噂話
この会社には奇妙な噂話がある。
誰が言いだしたのかはわからないが、この会社の人間ならおそらく知らない者はいないだろう。
それくらい古くから、そして広く語り継がれている、いわばこの会社にまつわる言い伝えである。
会社の同僚と飲むと、なぜかこの話で盛り上がることが多い。
地下室の怨念。
―この会社が建てられる前、この土地には病院があった。しかも、戦時中は捕虜を収容し、地下室では人体実験が行われていた。
そしてその場所が、この会社の建物の南側に位置する経理課の真下らしい―
経理課。
カズが毎日退屈な時間を過ごしている、まさにこの場所である。
たいがいこの手の噂話は、どんどん尾ひれがついてありえない方向に向かっていくものだ。たとえば、偶然この部屋で何か不可解なことがあったとする。すると必ず「地下室の怨念」と関連づけられ、新たな伝説として生まれ変わる。
この会社に就職して間もないころ、先輩からこんな話をきいたことがある。
―ある日残業をしていると、ある人が急に苦しみだし、その場に倒れた。周りの同僚が慌てて声をかけて近づくと、その倒れた人の席の後ろの壁に、人の顔のようなシミがはっきりと浮かび上がっていた―
倒れた人はその後どうなったのか、その顔のようなシミが現れたのは具体的にはどの場所で、今はどうなっているのか。そういった情報は皆無である。
ほかにも、倉庫で人影を見た、誰もいないトイレから物音がする、一人で残業していたらどこからかうめき声が聞こえたなど、数え上げればきりがない。
古くからある建物ならどこにでもあるような、いわゆる「学校の怪談」と同じような噂話だが、これらも「地下室の怨念」から生まれたものなのだろうか。
初めて聞いたときは少なからず怖いと思ったが、カズ自身、この会社でそういった経験をしたことはないし、同僚から聞く話も「誰かから聞いた」程度のものだ。
だからこそ、酒が入ると誰からともなく新しいネタの披露が始まり、無責任に盛り上がることができるのだろう。
もちろん、カズもこの手の話は嫌いではない。
そういえば、この会社にも地下室があると聞いたことがある。たしか空調の機械があるだけで、業者が機械のメンテナンスに入るとき以外は人の出入りはほとんどない。カズも当然入ったことはないし、そのはっきりとした場所さえ知らない。
もしかして、この部屋の真下?
まさか。