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ループ十三回目の公爵令嬢の私、十二回も婚約破棄されたので結婚を諦めて隠居しましたら、見たこともない方に「ようやくお会いできた」と求婚されまして、困っております。

作者: 戸坂咲
掲載日:2026/05/03

王立学園の卒業パーティーは、いつもと同じ煌びやかさで始まった。


大広間の天井からは、数百のろうそくが灯る巨大なシャンデリアが下がり、その光が大理石の床に金色の波を作っていた。楽団の弦の音色が、夜会の優美な調べを奏でている。


私、リーゼロッテ・フォン・アルテンブルクは、フロアの中央に立っていた。


藍色のドレス。母の遺した銀の指輪を首飾りに。髪は控えめに結い上げ、頬には薄く紅を差している。


——いつものことだ。


過去十二回も、私は同じ夜に同じ場所で、同じ服装で立っていた。


そして十三回目の今夜も、私の正面の大階段の上には、同じ方が立っていらっしゃった。


王太子レオナルト殿下。


二十二歳。金髪の整った貴公子。隣には新たな婚約者候補となる女性が、毎回違う名で立つ。


今夜のお相手は、伯爵令嬢カミラ・トレフォルド。派手な金髪を結い上げ、深紅のドレスを身に纏い、勝ち誇った笑みを浮かべていた。


過去十二回も隣の令嬢の名前と顔は違ったけれど、構図はまるで同じだった。


殿下のお声がホールに響いた。


「リーゼロッテ・フォン・アルテンブルク公爵令嬢」


「貴方との婚約は本日をもって、破棄させていただく」


ホール中の貴族たちが一斉に息を呑んだ。


楽団の音はいつの間にか止まっていた。


私はその静寂の中で、ゆっくりと頭を上げた。


(——ああ、また、これね)


ため息はもう出ない。


驚きも悲しみも憤りも、十二回分すべて使い果たした。


代わりに心の奥に薄く広がるのは、深い慣れ切った疲労だった。


「真実の愛は、こちらにあると判明した」


殿下が定型のセリフを仰せになる。


カミラ嬢の腰をするりと抱き寄せられる所作も、定型。


過去十二回、私は同じ場面で別の令嬢の腰を抱き寄せる別の王太子の姿を見てきた。


私は深く頭を下げた。


「お受けいたします、殿下」


私の即答に、殿下がほんのわずかにたじろがれたのが見えた。


(——私の反応が毎回違うと、思っていらっしゃるのかしら)


過去十二回も、私は即答してきた。


最初の数回は声が震えた。


その後の数回は抗議の言葉を呑み込んだ。


九回目あたりからはもう、ただの作業のように頭を下げていた。


そして十三回目の今夜は——もう頭を下げることすら、形式の一部だった。


私はカミラ嬢に目を向けた。


派手な金髪、深紅のドレス、勝ち誇った笑み。


その誇らしさが半年も持たないことを、私は知っている。


過去十二回も隣の令嬢たちは、半年か一年で殿下に飽きられた。あるいは殿下の派閥争いに巻き込まれて、家門ともども没落した。


私は軽く微笑んだ。


「カミラ嬢に、よろしくお伝えくださいませ」


カミラ嬢の笑みがわずかに揺らいだ。


私の言葉の含みに気付いたのかもしれない。気付いていないのかもしれない。


どちらでも構わなかった。


私はゆっくりと踵を返した。


ヒールが大理石の床をかつかつと鳴らす。


ホール中の貴族たちの視線を背中に感じた。


その視線も過去十二回分、私は浴びてきた。同情、軽蔑、好奇、憐憫——様々な感情が混じった視線。


慣れ切ったその重みを、私はただ受け流してホールの大扉へと向かった。


大扉が開かれる。


廊下に出ると、自分の足音だけが響いた。


ヒールの音だけが長く長く続いた。


(——次の人生は、要らない)


(——今度は最後まで生きてみよう)


それが十三回目の人生で私が最初に決めた、ただ一つのことだった。


◇◇◇


公爵邸に戻ると、私はまっすぐに自室に向かった。


侍女たちが何か声をかけたかったのだろう。だが私の表情を見て、皆、口を閉じた。


過去十二回も、私は同じ顔で自室に戻ってきた。


自室の扉を閉め、私は窓辺の椅子に腰掛けた。


ろうそくを一本、机に灯す。


夜の静けさが部屋をゆっくり満たしていく。


私は首飾りから、母の遺した銀の指輪を外した。


繊細な細工の小さな指輪。母が亡くなる時に、私の指に嵌めてくださったものだ。私の指にはもう小さくなった。だから首飾りにして、ブラウスの下に隠している。


その指輪を手のひらに乗せた。


冷たい銀の感触。


(——お母様)


(——私はもう、繰り返したくないのです)


過去十二回の人生がいつものように浮かんできた。


◇◇◇


一回目の人生。


私は普通に王太子レオナルト殿下と結婚した。


不思議なことにその人生では、婚約破棄は起きなかった。何もかもが順調だった。学園の卒業、結婚、戴冠、王太子妃としての務め。


即位して三年目のある朝のことだった。


朝食の前に、いつものお茶を口に運んだ。


苦みを感じた。


普段のお茶よりも、わずかに苦かった。


(——あら)


そう思った瞬間、視界が暗くなった。


「妃殿下!」


侍女の悲鳴を最後に聞いた。


それが宮廷の派閥争いの一環であったことを、後で——次の人生で——知った。


二十二歳の春だった。


◇◇◇


二回目の人生は、もう王太子妃にはならなかった。


王太子レオナルト殿下のお誘いを、お父様の説得で辞退した。商家の若旦那との縁談を自分から選んだ。


王都の商業区で新しい生活が始まった。夫は穏やかな方で、私を大切にしてくださった。


新婚から半年目、王都で疫病が流行った。


夫もろとも、私は床に伏した。


熱で意識が朦朧とする中、夫の手を握っていた記憶がある。


二十一歳の冬だった。


◇◇◇


三回目の人生は家を出た。


街道沿いの小さな町で、独立して薬師になった。過去の人生で宮廷で得た薬師の知識を、田舎で活かした。


自由だった、束の間。


ある雨の朝、薬の調合のために馬で野草を採りに出かけた。


雨に濡れた急斜面で、馬の脚が滑った。


落ちながら、私は思った。


(——あら、これも二十歳前後ね)


それが最後の意識だった。


二十歳の夏。


◇◇◇


四回目は信仰に逃げた。修道院に入り、シスターたちと静かに暮らした。火事で煙の中、二十一歳。


五回目は武の道に進んだ。剣は握れなかったが騎士団の事務官になった。戦争に巻き込まれ、流れ矢が二十歳の秋。


六回目は国を捨てた。亡命する船が嵐で難破した。二十歳の春。


◇◇◇


七回目の人生では、他国の貴族夫人として暮らした。


夫は穏やかな伯爵だった。私を大切にしてくださった。


ある夜会で果実酒を口にした。


夫の従兄弟が相続争いで、私を狙ったらしい。


倒れた瞬間、夫の顔が視界の中で歪んでいくのが見えた。


二十一歳の夏だった。


◇◇◇


八回目は踊り子。舞台の幕が頭上に落ちた、二十歳の冬。


九回目は王立図書館の学者。論文を書き続け、徹夜が続き心臓が止まった。二十二歳の春。


十回目は孤児院の保母。誘拐された先で衰弱した。二十一歳。


◇◇◇


十一回目の人生は、辺境の村娘として農夫の妻になった。


夫は朴訥で優しい人だった。日々の労働は厳しかったけれど、温かい家庭だった。


そして、お腹に子を宿しかけていた。


ある夜、村が放火された。


何者かの政治闘争の余波だった——後で次の人生で知ったことだ。


火の手が窓越しに迫ってきた。


夫が私を抱き上げて、外へ逃げようとした。


だが玄関を出る直前で、屋根が崩れた。


意識が薄れていく中で、私はお腹の子を両手で守った。


(——ごめんなさい)


(——お母さんになれなくて)


それが最後の言葉だった。


二十歳の冬。


◇◇◇


十二回目は身分を偽り、王宮の下働きになった。


公爵令嬢を捨て、厨房の隅で皿洗いをし、廊下を雑巾で拭いて暮らした。


高位の方々のお姿を、遠くから幾度も見かけた。王太子殿下も、宰相も、貴族たちも。


——その中に、深い緑の瞳の若い宰相補佐官のお姿も、あったのだろうか。


ある朝、派閥争いの巻き添えで、階段から突き落とされた。


二十一歳の春だった。


◇◇◇


そして十三回目。


学園の卒業パーティーで、王太子レオナルト殿下に婚約破棄された。


それが現在だった。


◇◇◇


私はろうそくの火を見つめ続けた。


何をしても二十歳前後で必ず死ぬ。


何をしても王太子レオナルト殿下に必ず婚約破棄される。


王太子妃に成り上がっても、商家に嫁いでも、薬師になっても、修道女になっても、事務官になっても、亡命しても、他国に逃げても、踊り子になっても、学者になっても、保母になっても、村娘になっても、王宮の下働きに身を隠しても。


何をしても同じ。


机の上でろうそくの炎が揺れた。


(——もう何もしないで、最後まで生きてみよう)


それが十三回目の人生での、私の結論だった。


母の指輪を強く握りしめた。


冷たかった指輪が、徐々に私の手の中で温まっていく。


(——お母様)


(——お祖母様)


(——私をお許しください)


(——人生を放棄させていただきます)


ろうそくの炎が、夜の闇の中で静かに揺れていた。


◇◇◇


翌朝、私は静かに荷物をまとめた。


派手なドレスは置いていく。宝石類もアルテンブルク家のものは、置いていく。


旅行鞄に入れたのは、最低限のものだけだった。


動きやすい服装、母の遺した手記、貯めていた小銭の袋。


侍女たちは何も訊かなかった。私の表情を見ていたからだろう。過去十二回の人生でもこうして家を出たことがある——いや、十二回のうち家を出たのは何回だったかしら。


私は深く考えなかった。


支度は十五分で済んだ。


玄関ホールに降りると、父・ヴィルヘルム・フォン・アルテンブルク公爵が立っていらした。


旅装の私を見て、父の表情がいつもよりわずかに暗くなった。


「リーゼロッテ」


「お父様」


「行くのか」


「はい。北のライナス男爵領、お祖母様の遺された家へ」


父はしばらく沈黙された。


私は父の沈黙を待った。


過去十二回の人生で、父は私に「お前のせいだ」と仰せになったり無関心だったり、すでに亡くなっておられたりした。


今世の父は生きていらして、しかも私に何かを伝えようとなさっている。


それが過去十二回との、唯一の違いだった。


「結婚は」


「いたしません」


「考え直す気は」


「ございません」


「学園を出たばかりだ。これからの人生は長い」


「私にはもう、長い人生は必要ございませんわ、お父様」


父はもう一度深く沈黙された。


朝の光が玄関ホールの大理石の床に、長く差し込んでいた。


「お前の判断はいつも、私を超える」


父は低い声で仰せになった。


「私にはお前を止める権利が、ない気がする」


「お父様、ありがとうございます」


「私がお前のためにできることは、これだけだ」


父は革袋を一つ差し出された。


それからもう一通、封書を。


「路銀と、ライナス男爵への紹介状だ」


「ありがとうございます」


革袋にはそれなりの重さがあった。父がご自身でできる、精一杯の備えだろう。


私は革袋を旅行鞄に入れ、封書を懐にしまった。


「お父様」


「ええ」


「お元気で」


私は深く頭を下げた。


父はしばらく私の頭を見つめておられた。


それからぽつりと、仰せになった。


「すまない」


——え。


私はわずかに顔を上げた。


父の顔はこれまで見たことがないほど、苦しそうだった。


(——お父様が)


(——「すまない」と)


過去十二回の人生で、父は私に「お前のせいだ」と仰せだったり無関心だったり、すでに亡くなっておられたりした。


「すまない」と父が私に告げられたのは、これが初めてだった。


何が「すまない」のか、私には分からなかった。私の婚約破棄を防げなかったこと? 王太子家との縁を結ばせてしまったこと? それとも、もっと別の何か?


私は何も訊かなかった。


訊いても、父は答えてくださらないだろう。


代わりに、私はもう一度深く頭を下げた。


「お父様も、お元気で」


それから玄関の扉を、自分で開けた。


雇いの馬車が屋敷の前で待っていた。


私は馬車に乗り込み、御者に告げた。


「北の街道へ。ライナス男爵領まで、お願いいたします」


「畏まりました」


馬車がゆっくりと動き出した。


公爵邸の門が、後ろに遠ざかっていく。


私は振り返らなかった。


膝の上で、母の指輪を握りしめた。


(——お父様の「すまない」が、なぜか心に残ります)


(——それが何の意味なのかは、分からないままに)


(——でも、過去十二回にはなかったことです)


馬車の窓の外を、王都の石畳がゆっくりと流れていった。


朝の日差しが、街路樹の葉の隙間から私の膝に落ちていた。


その光は、わずかに温かかった。


◇◇◇


馬車に揺られて五日。


北の街道は春の風と新緑に包まれていた。芽吹いたばかりの若葉が街道の両脇を彩り、時折、小川のせせらぎが車輪の音に混じって聞こえた。


御者は寡黙な老人で、必要以上に話さなかった。


それが心地よかった。


王都の社交の喧騒が、ゆっくりと遠ざかっていく。


夜は街道沿いの宿に泊まり、朝は早く出立した。窓の外の景色が、日に日に山がちになっていく。


(——もう、誰にも会わない)


(——静かに最後まで生きるだけ)


それが私の決めた、ただ一つのことだった。


◇◇◇


五日目の昼過ぎ、馬車はライナス男爵領に到着した。


男爵様は父の紹介状を見て、丁寧に迎えてくださった。白髪混じりの穏やかな方で、亡き祖母をご記憶でいらした。


「アルテンブルク公爵令嬢、わざわざこんな田舎までいらっしゃるとは」


「お祖母様の遺された家で、静かに暮らしたく」


「ええ、ええ。お祖母様は五年前にお亡くなりになりました。家はそのまま遺してございます」


男爵様は領内の小さな村まで、ご自身の馬車で送ってくださった。


◇◇◇


村は山あいに抱かれた小さな集落だった。


戸数三十ほど。中央に古い教会と村役場。井戸を囲んで石畳の広場があり、女たちが洗濯物を干していた。子供たちが石蹴りをして遊んでいる。


男爵様は村長に私を引き合わせてくださった。村長は六十ほどの男性で、私の顔を見て驚かれた。


「これはこれは。お孫さんが、こんなにお大きくなって」


「祖母を、ご存知でいらしたのですね」


「はい。お祖母様には、村の子供たちも、よく薬を分けていただきました」


私は深く頭を下げた。


◇◇◇


祖母の家は、村の外れにあった。


石造りの小さな家。正面には薬草園、裏には小さな畑。門柱には蔓薔薇が絡みついていて、白い花がいくつか咲いていた。


扉を開けると、なつかしい匂いがした。


干したハーブと、古い書物の香り。


私が幼い頃、母と一緒に泊まりに来た記憶が、ふと蘇った。


——お母様がご存命だった頃。


私が、まだ何も知らなかった頃。


家の中には、祖母の遺した家具がそのまま残っていた。木の机、椅子、暖炉、書斎の本棚。すべてに薄く埃が積もっていたけれど、家自体はしっかりしていた。


私はその日から、家を整え始めた。


蜘蛛の巣を払い、窓を開け、書物の埃を落とす。井戸の水を汲み、暖炉に火を入れ、寝具を干す。


二日かけて、住める状態になった。


◇◇◇


書斎を整える時、祖母の手記が机に並んだ。


薬草の効能、調合の手順、季節ごとの薬草園の手入れ方。それから、神話の研究書。古い書物。


亡き祖母は薬草師であり、神話の研究者でもあった。


私は祖母の手記を一冊、開いてみた。


過去三回目の人生で薬師として学んだ知識と、ほとんど同じことが書かれていた。


(——お祖母様も、薬師でいらしたのね)


私はその手記を、書斎の机に大切に並べた。


しばらくは、これを読んで暮らそう。


◇◇◇


一週間が経った頃、私は初めて深く眠れた。


朝の光に目を覚ました時、薬草の香りが部屋に満ちていた。


(——ここで静かに最後まで生きよう)


それが、最初の決意だった。


◇◇◇


隠居して二週間が経った頃、私は薬草園で剪定をしていた。


朝のうちに摘んだハーブを庭の縁台に並べ、葉の状態を確かめる。カモミール、ミント、ローズマリー、セージ。どれも祖母が育てていたものを、私が手入れし直していた。


村人とは少しずつ顔見知りになっていた。パン屋のおかみさんが時々パンを届けてくださる。井戸端で会う女たちが「お嬢様」と声をかけてくださる。それくらいの関わりだけで、十分だった。


(——もう少しだけ、こうして暮らしていけば)


そう思いかけた、その時。


村の入り口の方から、慌ただしい馬の蹄の音が聞こえてきた。


それから、男の叫び声。


「お嬢様!」


声は私の名を呼んでいた。


剪定鋏を置き、私は立ち上がった。


◇◇◇


駆けてきたのは、村の若い男だった。息を切らせて、額に汗を浮かべている。


「お嬢様、お助けくださいませ!」


「どうなさいました」


「林で、村の子が、蛇に咬まれて倒れております!」


私の中で何かが動いた。


(——蛇の咬傷)


(——三回目の人生で、薬師をやっていた)


(——慣れている)


私は薬草園からセンブリとドクダミを摘み、家に駆け戻った。書斎の棚から祖母の遺した薬剤の小瓶を選び出す。シダの根の煎じたもの。それから清潔な布。


旅行鞄ほどの小さな籠にすべてを入れ、私は男の後を追って林へ向かった。


◇◇◇


林の中の小さな広場に、男の子が横たわっていた。


八歳ほど。青ざめた顔。胸が浅く、速く上下している。


母親が傍らで泣きじゃくっていた。


「お嬢様、息子が、息子が——」


「落ち着いてくださいませ。命に別状はございません」


私はしゃがみ、男の子の腕を確かめた。


右の前腕に、二つの小さな歯型。腫れている。皮膚が赤紫色に変色しかけていた。


「咬まれてから、どのくらいですか」


「半刻ほど前です」


「では、間に合います」


私は薬剤の小瓶の蓋を開け、男の子の口にゆっくり含ませた。男の子は薄く目を開け、喉を動かして飲み込んだ。


それから籠から布を取り出し、摘んだセンブリとドクダミをすり潰した。緑の汁が指先を染めた。それを布に広げ、咬傷の上に当てる。


「動かさず、安静に」


母親が震える手で、男の子の額に触れた。


私は男の子の脈を確かめた。


最初は速く弱かった脈が、一分、二分と経つうちに、徐々に落ち着いていく。胸の上下も、自然な呼吸に戻っていく。


頬に、わずかに血の気が戻ってきた。


母親がその変化に気付き、声を上げた。


「ああ——息子が、息子が——」


「もう大丈夫でございます」


母親が私の手を握った。


土と汗で汚れた手だった。けれど温かい手だった。


「ありがとうございます、お嬢様、本当に、本当に」


「お役に立てて、何よりですわ」


◇◇◇


男の子を担架代わりの板に乗せ、男たちが家まで運ぶことになった。


私は林の出口まで一緒に歩いた。


途中、母親が何度も振り返って、私に頭を下げた。


「お嬢様のおかげです」


「いえ。すぐに気付いてくださった皆様のおかげですわ」


村に戻ると、噂を聞きつけた村人が広場に集まっていた。


「お嬢様、ご無事で」


「お祖母様の血をお引きでいらっしゃる」


「お祖母様のような薬師さまが、また村にお戻りくださった」


私は深く頭を下げた。


その日の夕方、男の子の母親がパンとチーズを届けてくれた。お礼の品だった。私は受け取り、感謝した。


◇◇◇


その夜、私は祖母の家の暖炉の前に座っていた。


火は静かに燃えていた。


私は手のひらを見つめた。


センブリの汁の緑色が、まだ薄く残っていた。


過去十二回の人生は、ただの繰り返しだと思っていた。


何をしても二十歳前後で死ぬ。何をしても婚約破棄される。


だから、人生は無意味だと思っていた。


——けれど。


今日、私は男の子を救った。


それは三回目の人生で薬師として走り回った日々があったからだ。あの落馬で死んだ私の知識が、今、この村の子供を助けた。


(——過去の人生は、無駄ではなかった)


胸の奥で何かが、温かく動いた。


それは諦観の中に久しぶりに射した、小さな光のような感覚だった。


(——ここで静かに最後まで生きよう)


(——でも、生きている間は、できることをしよう)


それが、その夜に新たに決めたことだった。


ろうそくの炎が、ゆっくりと揺れていた。


◇◇◇


隠居して三週間が経った、春の朝。


薬草園で私はハーブの剪定をしていた。


風が穏やかで、小鳥の声が遠くから聞こえる。王都にいた頃には聞こえなかった音だった。


ヒールの足音もない。シャンデリアの灯りもない。婚約者からの手紙もない。


ただ、風と土と薬草の香り。


それで十分だった。


そう思いかけた、その時。


馬の蹄の音が街道のほうから聞こえてきた。


近づいてくる。


私は剪定の手を止め、家のほうを振り返った。


家の前に、馬が一頭。


その横に、若い男性が立っていた。


◇◇◇


黒髪。深い緑の瞳。整った顔立ち。


洗練された旅装をしておられるが、街道の埃にまみれている。


私は目を細めた。


(——どなたかしら。見覚えのない方ね)


過去十二回の人生で、私は王都の社交を一通り経験している。ありとあらゆる貴族の顔を、一度は見ている。


だが目の前の男性は、知らない方だった。


私は剪定鋏を傍らに置き、手を払って立ち上がった。


「失礼ですが、どちら様でいらっしゃいますか」


男性は深く頭を下げられた。


「私は、エルクハルト・フォン・グラウフェルトと申します」


「リーゼロッテ・フォン・アルテンブルク様で、いらっしゃいますね」


「はい」


「お会いできて、嬉しく思います」


声は低く、誠実だった。その瞳がほんの少しだけ、潤んでいるのが見えた。


(——グラウフェルト)


武門の名門・グラウフェルト侯爵家。父の話によく出てくる家だった。


「お父様から、お名前は伺っております」


「光栄です」


「失礼ですが、なぜ私を訪ねてくださいましたか」


エルクハルト様はしばらく私を見つめておられた。それから、ゆっくりとお言葉になった。


「貴女を、ずっと探しておりました」


「ようやく、お会いできました」


私は思わず剪定鋏を握り直した。


(——前世にも、前々世にも、こんなお方はいらっしゃらなかった)


(——なのに、なぜ私のことをご存知なの)


「あの、お会いしたことが、ございましたかしら」


「いいえ」


「では、なぜ」


「事情は長くなる」


「すべてを今お話しすることはできません」


「ですが、私には、お話しする権利があると、信じております」


私はしばらく考えた。


(——困っております)


過去の十二回の人生で、こんな展開は一度もなかった。


普通なら警戒する場面だ。


だが不思議と警戒の気持ちは起きなかった。


ただ戸惑った。


そして同時に——なぜか、この方の言葉を信じたい、という気持ちが、わずかに胸をかすめた。


「お茶を、お出しいたしますわ」


「お言葉に、甘えます」


◇◇◇


居間に通し、暖炉に薪を一本足した。


小さな机。木の椅子。天井から下がる薬草の束。古い書斎の本棚。


亡き祖母の家は、二人で座るのにちょうどよい広さだった。


私はハーブティーを淹れて、エルクハルト様の前に置いた。


「カモミールとミントを、合わせましたわ」


「いただきます」


エルクハルト様は丁寧にカップを口に運ばれた。


「美味しい」


「お祖母様の薬草園のハーブで、淹れましたの」


「お祖母様も、薬草を」


「ええ。亡き祖母は薬草師でもあり、神話の研究者でもございました」


エルクハルト様の目がわずかに動いた。


「神話、ですか」


「祖母の書斎には、古い神話の研究書が並んでおります」


「拝見しても、よろしゅうございますか」


「どうぞ。後ほど」


エルクハルト様は頷かれた。


それから、しばらく何も仰せにならなかった。


(——この方は、何をお話しになりたいのかしら)


私も待った。


待つことには慣れている。過去十二回、私はたくさんの沈黙を過ごしてきた。


◇◇◇


「リーゼロッテ様」


「はい」


「現在、私は王都の宰相府で補佐官を務めております」


「お若くして宰相補佐官のお名前は、お父様から伺っております」


「噂、ですか」


「ええ。優れたお方が若くして頭角を現された、と」


エルクハルト様はわずかに目を伏せられた。


「お会いになったことは、ございますか」


「いいえ。本日が初めてでございます」


私はティーカップを机に置いた。


「では、なぜ私のことを、ご存知なのですか」


エルクハルト様はしばらくためらわれた。


「お笑いになるかも、しれません」


「お笑いには、なりません」


「貴女は、私を信じてくださるか」


「お話を伺ってからで、よろしいでしょうか」


エルクハルト様はふっと息を吐かれた。


それから、まっすぐに私を見つめられた。


「私は過去、十二回、この世界を繰り返している」


私の指からティーカップの取っ手が離れた。


カップは机の上にあったから、落ちなかった。


ただ私の指だけが、宙に浮いた。


(——え)


(——この方も?)


部屋の中で暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。


私はゆっくりと息を吸った。


「お続けください」


声がいつもよりわずかに固かった。


◇◇◇


エルクハルト様はカップを両手で包み、ご自身の過去を語り始められた。


「一回目の人生は、王宮の宰相補佐官として頭角を現していました」


「優れたお方、と評されていらしたのでしょうね」


「ええ。それが災いした」


エルクハルト様は深い緑の瞳を、暖炉の火に向けた。


「ある夜、宮殿の廊下で政敵に刺されました」


「派閥争いの一環でした」


「二十四歳の冬」


私は無言で頷いた。


(——私の一回目は、二十二歳の春)


(——朝のお茶に毒)


(——同じ宮廷の派閥争い)


別の場所、別の日、別の手段。けれど同じ時期、同じ「派閥争い」という言葉の影で、私たちは死んでいた。


「五回目は、慎重に派閥を避けました」


エルクハルト様の声が低くなった。


「中立を貫きました。誰の側にもつかず、ただ職務を果たした」


「それでも」


「ええ」


「無味無臭の毒を、ワインに盛られました」


私はティーカップに目を落とした。


「派閥を避けても、別の派閥が私を許しませんでした」


エルクハルト様の口元に、わずかに自嘲の笑みが浮かんだ。


「貴方様は、この国の宰相になる才を、お持ちなのでしょうね」


「だから毎回、命を狙われた」


「ええ。そう、思います」


その言葉に、自慢も誇りもなかった。ただ事実を述べる声だった。


◇◇◇


「八回目は、王都を離れました」


エルクハルト様が続けられた。


「地方の小さな町の役人として働きました。誰にも目を付けられない、静かな仕事です」


「お幸せだったのですか」


「ええ。三年ほど」


「では」


「ある日、町で火災が起きました」


エルクハルト様の指がティーカップの取っ手を、わずかに握りしめた。


「救出活動の最中、屋敷の梁が、私の頭の上に崩れました」


私は息を呑んだ。


「あの年は」


エルクハルト様が私を見た。


「貴女が三回目で、薬師として落馬された年と同じ歳でした」


——え。


私は顔を上げた。


「私たちは毎回、別の場所で同じ年齢で、死んでおりました」


「ええ」


私の声は、自分でも驚くほど小さかった。


(——同じ年に)


(——別々の場所で)


(——会うことなく)


(——私たちは死んでいた)


◇◇◇


エルクハルト様はカップを置かれた。


「アルテンブルク公爵令嬢のお名前は、毎回王都の社交で噂に聞いておりました」


「卒業パーティーで婚約破棄をされる、同じ運命を毎回辿っておられる」


「これは偶然ではない、と思いました」


「同じ運命を辿る別の人物が、いるかもしれない」


「もしそうなら、私と同じくループしているのではないか、と」


「それで私を」


「お会いしたかった」


「過去十二回、お探しに」


「お探しした、と申し上げてよいかは分かりません」


エルクハルト様はわずかに視線を逸らされた。


「毎回、業務に追われ、陰謀に巻き込まれ、貴女に会う前に死んでおりました」


「貴女が王都の社交の場にお出になるたび、私は近くにいることができませんでした」


「今世は、違いました」


エルクハルト様が再び私を見た。


「貴女が王都を離れた」


「私はその噂を聞きつけ、馬で追いかけて参りました」


「私の命の長さも、今世はまだ続いている」


「ようやく、間に合った」


エルクハルト様の声は、いつもの低さの奥でわずかに震えていた。


◇◇◇


私はゆっくりとティーカップを口に運んだ。


ハーブの香りが鼻に抜けた。


(——十二回分の片想い)


(——この方は私と同じ重さを抱えていらした)


(——そして今世、私を見つけてくださった)


過去十二回の人生で、私は誰にもこうして探されたことがなかった。


王太子レオナルト殿下は毎回、婚約破棄を告げてくる。家族は私を案じることはあっても、追いかけてはこない。過去の婚約者たちも、誰一人、私を探さなかった。


「エルクハルト様」


「はい」


「もう一杯、お茶をお淹れいたしますわ」


エルクハルト様の口元が、ほんの少しゆるんだ。


それは寡黙な方の、初めての笑みだった。


◇◇◇


エルクハルト様は近くの宿に滞在されることになった。


「ご厚意は嬉しく思います。ですが私が貴女のお家に泊まるのは、礼に反します」


「ええ。そう、思いますわ」


「ですから宿に。ご迷惑でなければ、毎日伺ってもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


それから、私たちの日々が始まった。


朝、エルクハルト様は宿から馬で来られて、薬草園の手入れを手伝ってくださった。無骨な手で土を耕し、雑草を抜き、薪を割られた。


宰相補佐官の手とは思えないほど、自然な動きだった。


「武門のお家ですから」


「はい。剣も握ります」


「では薪割りも、お得意で」


「父が領地で自ら薪を割る方でしたので」


エルクハルト様の家の話を、私は初めて聞いた。


過去の人生では、エルクハルト様という方の存在を、噂以上に知ることがなかった。今は目の前で、語ってくださっている。それが不思議だった。


◇◇◇


ある夕方、エルクハルト様が薪を割ってくださった後、夕食を共にした。


私が作ったシチュー。野菜と村で買った肉と、薬草園のハーブで煮込んだものだった。


エルクハルト様は一口運ばれて、止まられた。


「リーゼロッテ様」


「はい」


「このシチューは」


「お祖母様の手記の調理法ですわ」


「いえ」


エルクハルト様の目がわずかに揺らいでいた。


「私の九回目の人生で」


「はい」


「学者として過労で倒れる前に」


「ある居酒屋で、似た味のシチューをいただいた覚えが」


私はしばらく考えた。


それは——。


「私の十一回目の人生で」


「はい」


「私が辺境の村娘で、農夫の妻だった頃、夫に作っていたシチューでございます」


二人でしばらく見つめ合った。


「同じ味、ということですか」


「私の母から教わった味でした」


「九回目の私が、王都の居酒屋で食べていた」


「十一回目の私が、辺境の村で夫に作っていた」


別の人生で、私たちは同じ味のシチューに触れていた。


世界はこれほど広いのに、こんなところで、私たちの過去はかすかに繋がっていた。


「世界は広く、それでいて小さゅうございますわね」


「ええ」


エルクハルト様はシチューをもう一口運ばれ、深く頷かれた。


その夜のシチューの味を、私はずっと覚えているだろう、と思った。


◇◇◇


その夜から、私たちは過去十二回の人生をぽつりぽつりと語り合った。


「私の三回目は薬師でございました」


「私の三回目は疫病で死んだ年でした」


「私が薬師として田舎で薬を配っていた頃に」


「私は王都の貴族街で、疫病に倒れておりました」


「もし私が王都へ薬を届けに行っていたら」


「もし私が田舎で療養していたら」


「お会いできたかもしれませんわね」


「ええ」


「ですが、過去のことは変えられません」


「変えられない」


エルクハルト様の指がティーカップの取っ手を握りしめた。


「私たちは過去を変えることはできません」


「ですが今を変えることは、できます」


「ええ」


◇◇◇


季節は春から夏へ移り変わった。


薬草園のラベンダーが咲き始めた。


紫色の小さな花が風に揺れる。


ある夕方、エルクハルト様がラベンダーを一枝、そっと折ってくださった。


「私の母も、ラベンダーが好きでした」


「お母様、お元気で」


「五年前に亡くなりました」


「祖母も、ラベンダーが好きでございました」


「同じですね」


「ええ」


私はラベンダーを受け取った。


無骨な手から、私の手のひらへ。


香りがふわりと立ち上った。


(——笑っているわ、私)


笑うのはいつぶりだろう。


過去十二回の人生で、私は笑い方を忘れていた。


エルクハルト様もまた、薄く笑われた。


その笑みを見て、私は思った。


(——もう少しだけ、生きてみよう)


◇◇◇


ある雨の日。


外には出られない、しっとりとした朝だった。


私は祖母の書斎を整理していた。古い書物を一冊ずつ手に取り、埃を払い、棚に戻す。神話の研究書、薬草の手記、年代記。祖母が遺した書斎は、小さな図書室のようだった。


エルクハルト様も書斎を覗かれた。


「これは随分と、古い書物ばかりですね」


「祖母が神話の研究をしておりました」


「神話、ですか」


「愛と縁の女神アエレ様の逸話が多うございます」


エルクハルト様は書棚の一冊を手に取られた。革の表紙が黒く変色した、古い書物。


頁をゆっくりとめくられる。乾いた紙の音が、雨音に混じった。


しばらくして、エルクハルト様の手が止まった。


「リーゼロッテ様」


「はい」


「これを、ご覧ください」


私はエルクハルト様の隣に立ち、書物を覗き込んだ。


頁には、こう書かれていた。


『縁を結ぶはずの二人が、結ばれずに世界の運命に影を落とすとき』


『神は二人をもう一度出会わせるため、時を巻き戻す』


『だが二人が出会えるまで、世界は繰り返される』


私は息を止めた。


エルクハルト様も、同じだった。


雨音だけが、書斎の中で続いていた。


「リーゼロッテ様」


「はい」


「私たちのこと、ではないでしょうか」


私は頁から目を離せなかった。


書物の文字が、不思議なほど、私たちの状況に一致していた。


エルクハルト様が静かに頁をめくられた。


その頁にも、続きが書かれていた。


『二人が出会えた時、世界の縁は結び直される』


『その鍵は、二人の最初の出会いの場所にある』


「最初の、出会い」


「ええ」


「リーゼロッテ様」


「はい」


「私たちには、最初の出会いがあったはずです」


「ループの起源です」


「思い出せませんか」


私はしばらく考えた。


——記憶の奥で、何かが揺れた。


風で揺れる布。血と薬草の匂い。深い緑の瞳。


それは、夢だったか。それとも、もっと古い、記憶だったか。


私は、口を開いた。


「分かりません」


「ですが、何かが」


「胸の奥で動いた気がいたします」


エルクハルト様は深く頷かれた。


「今夜、もし夢をご覧になったら、お話しください」


「ええ」


雨が、その夜まで降り続いた。


◇◇◇


その夜、私は夢を見た。


戦場の医療天幕。


布が風で揺れていた。何度もはためく音が、夢の中でやけに鮮明だった。


血の匂い。


薬草の匂い。


私は何かを煎じていた。鉄鍋の中で、緑色の液体が、ぐつぐつと音を立てている。


寝台に、深い傷を負った若い男性が横たわっていた。


胸に布を巻かれている。布は赤く染まっていた。男性の顔色は青ざめ、呼吸は浅かった。


私は寝台のそばに膝をついた。


男性が薄く目を開けた。


深い緑の瞳が、私を見上げていた。


——この瞳を、私は知っている。


夢の中で、そう思った。


◇◇◇


朝、目を覚ました時、私の頬は濡れていた。


涙だった。


なぜ涙が出ていたのか、分からなかった。


ただ胸の奥で、何かが疼いていた。


(——ゼロ回目)


(——ループの、前)


私は急いで身支度を整え、エルクハルト様を呼びに行こうとした。


その朝、エルクハルト様は薬草園にいらっしゃった。早朝から私の家に来てくださっていたらしい。


私の顔を見て、エルクハルト様は剪定鋏を置かれた。


「夢を、ご覧になりましたか」


「はい」


「お話を、お聞かせください」


私たちは居間に戻り、暖炉の前に座った。


私は、覚えている限りの記憶を辿った。


◇◇◇


それは、私の十六歳の夏のことだった。


北の国境で戦争が起きていた。


公爵令嬢でありながら、私は薬草の知識を持っていた。祖母から幼い頃に教わった知識を、独学で深めていた。


ある日、戦場の医療陣から人手が足りない、と要請があった。父・公爵は私の従軍を許された。


「お前は薬の心得がある。陣中で薬を煎じて、傷兵を救え」


父はそう仰せだった。十六歳の娘を戦場へ送るのに、父は迷われた。だが結局、許してくださった。


私は戦場の医療天幕で、薬草を煎じていた。


毎日、何人もの傷兵が運ばれてきた。私はできる限りの手当てをし、できる限りの傷を癒した。


ある夜、深い傷を負った若い宰相補佐官が運ばれてきた。


二十四歳の、深い緑の瞳の方。


戦場の作戦会議に出ていた帝国軍の補佐官が、敵兵の急襲に遭ったらしい。


「ようこそ、こちらへ」


私は笑顔で迎えた。


戦場では笑顔が何より大切だった。怪我人は、まず安心させる。


「お助け、いただけるか」


「ええ。お助けいたしますわ」


私は薬草を煎じた。センブリ、ドクダミ、シダの根。


傷口に湿布を当てた。


男性は弱々しく、私の手を握った。


「ありがとうございます」


そう言って、彼は静かに眠った。


私は彼の手を握ったまま、囁いた。


「ゆっくりお休みになってくださいませ」


その夜、医療天幕は敵兵に襲われた。


私は逃げることができなかった。傷兵を見捨てることができなかった。


剣で刺された。


意識が薄れていく中で、私は彼の安全を祈った。


(——お助けできなかった)


それが私の最期だった。


◇◇◇


私が話し終えた時、暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。


エルクハルト様はしばらく何も仰せにならなかった。


それから、深く頷かれた。


「私の最も古い記憶も、戦場でした」


「医療天幕で薬草を扱う、若い令嬢に出会った」


「とても優しい笑顔の方でした」


「お顔ははっきりとは覚えていない」


「ですが、その方の深い紫の瞳は、忘れたことがございません」


私の瞳は薄紫だった。


「夜、敵兵の襲撃で医療天幕は失われた」


「私はその方が襲撃で亡くなったことを、知らずに」


「翌朝、戦場へ出ました」


「そして流れ矢に当たって、死にました」


「同じ夜と翌朝に、私たちは別々に死んでおりました」


エルクハルト様の指がわずかに震えた。


「ゼロ回目の私たちは出会って」


「その夜のうちに別々に、命を落とした」


「神様は私たちを」


「もう一度出会わせようと、なさった」


私は頷いた。


涙が頬を伝うのを、止められなかった。


(——あの夜、貴方様は私の手を握って眠られた)


(——だから、生き残らせたかった)


(——だから、私は逃げずに戦場に残った)


エルクハルト様も、目が潤んでいた。


二人の沈黙の中で、暖炉の火だけが、静かに燃えていた。


◇◇◇


「リーゼロッテ様」


「はい」


「ゼロ回目の戦場の跡地は、ご記憶ですか」


「ええ。北の国境、エルゼン平原」


「私のグラウフェルト領は、エルゼン平原に近うございます」


「ご一緒に、参りましょう」


「呪いを解く鍵が、そこにあるかもしれません」


私はしばらく考えた。


(——人生を放棄した私が)


(——もう一度生きるために、動こうとしている)


「お受けいたします」


「では明日、出立いたしましょう」


◇◇◇


二日後、私とエルクハルト様は馬車でエルゼン平原に到着した。


夏の風が平原を撫でていた。


戦争が終わって、もう十年以上が経っている。戦場の跡には雑草が生い茂り、かつての医療天幕も、敵兵の足跡も、何一つ残っていなかった。


ただ静かな夏の平原が、そこに広がっていた。


エルクハルト様は道の途中で馬車を止め、私の手を取って降ろしてくださった。


「丘の上が、医療天幕のあった場所です」


私たちは草を踏みながら、丘の上まで歩いた。


風が吹き抜けていく。


私はその場に立ち、目を閉じた。


——あの夜の風の音を、布のはためく音を、血と薬草の匂いを、思い出した。


——若い宰相補佐官の手の温度を、思い出した。


「ここに、貴女はいらした」


エルクハルト様の声が、隣で聞こえた。


「ええ」


「私はその夜、別の場所で命を落としました」


「ええ」


私たちはしばらく無言で立ち尽くした。


風が、また吹き抜けていく。


(——ここで、私たちの最初の縁が結ばれかけた)


(——ここで、私たちの最初の縁が引き離された)


(——そこから、十二回)


エルクハルト様が、私の手をゆっくりと取られた。


「リーゼロッテ様」


「はい」


「もう、ループは終わらせましょう」


「ええ」


「私たちで、終わらせましょう」


「ええ」


エルクハルト様の手が温かかった。


無骨な、しかし温かい手だった。


剣を握り、馬を駆り、書類を整え、私をずっと探してくださった手。


その瞬間、空に薄く虹色の光が走った。


二人だけに見える光だった。


「ご覧に、なりましたか」


「ええ」


「神様の、祝福でしょうか」


「呪いが、解け始めた合図かもしれません」


風が穏やかに吹いた。


平原の雑草が、波のように揺れた。


(——お母様、お祖母様)


(——十三世代の私が、ようやく出会えました)


私は涙を拭わず、その風を受けていた。


◇◇◇


戦場跡地から戻り、夏の終わりにグラウフェルト侯爵領で、私たちはしばらくの時間を過ごした。


エルクハルト様のお父上は、寡黙ながら温かい方だった。先代のグラウフェルト侯爵。白髪混じりの髭、深い灰色の瞳。エルクハルト様の面影が、所々に見えた。


「リーゼロッテ嬢」


「はい」


「お祖母様には、お世話になりました」


「祖母を、ご存知でいらしたのですか」


「若い頃、神話の研究で、ご縁がありました」


「あら、まあ」


世界は本当に繋がっている、と思った。


祖母とお父上が、若い頃に交流があった。祖母の遺した書斎の研究書の中に、お父上のお名前があったのかもしれない。


私たちの縁は、ゼロ回目の戦場よりも、もっと前から、繋がっていたのかもしれなかった。


◇◇◇


ある夕方、私とエルクハルト様はグラウフェルト城のバルコニーから夕日を眺めていた。


夕日が薔薇園を朱色に染め、夏の終わりの風がラベンダーの香りを運んでいた。


二人並んで石の手すりに手を置いていた。肩が触れるか触れないかの距離。


「リーゼロッテ様」


「はい」


「私と、生涯を共に過ごしていただけませんか」


「お選びくださるのですね」


「貴女がお望みくださるなら」


私はしばらく考えた。


(——もう、結婚は諦めておりました)


(——ですが目の前に、十二回分の片想いを抱えた方がいらっしゃる)


(——そして私もまた、この方をゼロ回目から知っていた)


私はラベンダーの香りのする自分の手を、見つめた。


過去十二回の人生で、私は何度も結婚した。何度も嫁いだ。何度も愛されたかもしれない。


——けれど、ゼロ回目から知っていた方は、目の前のこの方しかいなかった。


私は顔を上げ、エルクハルト様の深い緑の瞳を見上げた。


夕日に照らされたその瞳は、戦場の医療天幕で見たあの瞳と、同じ色をしていた。


「お受けいたします」


エルクハルト様の表情がゆっくりと崩れた。


普段の寡黙な顔の奥のほうから、温かいものが染み出してきた。


「ありがとう、リーゼロッテ様」


「いえ。私が選ばれたのです」


エルクハルト様の手が、私の手に重ねられた。


無骨な、温かい手だった。


夕日が、二人の影をバルコニーの石床に長く伸ばしていた。その影は、いつの間にかひとつに重なっていた。


◇◇◇


私はその夜、父・公爵に手紙を書いた。


『お父様』


『私は結婚を諦めて、お祖母様の家で隠居しておりました』


『ですがお選びくださる方が、現れました』


『お相手は、グラウフェルト侯爵家のご次男、エルクハルト様』


『現在、王都の宰相補佐官を務めておられる方です』


『お父様のお許しを、いただけますでしょうか』


『——リーゼロッテ』


数日後、父からの返事が届いた。


『リーゼロッテ』


『お前の判断を、信じる』


『お祖母様がお喜びになるだろう』


『王都へ、戻ってきなさい』


『正式にご挨拶を、お受けいたしたい』


『——父より』


短い、しかし十二回の人生で初めて読む、温かい手紙だった。


◇◇◇


冬の朝。


グラウフェルト侯爵家の城の書斎で、私はエルクハルト様の隣に立っていた。


窓の外には雪が降り始めていた。


しんしんと、世界を白く覆っていく。王都の街並みも、グラウフェルト領の山々も、すべて雪の下に静まっていた。


書斎の暖炉で、薪がぱちりと鳴った。


「リーゼロッテ」


「エルクハルト」


「お互いを敬称なしで呼ぶのも、慣れて参りましたわね」


そう私が言うと、エルクハルトはわずかに笑った。


「次の人生、また繰り返すかしら」


「いいえ」


「今世が最後です」


「貴方と、最後まで」


「ええ」


エルクハルトが私の手を握ってくださった。


無骨で温かい手。


剣を握り、馬を駆り、書類を整え、私をずっと探してくださった手。


「リーゼロッテ」


「はい」


「過去の十二回も、貴女の人生でした」


「ええ」


「無駄ではなかった」


「ええ」


「貴女が薬師として、村の子を救った日々」


「貴女が学者として、王都の図書館で書を遺した日々」


「貴女が辺境の村娘として、夫にシチューを作った日々」


「すべて、今、ここに繋がっています」


「ええ」


私はエルクハルトの手を握り返した。


雪はしんしんと降り続いていた。


王都の社交の喧騒も、卒業パーティーの大広間も、もう遠かった。


ここには暖炉の火と、雪の音と、私たち二人の沈黙だけがあった。


(——お母様、お祖母様)


(——私は自分の場所を、見つけました)


(——十三回目の人生で、ようやく)


エルクハルトの腕が、そっと私の肩を抱き寄せた。


二つの影が、書斎の床でひとつに重なっていた。


窓の外には、雪が静かに降り続いていた。


◇◇◇


(了)


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