【痴漢編】妄想
俺の名前は下村英雄、四十五才、職業はサラリーマン。
中肉中背で、趣味は……無し、あっ! あえて言うなら発毛剤集め。
妻と娘に相手にされない今、毛髪が恋人だ!
「俺とずっと一緒にいてくれ」「行かないでくれ」
と話し掛けている、ていうのはさすがに嘘だが。
そんな俺が、あんな目に遭うとは。
昨日はあの後本当に大変だった。パトカーは来るわ、妻は騒ぐわ、娘は泣くわでおかげでこっちは寝不足だ。だが、俺が変態だった事はばれなかった。唯一の救いだ。
(チャラチャ〜チャチャ、チャンチャラチャン♪)
「まもなく電車が入ります。危険ですので、黄色い線より後ろにお下がり下さい」
来たか。
「はぁー」
俺は家の花瓶より深いため息をついた。
これから来る電車の中に、巻き鮨のように押し固められてしまう。そのご飯粒には、なりたくない。
でもならなければ、会社に行けない。
会社に行かなければ、ご飯が食べられない。
いつもの事ながら、小さな覚悟を決めて、電車に乗った。
中もまた、いつもながらぎっしり詰まっていた。
そういえば、飴玉ンはどこ行ったんじゃろ?
ふと思った。
今朝から見てねえな。まあ、疫病神みてえな奴じゃけん、おらんほうがええけど、一体なんだったんじゃろ?
思い出していると段々腹が立ってきた。
悪と戦え?ふざけんな!俺は毎日会社という、男の戦場で戦っとんのに。
身動きのとれない電車内では、いつも自然と苛立ってくる。
こんなストレス社会じゃ、そりゃあ抜け毛も増えるわ!…そう、抜け毛とも戦っとるじゃんか。
俺の妄想世界では、か弱い王妃(頭皮)を敵のヒロシ(皮脂)から守る、俺こと英雄がいた。
妄想劇場、始まり始まり〜♪
英雄「王妃!大丈夫ですか?英雄です。」
王妃はボロボロになっていた。俺は抱えあげるように王妃の体を起こした。
一応言っておくが、俺の頭は、大丈夫だ。
英雄「今、回復魔法を掛けますから、癒したまえ!サクセス」
(フシュー)
王妃は泡に包まれた。
王妃「あ、有難う、英雄」
英雄「まだ終わってません。この伝説の武器≪育毛ブラシ≫でとどめを刺して御覧に入れましょう。おおりゃあああ!」
俺はヒロシに向かって行った。
(ゴシッ、ゴシッ、ゴシッ)
ヒロシ「ぐぎょあぁーー」
ヒロシはあまりの衝撃で外界に放り出されそうになりながらも、神(髪)にしがみついた。
ヒロシ「そんなに僕を天界から追い出したいか、なら神様も道連れにしてやる」
英雄「やめろ!神様が居なくなると、ここは不毛の地になっちまう。おめえは悪に染まり過ぎたんじゃ」
ヒロシ「元はと言えばお前のせいだ。お前が放った奥義≪白神染眼≫の、巻き添え(染め)をくらってから僕はおかしくなった。」
英雄「あれは仕方ねかったんじゃ、神様の為にした事じゃけん」
ヒロシ「嘘つけぇ!僕が知らないとでも、何が神様のためだ、皆の前で良いカッコがしたかっただけだろうが!」
その瞬間、沈黙が天界を支配した。
俺は言葉が出なかった。すぐ後にその事を後悔した。
王妃「そうなのですか?」
神「お主、ワシらを騙しおったな」
英雄「ち、違いますよ。」
もう遅い、誰も信じてはくれない。
形勢が見事にひっくり返ってしまった。
ヒロシ「どうやらお前が下界に降りたほうがいいようだな。まぁせいぜい頑張って、はい上がってきな!」
英雄「ハゲ上がってこいだとぉ!人が気にしとる事を、ちきしょおおおおおお!!」
俺は自分から奈落の底に落ちていった。
もう一度言っておくが、俺の頭は大丈夫だ、まだ。
以上、妄想劇場終了。
「おいお主、人の話聞かんか!」
「すみません!神様」
「神様?何を言っておるのじゃ、ワシじゃワシ」
妄想に溺れた俺を助け出してれたのは飴玉ンだった、ずっとスーツの胸ポケットにいたらしい。ベタベタしていないだろうか?
「何、この人〜、さっきから独り言言ってる。キモッ」
「危なくない?離れよって…動けないじゃん!もう最悪〜」
左隣にいる二人組みの女子高生に陰口を言われている。
陰口じゃなく光、いや、陽口?ちゃうわ、ただの悪口か。
ともかく、現実でも俺に対する周囲の、嫌悪感丸出しな視線は変わってなかった。
聞こえない振りをしながら右手を上げ、スーツの袖を捲った。腕時計を見ると、八時二十三分をまわっていた。
電車に乗ってもう一時間近く経ったんか、後三十分程で着くな。
それにしても、ヒーローは無理と思い知らされた一時間だった。
まあ別にええけどな、もともとなりたくねえし。
いや、ホンマ全然、悲しいとか一切なし。
え、だって今時ヒーローとかさみいし、むしろ悪役のほうが、ちょい悪親父みちょうな感じで。
「お主、何か気持ち悪いぞ」
俺の頭は大丈夫!じゃないかもしれない。