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【女性スタントマン短編小説】落下の法則 ── La Loi de la Chute  作者: 藍埜佑


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第六章 〇・一秒の逸脱 ――身体の裏切り

 それは、カラビナの操作中に起きた。


 トレーニングスタジオの八メートルの天井に張ったワイヤーの上で、エレナはサラに安全索の付け替え手順を実演していた。ワイヤー上を移動するとき、安全索のカラビナを次の固定点に付け替える動作──開閉レバーを親指と人差し指で挟み、ゲートを開き、ワイヤーに通し、閉じる。一連の動作は一・二秒で完了する。その一・二秒のあいだ、安全索は機能していない。高さ八メートルのワイヤーの上で、一・二秒間の自由。


 右手がカラビナのレバーに触れた瞬間、薬指から始まった振動が手首に達した。


 周波数は十ヘルツ前後。コーヒーカップの水面がかすかに揺れる程度。しかしカラビナのレバーは幅四ミリの金属片であり、〇・五ミリのずれが開閉の成否を分ける。エレナの右手はそのレバーを掴み損ね、カラビナが指の間を滑った。


 反射が身体を救った。左手が即座にワイヤーを掴み、身体を安定させた。カラビナは安全ロープの端にぶら下がったまま、空中で揺れている。サラは六メートル下のクラッシュマットの上から見上げていた。


「大丈夫ですか?」


「問題ない。グリップが甘かった」


 ()()()()。グリップの問題ではない。右手の微細な振戦が、精密動作の閾値を初めて超えた。安静時には現れず、カラビナの操作やワイヤーの把持といった微細運動のときにだけ顕在化する()()()()()


 エレナはワイヤーの上で静止し、右手を見下ろした。振戦は既に収まっている。手は安定し、指は正常に機能している。何事もなかったかのように。しかし三秒前、この手は一・二秒の安全マージンを〇・四秒侵食した。


 ワイヤーを降り、サラにトレーニングの続きを指示してから、エレナは倉庫の隅で一人になった。


 右手を顔の前に持ち上げた。指を開き、閉じる。開き、閉じる。振戦は起きない。力を入れた状態では起きない。問題は、力を入れずに精密な位置決めをする動作──つまり、スタントの最も重要な局面──でだけ起きる。


 カラビナを取り出し、右手だけで開閉操作を反復した。一回。正常。二回。正常。三回。正常。四回──薬指に微かな遅延。振戦とは言えないが、通常の反応速度から〇・〇八秒の逸脱。五回目を試みようとして、やめた。


 やめた理由は、サラの視線だった。六メートル離れたクラッシュマットの上で、バランス訓練を行いながら、サラの目がエレナの右手を見ていた。


 翌日、エレナはマルセイユ市内の神経内科を受診した。


 MRIの筒の中に横たわりながら、エレナは磁場の振動を全身で感じていた。一・五テスラの磁場が水素原子の核スピンを整列させ、ラジオ波パルスが共鳴を引き起こし、その信号が断層画像に変換される。磁石が発する律動的な打撃音──バンバンバン──が、鼓膜を通じて頭蓋骨に響く。右耳には鮮明に。左耳には、やや減衰して。


 医師は五十代の女性で、神経内科の専門医だった。MRIの画像を見ながら、落ち着いた声で説明した。


「構造的な異常は見られません。脳腫瘍や多発性硬化症の所見もありません」


 エレナの横隔膜が、少しだけ緩んだ。


「しかし」


 緩みが止まった。


「神経伝導検査の結果を見ると、右手の末梢神経──特に正中神経と尺骨神経──に、軽度の伝導速度低下が認められます。単一の外傷ではなく、反復的な衝撃の蓄積による慢性的な微小損傷と考えられます」


「具体的には」


「あなたの経歴を伺いました。高所からの着地、衝撃吸収、振動への反復曝露。それらが長年にわたって末梢神経の髄鞘に微細な損傷を蓄積させたのでしょう。現時点では日常生活に支障はありません。しかし」


 二度目の「しかし」。


「このまま同様の負荷を継続した場合、四十代で症状が進行する可能性があります。振戦の頻度と振幅が増加し、精密動作に支障が出る可能性。最悪の場合、末梢性ニューロパチーに移行する可能性も否定できません」


 エレナは医師の言葉を聞きながら、自分の身体を内側から観察していた。心拍は六十八。やや高い。呼吸は一分間に十四回。やや速い。しかし、これらの変動は「恐怖」のパラメータとしては低い。成層圏ダイブ前の数値とは比較にならない。


 つまり、この情報は「恐怖」として処理されていなかった。


 では何として処理されていたのか。


 エレナにはわからなかった。身体のバイタルが示すのは、恐怖よりも穏やかで、しかし恐怖よりも深い場所に沈んでいく何か。名前をつけるとすれば、それは()()()()()に最も近かった。


「スタントをやめれば治りますか」


「末梢神経の回復力には個人差があります。負荷を停止すれば、進行は止まる可能性が高い。ただし、既に生じた損傷がどこまで回復するかは……」


「わからない」


「はい」


 エレナは診察室を出て、マルセイユの通りに立った。午後の日差しが石畳を白く照らし、影が短い。地中海の光は容赦がない。すべてを照らし、隠れる場所を許さない。


 右手を見た。手のひらを上にして、指を伸ばした。振戦は起きていない。この手は二十年間、ワイヤーを掴み、カラビナを操作し、空気を彫刻してきた。この手の精密さが、エレナの生命を支えてきた。この手が生む〇・一度の角度調整が、三万九千メートルの落下を死から生還に変えてきた。


 この手が、自分の意志とは無関係に、震え始めている。


 身体は精密機械ではなかった。精密機械なら、部品を交換できる。身体は有機体であり、有機体には有限の耐用年数がある。三十五年間、エレナは身体を機械のように扱ってきた。数値化し、最適化し、限界を計測し、限界を更新してきた。しかし機械と有機体の決定的な違いは、機械は同じ性能を反復できるが、有機体は反復のたびに微かに変化するということだ。


 高度三万九千メートルからの降下に耐えた身体が、カラビナの操作で震える。これは矛盾ではない。蓄積の帰結だ。すべての落下の代償が、今、右手の薬指に集約されている。


 エレナは歩きながら、自分の存在論的基盤を点検していた。「エレナ・コルヴォ」とは何か。スタントパフォーマーとしてのエレナ。「La Chute」としてのエレナ。成層圏から落ちた女。パラシュートなしで飛んだ女。綱渡りで海峡を渡った女。


 その「エレナ」から、スタントを除いたら、何が残るのか。


 足が、気づけばリュカの動物病院に向かっていた。身体が先に判断した。思考よりも先に、足裏が石畳の上でルートを選択していた。


 Vie Douceのドアを開けると、リュカは受付の椅子に座って書類を書いていた。顔を上げ、エレナの表情を読んだ。すぐに何かを察知したらしく、ペンを置いた。


「座る?」


「コーヒーをもらえる?」


 リュカがコーヒーを淹れるあいだ、エレナは待合室の椅子に座っていた。壁の写真──防波堤の二人──がまた目に入った。あの写真の中の少女の手は、震えていなかった。


 コーヒーが来た。受け取った。今度は指先が触れなかった。リュカが意図的に距離を取ったのか、偶然なのか。判別できなかった。


 エレナは何も言わなかった。コーヒーを飲みながら、リュカの動物病院の空気を呼吸していた。消毒液と動物の毛と、古い木の家具の匂い。生きているものと、それを修復するための道具の匂い。


 リュカも何も聞かなかった。書類の続きを書いていた。ペンが紙の上を走る音。規則的で、静かな音。


 三十分後、エレナはコーヒーカップを置いて立ち上がった。


「ありがとう」


「何も聞かないよ。でも、話したくなったら――」


「知ってる」


 ドアの前で、エレナは振り返った。


「リュカ」


「うん」


「あなたの手は、震えたことある?」


 リュカは少し考えた。


「ある。初めて一人で手術をしたとき。犬の腸を縫合する手が震えた。師匠が横で見ていて、『震えていてもいいから、手を止めるな』と言った。震えたまま縫った。犬は元気になった」


 震えていてもいいから、手を止めるな。


 エレナはその言葉を、肋骨の内側のどこかに預けた。言葉が身体の中で場所を見つけるのに、少し時間がかかった。それは「データ」として格納される場所ではなく、もっと柔らかい、名前のない場所だった。


「またね」


「ああ、また」


 動物病院を出て、夕暮れのマルセイユを歩いた。右手をポケットに入れていた。左手は外に出して、夕風に触れさせていた。二つの手が、異なる温度帯の中にあった。ポケットの中の温かさと、外気の涼しさ。


 震える手と、まだ震えない手。


 それはどちらも、彼女の手だった。


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