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【女性スタントマン短編小説】落下の法則 ── La Loi de la Chute  作者: 藍埜佑


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第七章 防波堤の夜――届かなかった手

 マルセイユの夜は、ロサンゼルスの夜より暗い。


 光害が少ないのではない。港の灯り、旧市街のナトリウムランプ、ヨットのマスト灯。光源は十分にある。しかしマルセイユの暗さは、光の不在ではなく、闇の密度によるものだった。地中海の湿気を含んだ夜気が光を吸収し、建物の石壁が日中に蓄えた熱を放出し、空気そのものが温かく暗い膜のように町を覆う。


 エレナが防波堤に来たのは、眠れなかったからだ。


 母の家の客間のベッドで、天井を見つめていた。右手を顔の前に持ち上げ、暗闇の中で指を動かした。振戦は起きない。安静時には起きない。しかし身体は、三日前のカラビナの失敗を記憶している。筋肉の記憶ではなく、もっと深い──脊髄レベルの、意識以前の記憶として。右手が自分の一部でありながら、同時に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 夜の十一時に家を出た。母は眠っている。呼吸のリズムが安定していることを、客間のドアの隙間から確認した。母の呼吸。かつては力強く規則的だった元体操選手の呼吸が、今は少し浅く、不規則になっている。それが悲しかった。


 港湾地区の路地を歩いた。石畳の上を素足にサンダルで。足裏が石の温度と質感を読む。日中の太陽熱がまだ残っていて、石は体温に近い温かさを保っている。


 防波堤に着いた。


 座った。海を見た。地中海の夜の海は黒ではなく、濃紺だった。月が四分の三ほど満ちていて、海面に不規則な光の道を描いている。波の音が規則的に届く。右耳には波頭が砕ける高周波の飛沫の音まで聞こえ、左耳にはそれが欠落して、低い唸りだけが残る。


 十五分ほど座っていた。


 足音が近づいてきた。


 エレナは振り返らなくても、その足音の主がわかった。左膝をわずかにかばう歩行パターン。やや内股の着地角度。歩幅は約七十センチで、急がない。リュカの歩行。


「眠れないのは君だけじゃないみたいだよ」


 リュカが隣に座った。距離は約五十センチ。腕を伸ばせば触れる距離。伸ばさなければ触れない距離。


「なぜここに?」


「コスモが落ち着かなくて。散歩に出たら、足がここに来た」


 コスモは来ていなかった。リュカの足元に犬はいない。みえみえの嘘だった。リュカは嘘が下手だった。嘘をつくとき、彼の声帯はいつもより高い位置で震える。


 エレナはそれを指摘しなかった。嘘の理由を知っていたから。リュカは夜に一人で出歩くエレナを心配していた。あるいは、母から聞いたのかもしれない。ナディアが「エレナが夜中に出て行った」とリュカに連絡した可能性も。


 あるいは、もっと単純に、リュカもまた防波堤に来たかったのかもしれない。


 二人は並んで座った。


 海を見た。

 波の音。

 月の光。

 石の温かさ。

 ほのかに残る昼の匂い。


 五分間の沈黙。


 リュカの沈黙は、空間を開く沈黙だった。

 何かが入ってくることを許す沈黙。

 サラとは違う。


 エレナはその空間の中に座りながら、自分の身体の各部が順番に緊張を解いていくのを感じていた。まず肩。次に顎関節。そして、腹直筋。日常的に軽く収縮させている体幹の筋群が、防波堤の石の上で、わずかに弛緩した。


「覚えてる? 屋根の上」


 リュカが言った。


 エレナの身体が一つの単位として反応した。筋肉が弛緩から一瞬で収縮に転じ、背骨に沿って電気的な信号が走り、横隔膜が一瞬だけ停止した。呼吸が止まったのではない。呼吸の制御権が、意識的な管理から身体の自律系に一瞬だけ移行したのだ。


「……覚えてる」


「僕はあの夜のことを、ずっと考えてた」


 リュカの声は低く、ゆっくりだった。夜の空気の中で、言葉が一つずつ形を持って浮かぶように。


「君が十三くらいのとき。夜中に家を出て、屋根を渡り歩いてた。僕はそれを知ってた。一度だけ、後をつけた。でも途中できみに見つかった」


()()()()知ってたわ」


「最初から?」


「あなたの足音は昔から特徴的だったから。石畳の上で左足が右足より〇・〇五秒長く接地する。だからすぐわかった」


 リュカが小さく笑った。


「〇・〇五秒。君はそういうのを覚えてるんだな」


「身体が覚えてる。頭じゃなくて」


「あの夜、僕は君の後について屋根に登った。三階建てのベルナール家の屋根。瓦が古くて、足を置くたびに滑った。屋根の稜線に出たとき、下を見た。それが間違いだった」


 エレナは覚えていた。リュカが屋根の稜線の上で凍りついた姿。月明かりの中で、彼の身体は震えていた。固有受容感覚が「安全ではない」と全身に信号を送り、随意筋が収縮し、不随意筋も収縮し、身体全体が一つの硬直した塊になっていた。


「動けなかった」


 リュカが言った。


 「足が、石になった」


 彼にとって、それは陳腐な表現ではなく、あの夜の身体の記憶そのものだった。


「手が……震えてた。脚も。何もかも。高さが三階分しかないのに。君が毎晩渡り歩いてる高さなのに。僕は動けなかった」


「でも登ってきた」


「君がいたから」


 その言葉が夜の空気の中に落ちた。波の音が一つ分だけ遠くなり、月の光が海面で一度だけ強く反射し、石の温度がエレナの太腿の裏で〇・二度上がったように感じられた。感覚の変容。客観的には何も変わっていない。変わったのはエレナの知覚の閾値だった。


「あのとき、君は僕の手を引いてくれた」


 エレナは覚えていた。リュカの手。十三歳の少年の手。大きくて、冷たくて、震えていた。あの手を掴んだとき、エレナの掌に伝わったのは、恐怖の物理的な表現──筋肉の不随意な収縮、皮膚温度の低下、発汗──だった。他人の恐怖を、自分の皮膚で読んだ最初の経験。


「上にじゃなくて、下に。安全な場所に。一段ずつ、ゆっくり。僕の手を離さないで、瓦の上を一歩ずつ戻ってくれた」


 エレナの記憶の中で、あの夜が再生されていた。しかし今の記憶は、当時の記憶とは異なる解像度を持っていた。当時は「リュカを安全に降ろす」というタスクとして処理した。今は、その行為の中に別の意味が浮かび上がっている。


「君はそれができる人間なんだ」


 リュカの声が、微かに震えた。声帯の不随意な振動。これは嘘のときの震えとは異なる周波数だった。もっと低く、もっと深い。


「落ちることだけじゃない。()()()()()()()()()()()()()()


 エレナの内部で、何かが罅割れる音がした。正確には音ではない。音のメタファー。あの「ガラスの壁」に、微細なヒビが入る感覚。スタントの最中に起動する解離が、今、この防波堤の上で起動しようとしていた。親密な言葉に対する自動防衛。身体が「ガラスの壁」の向こう側に退避しようとしている。


 しかし、退避は完了しなかった。


 リュカの声の周波数が、壁の向こう側まで追いかけてきた。ガラスの壁は通常、外部の音を等距離に配置する──近くも遠くもない場所に。しかしリュカの声は、等距離に配置されることを拒んだ。近い場所に留まった。右耳にも、損傷した左耳にも、同じ近さで。


 エレナは初めて、リュカの前で解離できない自分に気づいた。


 その認識が、身体の中を走った。肩甲骨の間を通り、脊柱に沿って腰椎まで降り、骨盤の底で反転して、胸郭を通り抜け、咽頭に到達した。声にならない振動が喉の中で共鳴し、呼吸が一つだけ深くなった。


「リュカ」


「うん」


()()


 二度目の告白。四日前の防波堤の朝と同じ言葉。しかし今度の「怖い」は、母のことだけではなかった。


「何が」


「今、ここで、()()()()()()()()()()()


 言葉が唇を通過した瞬間、エレナの身体に何が起きたかを、彼女は精密に記録していた。心拍が七十八から八十六に上昇。呼吸が一分間に十六回に加速。両手の掌に発汗。これらは恐怖のパラメータとしても、興奮のパラメータとしても解釈できるが、どちらの解釈も不完全だった。この身体反応は、恐怖でも興奮でもなく、あるいは両方であり、さらにその二つを包含するより大きな何かだった。


 リュカは何も言わなかった。長い沈黙。しかしその沈黙の中で、彼の身体が微かに動いた。右手が石の上を滑り、二人のあいだの五十センチの距離を、十センチだけ縮めた。手は伸びきらなかった。四十センチの距離が残った。


 そこに手を置いたまま、リュカは海を見ていた。


 エレナの視覚系は、その手を見ていた。暗がりの中で、月明かりに照らされた大きな手。獣医の手。傷ついた動物を縫合する手。母のために買い物袋を持つ手。十三歳の夜、屋根の上で震えていた、あの手。


 今は震えていなかった。


 エレナは自分の右手を見た。暗闘の中で、それは静止していた。しかし、いつ震え始めるかわからない手。制御の外に出始めた手。


 二つの手のあいだの四十センチ。


 エレナはその距離を縮めなかった。縮めることが怖かったからではなく──いや、怖かったからだ。しかし怖さの種類が、高所の恐怖とは異なっていた。高所の恐怖は「落下」の恐怖であり、落下は物理法則に従い、物理法則は予測可能だ。この恐怖は予測不可能だった。リュカの手に触れたとき、何が起きるか。自分の身体がどう反応するか。「ガラスの壁」が完全に崩壊するか、それとも更に厚くなるか。


 制御不能な変数が多すぎた。


「帰る」


 エレナは立ち上がった。


「うん」


 リュカの声に、失望はなかった。落胆もなかった。あったのは、忍耐に似た何か──ただしそれは受動的な忍耐ではなく、能動的な「待つ」という行為だった。海の浸食が岩を変えるのを待つような、時間の力を信頼する待ち方。


 エレナは防波堤を歩き去った。数歩進んで、立ち止まった。振り返らなかった。しかし声だけが、背中越しに夜の空気を渡った。


「あの夜、屋根の上で。あなたの手が震えていたこと、覚えている」


「うん」


「でもあなたは震えながら、登ってきた」


「うん」


「それが……」


 そこで、途切れた。エレナの口が、次の単語を形成しようとして止まった。喉頭の筋肉が収縮し、声帯が閉鎖位に固定された。言おうとしていた言葉──「それが、勇気だったんだ」──は、身体のどこかで停止した。まだ通過を許可されていない言葉。


「またね」


 代わりにそう言った。


「またね」


 リュカの声が背中に触れた。エレナは歩いた。母の家に向かって。石畳の上を、素足のサンダルで。足裏が石の温度を読む。日中の熱が失われ始めた石。冷えていく地面。


 彼女はこの夜、部屋に戻ってから眠れなかった。天井を見つめながら、右手を胸の上に置いていた。手の重さ。手の温度。手の中にある、〇・八グラムの革のブレスレットの重み。


 そして、四十センチの向こう側にあった、リュカの手の温度の不在。


 触れなかった温度が、触れた温度よりも長く残ることがある。それは物理学では説明できない現象だった。エレナの精密な身体計測の語彙では、記述できない現象だった。


 夜明け前、窓の外が白み始めたとき、エレナの左耳が、かすかに潮騒を拾った。右耳が聞いているものより、少しだけ柔らかい音。損傷した耳が聞く世界は、少しだけ輪郭が溶けている。


 初めて、その「溶けた輪郭」が、不具合ではなく、別の種類の知覚のように感じられた。精密さが欠落した場所に、何か別のものが入り込む余地がある。


 それが何であるかは、まだわからなかった。


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