第五章 恐怖の不在 ――怖くないことが、いちばん怖い
サラ・ダリオのことは、握手の仕方でわかった。
手を差し出す角度が浅すぎる。肘が体側から離れすぎている。握力は強いが、それは筋力であって、相手の手との対話ではない。二十二歳のイタリア系アメリカ人の身体は、爆発的なエネルギーで満ちているが、そのエネルギーの方向が定まっていない。重心が高い。つま先に荷重が偏り、踵が地面から微かに浮いている。常に「次の動き」に向かおうとする身体。「今、ここ」に沈む前に、もう「次」に跳ぼうとしている。
それはかつての自分そのものだった。
「エレナ・コルヴォ! 本物のエレナ・コルヴォが目の前にいる。信じられない!!」
サラの声は高く、速い。単語と単語のあいだに隙間がほとんどない。感情が言語に変換される速度が、通常の人間より速い。あるいは、変換されずにそのまま流出している。
「座って」
「あ、はい。ごめんなさい。興奮しちゃって。あなたの成層圏ダイブ、ライブで見てました。泣きました。嘘じゃなくて本当に。あのとき決めたんです、絶対にこの人に弟子入りするって」
マルセイユの港湾地区に借りたトレーニングスタジオ。元倉庫を改装した広い空間で、天井高は八メートある。ワイヤーリグ、クラッシュマット、バランス器具が配置されている。エレナが「究極のスタント」の準備のために三週間前に契約した場所。
サラのプロフィールは事前に確認していた。UCLA体操部出身。パルクール競技で全米三位。映画スタントの経験二年。身体スペックは優秀──身長百六十五センチ、体重五十四キロ、体脂肪率十四パーセント。反応速度は測定値でトップ一パーセント。
しかし身体スペックは、スタントパフォーマーの本質ではない。
「なぜスタントをやりたいの」
「えっと……自由だからです。空中にいるとき、何にも縛られない感覚。重力だけがルールで、それ以外は全部自分で決められる」
教科書通りの答え。メディアがスタントパフォーマーに期待する物語。
自由。
解放。
束縛からの脱出。
エレナ自身が二十年前に同じ言葉を使っていた。
「嘘じゃないけど、全部でもないでしょう」
サラが一瞬たじろいだ。瞳孔が〇・二ミリ拡大し、唇の端が微かに引かれた。防御反応の初期兆候。
「……楽しいから。単純に。空中にいるのが好き。それに理由が必要ですか?」
「理由は必要ない。でも、理由がないなら、やめる理由も見つからない。スタントは、やめるべきときにやめられることが最も重要な技術なの」
サラは黙った。この沈黙は、リュカの沈黙とは質が異なっていた。リュカの沈黙は空間を開くが、サラの沈黙は空間を閉じる。言葉が見つからないのではなく、言いたいことが多すぎて渋滞している沈黙。
「まず見せて。あなたの動きを」
サラがクラッシュマットの上に立った。一呼吸。そして動いた。
ロンダートからバック転、バック宙、そのまま二回転ひねりの着地。流れるような連続技。筋力、柔軟性、空間認知、すべてが高水準で統合されている。着地の衝撃吸収も膝と足首の角度が教科書的に正確で、脊柱への負荷分散が適切だった。
しかしエレナの目は、別のものを見ていた。
サラの身体は飛んでいるのではなく投げ出されている。跳躍の頂点での滞空時間に、微細な姿勢修正を入れる余裕がない。彼女の身体は出力が入力を上回っていて、加速のフェーズは完璧だが、減速のフェーズに余白がない。
これは才能だった。
同時に危険だった。
「もう一度。今度は、宙返りの頂点で止まるつもりでやって」
「止まる? 宙返りの途中で?」
「物理的に止まれるわけじゃない。でも、頂点で『ここで止まれる』と思う時間を作って。コンマ三秒でいい」
サラがもう一度跳んだ。ロンダート、バック転、バック宙──頂点。サラの身体が逆さまのまま空中にあった。〇・三秒の意識的な「静止」を入れようとしているのが見えた。しかし身体の慣性がそれを許さず、回転が始まった。着地はやや乱れ、左足が右足より〇・一秒遅れた。
「何が起きたかわかる?」
サラは首を傾げた。
「タイミングがずれた……と思います」
「違う。あなたは頂点で初めて『止まろう』とした。でも、止まるための準備は、踏切の時点で始まっていなければならない。空中で新しい判断を入れるのは遅すぎる。スタントの世界では、空中でできることは、地上で準備したことだけ」
サラが目を見開いた。
エレナはその目の中に、理解の閃きと、わずかな反発を同時に読み取った。才能ある若者が、自分の限界を初めて指摘されたときの表情。エレナ自身が二十歳のとき、パリのサーカス学校で最初の師であるジャック・ベルナールに同じことを言われた。曰く「空中は準備の反映だ。空中で発明はできない」
「もう一つ。あなたの動きには恐怖がない」
「それは……褒め言葉ですよね?」
「いいえ」
サラの表情が変わった。
「恐怖がないのは、恐怖を克服したからじゃない。恐怖に気づいていないだけ。気づいていない恐怖は、処理できない。処理できない恐怖は、ある日突然、最悪のタイミングで顕在化する」
エレナは自分の言葉の中に、母の声を聞いていた。
「恐いと思ったとき、それは身体が『ここに注意を払え』と言っているのであって、『やめろ』と言っているのではないのよ」。
ナディアの教え。
今、壊れつつある母の教え。
エレナがそれを次の世代に伝えようとしている。
記憶のリレー。
壊れるまえに、つなぐ。
「私は怖がりよ。いつも怖い。成層圏から落ちるとき、毎回怖い。でも恐怖は信号で、信号は読むためにある。信号を無視して走る車は、いつか交差点で止まれなくなる」
サラは黙ってエレナを見つめていた。まばたきが減っている。エレナの視線の影響──エレナ自身がまばたきの少ない人間であることが、対面する相手のまばたき頻度を無意識に下げる。ミラーニューロンの作用。
「教えてください」
サラの声が、初めて静かになった。速度が落ち、単語と単語の間に隙間が生まれた。
「条件がある。私の言うことには理由を説明する前に従うこと。説明は後からする。空中で説明を求める時間はないから」
「わかりました」
「それから、『怖くない』と感じたら、必ず私に言うこと。怖くないことが、最も怖い状態だから」
サラは頷いた。
トレーニングが始まった。最初の一週間は、サラの期待を裏切る地味な内容だった。バランスボードの上での静止。目を閉じての片足立ち。床に引いた一本の線の上を、三十分間歩き続ける練習。
「これがスタントの訓練ですか?」
「これが基礎。ワイヤーの上では、足裏の母趾球と第二趾の付け根の間、この一点に全体重を預ける。その一点を見つけるのに、身体を三十分間説得し続ける必要がある」
サラは不満を隠さなかった。しかし従った。彼女の才能は運動能力だけでなく、学習速度にもあった。三日目には、バランスボードの上でエレナと同等の静止時間を達成した。
しかし、決定的な違いがあった。
サラがバランスを保つとき、彼女の身体は戦っている。筋肉が不均衡に対して反射的に応戦し、勝ち続ける。エレナがバランスを保つとき、彼女の身体は対話している。不均衡を敵ではなく情報として受け入れ、その情報に身体を適応させる。
この違いを、言葉で伝えることの困難さ。エレナは教える立場に立って初めて、自分の身体知がいかに言語化を拒むものであるかを認識した。母ナディアは、それを三歳のエレナに伝えたのだ。一体どうやって。
「エレナさん」
「呼び捨てでいい」
「エレナ。あなたは……怖くないんですか」
サラがトレーニング後の休憩中に聞いた。水のボトルを持つ手が、若さゆえの安定感で揺れもしない。
エレナは答えを準備していなかった。だから準備していない言葉が出た。
「怖いよ。いつも怖い」
この言葉を、エレナは誰にも言ったことがなかった。メディアには「恐怖は管理するもの」と答えていた。管制には「恐怖はデータ」と報告していた。「いつも怖い」という生の告白は、二十二歳の見知らぬ弟子の前で初めて唇を通過した。
サラの目に、何かが変わったのが見えた。崇拝が後退し、代わりに、より深い何かが前面に出た。
尊敬。
崇拝と尊敬は似ているが異なる。
崇拝は距離を必要とし、尊敬は接近を許す。
「でも、やるんですね」
「ええ、怖くても」
「なぜですか」
エレナは窓の外を見た。マルセイユの港が夕日に染まっている。自由落下で三・六四秒先の海面が、オレンジ色に光っていた。
「まだわからない。わかったら教える。ずっとわからないかもしれない。」
正直の層。防御の向こう側にある、むき出しの不確実性。なぜ自分はスタントを続けるのか。恐怖があり、身体が衰え始め、母が記憶を失い、それでもなぜ。
答えはまだ、八十九秒先の空間のどこかにあった。
ガラスの壁の向こうに。




