【序章】誕生
美華と千恵子がもう帰ってきた。
早っ!!
俺は玄関に行き、鍵を開けた。外はもう真っ暗だった。
「ありがと」と言った美華の顔は無表情だった。
「何でこんなに、はええん?」
「何でも」
あいかわらず美華は無表情のままだ。
この一貫した態度は、怠惰な感情から来るものではなく、話し掛けてくるなという意思を明確に示しているのだと思う。
俺の横を美華は無表情のまま通り過ぎて行く。その先には、問題の飴のいるダイニングがある。
俺は美華の反応を見に、後をついていった。
さて、どんな顔をするんかな。
ダイニングに入ると、美華はさっそく問題の飴を発見したようだ。
「うわ、最悪! 何しい飴、裸のまま机の上置いとんよ!」
と言ってやっと表情を変えた、呆れ顔だった。でもそれだけだった。
拍子抜けな反応も仕方がない。何しろ飴はピクリとも動いていないのだから。
飛べっ!美華の額めがけて行くんだ。飛ばない飴は、ただの飴だ。
だが俺の願いも虚しく、ただの飴のまま、変わってはくれない。
「なんしょん? 早く片付けねーや」
〈ガチャ〉
やっと駐車を終えた千恵子が玄関の扉を開けた。それを合図に、俺は慌てて飴を持って二階に退散した。
下からの賑やかな笑い声が二階の寝室まで聞こえてくる。俺の心は一メートル先も見えない霧が覆っていた。
「おいぃぃ、飴玉〜〜ン」
のび太口調で言ってみた。
「誰が飴玉ンじゃ!」
「ゴーギャン!!」
俺のうめき声が響く。
紅の飴は、再び額にクリーンヒットしていた。
ああ、俺の意識が遠退いていく。
目の前に広がる、一面のお花畑。この花はヒマワリ。よし! ヒマワリの絵を書こう。あれっ? これってゴーギャンじゃねえな。
現実に戻ってきた俺は、飴玉ンとようやくまともな会話をした。
「飴玉ンは、何者?あっ、間違えた何物?」
「お主、飴玉ンで定着させる気か」
「話が進まんけん、揚げ足を取らずに、早く質問に答えて」
「生意気言いおってからに、まあよいわ。ワシは悪を倒してくれる人を探しておるのじゃ。言うなれば、正義の使者じゃ」
「ふーん」
「お主、驚かぬのか」
飴玉ンは不満そうな顔をした。
「まあ、動く飴がおるって事自体おかしいけん、それにもうリアクションすんのしんどいし」
「やる気出さぬか!」
「次からちゃんとします」
心にも思ってないが、それを聞いた飴玉ンは大きくゆっくりと頷いた。
「でも、なんで俺のレジ袋に?」
「え? それはえーと、あっ!あれだ。お主が悪を倒すのに適任だと思ったからじゃよ」
明らかに嘘だと分かった。
「どうせ、スーパーにいた少年にでも捕まって必死で逃げ込んだ先が、たまたま俺のレジ袋だったとか、そんなオチなんじゃろ?」
「な、何を言うんじゃ。そんなばゃけ無かろうが」
変な所で噛んだ。どうやら当たったらしい。
「なんじゃ、その顔は、疑っておるのか?」
「まっさか〜!正義の使者が嘘つく訳ないじゃろ」
ピクッ
「そんな間抜けな正義の使者、あり得んっしょ〜」
ピクッ
「いや、無い!無い!『飴玉ン』に限って」
プッチーン!
「もう許せん!ここまで侮辱されては許すわけにいかぬ」
ヤバイ!飴玉ンの顔は見えないが、殺気を肌で感じた。俺はとっさに額に手を当てた。
「こうなったら、意地でもお主を正義の使者にしてくれるわ」
次の瞬間、俺の掌から、飴玉ンが消えた。
「何度も同じ手を喰ブガァ!」
喉元に激痛が走った。額ではなく、口の中に来た。
「見たか!ぬわはははは」
「ギゲェグカァ!」(見えるかぁ!)
俺の口から二種類の声がする。飴玉ンは私の喉チンコにもたれて出てこない。仕方なく口に手を突っ込むと、飴玉ンは喉チンコ暖簾をくぐり出した。
「どうじゃ、まいったか。今度は喉に詰まってやろうかの」
飴玉ンは脅してくる。その姿に正義の使者の面影は無く、まるで悪代官のよう。
今度からアクダマンと呼んじゃろうか。でも今は止めとこう、ていうか無理!えずいて返事すらままならんんっ。
「グォホォ、ゴォホォ、ゴッホ、ゴッホ」
ゴッホ?
ヒマワリの絵を描いた人、この人じゃ!ああぁ、スッキリーー。
脳がハッカ飴を食べた様な感覚を覚えた、と思ったら、口にいるのが実はハッカ飴玉ンだからだった。その味に、俺は妙に納得した。
「お主、自分の姿を見てみい」
飴玉ンはさっきまでとは打って変わって、嬉しそうな声だ。
「グォ? ガアアアアアアアァ!」(んん? うわああああああぁ!)
化粧台の鏡を覗くと、全身白タイツをまとい、プロレスラーが被る、真っ青なマスクをしている人が映っていた。
ちなみに、この部屋に人は、俺しかいない。覆面白タイツ男は、紛れもなく俺だった。
こんなん、ただのへ
「変態!!」
そう、変態。ってあれ?さっきの声、美華のじゃ。
扉の前では、美華が茫然と立ち尽くしていた。焦った俺は、美華に駆け寄る。
「ギョッゴォガハァ、ゴコオォランガ」(ちょっと待て、お父さんだ)
「きゃああああああぁ!」
美華は失神した。誤解をとくつもりが、逆効果だったらしい。美華にはトラウマを植え付けてしまったに違いない。
美華の悲鳴を聞いた千恵子が、階段を駆け上がってくる。すると、飴玉ンはようやく俺の口から出てきた。
「逃げるのじゃ」
「覚えとれ! クソ飴玉ン」
俺は、飴玉ンと着替えを手に二階のベランダから屋根を伝い、闇に紛れて退散した。と見せかけて実は家の裏で着替え、コンビ二へと時間を潰しに行った。
「もしもし、警察ですか?家に変態が出たんです。早く来てください。娘が襲われたんです」
この日、新たな正義の使者(?)が誕生した。