汚い営業戦略だった。
土地を持っている老人に近付き、その土地を担保に借金をしてアパートを経営することを進める。
契約書は入居者が見つからない場合には賃貸収入を保証すると書かれていて一見親切に見えるが、一定期間入居者が見つからない場合は賃貸料を引き下げる条項があり、結局は経営者負担になる仕組みである。
この手の不動産業はかなり儲かる。ここのところ経常利益700億程あり、更に毎期10%程度の成長を続けている。
つまり前期比で50億円ほどの増益があった。長引く不景気で株などの有価証券を失ってしまった年寄りの中で、土地だけは持ってた人などが狙われやすい。
土地を売ろうと思ったところで声をかけられる。売るより担保に入れてアパート経営をしてみませんか?というわけだ。
何もわからない老人が巨額の金を借りて東建託の系列企業にアパート建設を依頼し、借金が返済できない場合は担保のアパートは銀行の所有物となる。
銀行はそれを競売にかけ、東建託の関連企業が落札することも多い。東建託グループは既にこの手で割安のアパートを多数資産として保有していた。
東建託グループ全体で見ればアパート建設の請負もあるのだから、上手くいこうがいくまいが儲かる仕組みになっている。合法的な詐欺に近いスキームだと思った。
103号室に住んでいるのは真面目そうな30代の夫婦と可愛い子供だ。
亭主は近くの工場で働くの事務員らしく、どうも総務担当者といった雰囲気だ。作業員には見えないスーツ姿で出勤している。
何か諦め切ったような閉塞感がある一家で、同世代の子供を持つ親たちの明るさがない。
203号室が空き家であることはわかっている。201号室が老婆の部屋だ。
しかし、時折物音が聞こえる202号室、俺の部屋のすぐ上の部屋だけは、誰が住んでいるのか知らなかった。森田はこの機会にと老婆に聞いてみた。
「あんた音が聞こえるの?みんな聞こえないのかと思っていたけど・・・」
老婆の目が遠いものを見るような目になる。こうなっては真面な返事が期待できないことを森田はこの数年間で学んでいた。
「じゃあ、行ってきます」
森田は努めて快活に挨拶して浦野ハイツを後にした。
梅雨時の雨上がりは清々しとはいい難い。この辺りは沼でも埋め立てたのか、なぜか雨上がりになると生臭い腐臭が立ちこめる。
鯉か鮒の腐乱死体のような臭いとでも言い表せばいいのか。兎に角、不快極まりない。
歩道のない線路わきの道をしばらく歩くと、やがて駅前の商店街に向けて道が徐々に離れていく。
道幅も多少広がり、左右に店屋が少しずつ現れはじめる。駅前の銀行ATMで金を下ろした。
その先にあるアーケードをくぐった商店街の中心部に俺が世話になっている不動産屋がある。
カウンターでは威勢のよさそうなばあさんが帳面を調べている。商店街の小さな出店のような不動産屋の女社長、葛西洋子だ。
俺は毎月賃貸料の支払いは確実にしている。仕事をしている間はネット銀行からの振り込みを利用していたが、失業してからは時々顔を出すようにした。
人となりを知っておいてもらった方が、近所で悪い噂が立ったりしたときに弁護してもらえるだろうとの思惑もあった。
「失礼します。近くに寄りましたので、賃貸料の前払いがてらにご挨拶をさせていただこうかと思いまして、浦野ハイツ202号室の森田です」
葛西さんはにっかりと笑顔を返して気風よく返事をする。
「おやおや、ご丁寧に。丁度、茶でも入れよう・・、あっ、コーヒーでいいかい?あたしゃ、結構これが好きでねぇ」
「いや、どうぞお構いなく。お時間があるようなら、世間話でもしようかと立ち寄らせていただいただけですから」
「ああ、ゆっくり世間話でもしよう。仕事の方はどうなってるんだい?無理して先払いとかしてるんじゃないかい?」
「いやあ、お話しした通りの状況でねえ。仕事は見つかってないが、当面の心配はないってところではあるんですよ。
ただ、英国が欧州連合離脱するって国民投票の結果が出たから、念の為に金融業以外の仕事も考えておこうと思い始めたところなんですよ」
「ありゃ、やっぱり相当拙いことなんかね?」
葛西さんの目が一瞬光る。気さくな婆さんの振りしていても、こういうところは経営者だなあと思わされた。
俺は欧州連合の歴史から今回の英国離脱が意味すること、即ち景気の悪化の懸念があることについて簡単に話した。
「良く知ってるねぇ。なんだかテレビで騒いでいたけど、そんな風に世の中つながってるとはねぇ。・・・ここいらも景気悪くなるのかねぇ?」
「そう簡単に影響があるかどうかはわかりません。今、仕事がある人が直ちにリストラされるとかじゃないと思います。
ただ、こういうことが起こると大手金融機関だと状況見極めのために採用凍結とかあるんです。だから私なんかは正直嫌な展開なんですよね。
理系の専門職とか若い間はいいんですけど、中高年になると営業職の方が給料安くても仕事があるだけいいってこともあります」
葛西婆さんはちょっと思案顔になり、突然不思議なことを言い出した。
「理系ねぇ、数学とか得意なんだろ?幽霊とかは怖い方かい?」
「幽霊ですか?そりゃ、普通に怖いと思いますが・・・。所謂、怪談とかは好きですけどねぇ」
「そんなら面白いかもしれない。ちょっと、アルバイトなんかしてみる気はないかね」
葛西さんは分厚い名刺フォルダーから一枚の名刺を取り出した。
近衛不動産超常現象検証機関 所長 近衛洋介
「あたしらの業界では幽霊屋敷とか幽霊の出る部屋とかの風説がたつと困るんでね。
幽霊なんかいないってことを証明してもらって、変なこという人には出てってもらったりするんだけどさ。そこの所長がなんだ。
数学の扱える人を探してるとか言っててさぁ、ちょっと話だけでも聞いてみないかい?あった、あった、これが仕事の内容らしいんだけどね」
乱雑に見える棚から存外早く葛西さんは目的のものを見つけた。少なくとも葛西さんから見れば整理されているのかもしれない。
俺にA4の紙に書かれた求人票が渡された。必要スキルと書かれた欄に確かに統計関係の知識が求められている。
≪必要スキル≫
・大量データの分析経験のある方。多変量解析、数理統計、主成分分析、因子分析、回帰分析と聞いて意味の分かる方。
・未知の問題に積極的に関わり探求していこうという意思のある方
・理工系大学卒業者、尚可
う~ん、幽霊に多変量解析?統計処理しなきゃならないほど出たの?それとも何かフィールド・ワークの結果纏めるとか?って言うか主成分分析も因子分析も回帰分析も多変量解析の手法だから「多変量解析できる方」でもいいんじゃなかろうか。
なんかキーワード並べただけのように見えるが・・・。まぁ、話だけでも聞いてみるか。
「面白そうな話ですね。具体的に何をすることが求められているのか会ってお話を伺うってできるんですか?」
社交辞令のつもりだったが葛西さんはもろに喰い付いてきた。
「もちろんよ、直ぐに電話するから」
ろくに返事を聞かないうちに電話する。服装はなんでも構わないから夕方に面談できるかといきなり聞かれ、こちらは大丈夫と答えると即決で話が決まった。
葛西さんは電話口を押さえながら俺に聞く。
「口頭でも構わないので略歴を教えてくれないかって言ってんだけどね。何か書いてもらえる?」
「近衛さんの名刺にあるアドレスで構わなければ、スマホからメールでお送りします」
「もしもし、ええメールでお送りしていいですか。じゃ、送ってもらいます。じゃあ、よろしく」
俺はスマホを確認してみた。一昨日、新しい転職エージェントにレジュメを送付したばかりで、確か自分のWebMailをCCしておいたはずだ。
サイトにアクセスしてうろ覚えのパスワードを打ち込む。目的のメールを見つけると、レジュメを送付すべきか一瞬迷ったが、思い切ってそのまま送付した。
金融機関への再就職を控えているなら、レジュメの送付先は限定するのが定石だ。しかし、リストラされてから既に1年以上が経過している。
英国の欧州連合離脱による採用凍結を考えれば、金融機関に再就職できるとは期待しない方が良いだろう。
もう、レジュメが誰の手に渡るかなどを心配する必要はない。40過ぎて根無し草になった男の経歴など、誰も興味を持たないだろう。
近衛不動産超常現象検証機関は不動産屋から3ブロック程離れたマンションの中にあるそうで、ここからは10分もかからない。
まだ時間がありそうだが周辺を下調べておこう。賃貸料を支払い、仕事の情報をもらった礼を言うと俺は不動産屋を後にした。