第四章 バランスボードの上で――失い続け、取り戻し続ける朝
マルセイユに滞在して十日が経った。
エレナは母の家の客間に簡易の作業スペースを設け、「究極のスタント」の準備と母の介護を並行して進めていた。ノートパソコンの画面には候補となるビルの構造図面、風洞シミュレーションの結果、ワイヤーの張力計算が並んでいる。
もう一つの画面──母の生活スケジュール──は、紙に手書きで作った。七時起床、八時朝食、十時体操教室、十二時昼食、十四時休息、十六時散歩、十八時夕食、二十一時就寝。すべてを時間軸に配置し、各タスクにチェックボックスをつけた。
プロジェクト管理。
エレナが最も得意とする形式。
しかし認知症の初期兆候は、プロジェクト管理のフレームワークに収まらなかった。
火曜日。母が体操教室から帰ってきて、「今日は楽しかったわ」と言った。三十分後、「今日は教室に行けなくてごめんなさいね」と言った。エレナは訂正しなかった。訂正すれば母が混乱する。混乱は不安を生み、不安は症状を悪化させる。認知症ケアの基本原則──否定しない、訂正しない、本人の現実に寄り添う。
エレナはその原則を知識として理解した。しかし「寄り添う」とは何か。物理的に隣にいること? それなら座標の問題だ。感情的に共鳴すること? それは、エレナが最も不得手とすることだった。
木曜日。母がキッチンで古いフォトアルバムを見ていた。エレナが覗くと、自分の幼少期の写真。三歳のエレナがバク転をしている瞬間を捉えた写真。ナディアが「この子、誰だったかしら。うちの教室の生徒かしら」と呟いた。自分の娘を、生徒だと思っている。エレナの喉が収縮し、声帯が一瞬閉鎖された。声が出なかった。
「ママン、それは私よ」
「あら、そう? 確かにあなたに似ているわね」
似ている。
母にとって、写真の中の三歳の少女と、目の前の三十五歳の女性は、同一人物として接続されていなかった。時間軸が断裂している。記憶の連続性が、ところどころで途切れている。
エレナはアルバムを閉じ、母にお茶を淹れた。手順。湯を沸かす。ティーバッグを入れる。三分待つ。砂糖を半分。手順があれば、感情を通過させずに行動できる。
金曜日。医師の予約を取った。リュカの助言通り、リュカから勧めてもらったところ、母は抵抗なく承諾した。リュカの「大丈夫、念のためだから」という穏やかな一言が、エレナが三日かけて組み立てた論理的説得よりも効果があった。
その事実が、エレナの中の何かを軋ませた。
自分より、リュカの方が母に近い。物理的にも、感情的にも。
十五年のあいだに形成された信頼関係の蓄積。それはスタントの準備と同じだ──何百時間もの地道な反復が、一瞬の成功を支える。リュカは何百回もの日曜日の訪問で、母との信頼を築いた。エレナは何百回ものスタントで、世界との距離を広げた。
土曜日の朝。エレナはトレーニングのために港湾地区を走った。
マルセイユの旧港沿いのランニング。足が石畳を踏むたびに、衝撃が脛骨を伝わり膝関節で吸収される。右膝の金属プレートが、気温の変化に反応してわずかに存在を主張する──冷たい朝は膨張係数の差異で周囲の骨組織との間に微細な圧力差が生じる。金属と骨。異なる物質が一つの関節の中で共存する。身体は純粋なものではない。修理された痕跡を内包した、混成物としての身体。
走っていると、候補ビルの一つが見えた。港湾地区の再開発エリアに建つ二十二階建ての商業ビル。もう一つの候補は、約百八十メートル離れた二十階建てのオフィスビル。この二棟の間にワイヤーを張り、中間地点から海に向かって落下する。海上のネットまでの距離は約六十五メートル。自由落下で三・六四秒。
ワイヤーの高度は海面から約七十メートル。横風のパターンはビル間の渓谷効果で複雑化する。地上の風速が五メートルでも、ビル間では十五メートルに増幅される可能性がある。さらに、地中海の風は内陸部と沿岸部で日較差のパターンが異なり、ミストラルの季節には予測不能な突風が発生する。
これらのデータを、彼女は走りながら処理していた。身体の一部が地面を蹴り、別の一部が空中の問題を計算する。エレナの脳は二重処理に最適化されていた。身体の運動と思考の運動を同時に走らせる。
しかし今日、第三の処理が割り込んできた。
母の顔。「この子、誰だったかしら」と呟いた母の顔。その記憶が、ランニング中の呼吸リズムに干渉した。吸気が一瞬だけ延長し、走行ペースが一キロあたり四秒落ちた。身体が感情を検知している。データとして処理できない種類の感情を。
エレナは速度を上げた。心拍数を百五十に引き上げ、酸素負債の領域に入った。乳酸が筋肉に蓄積し始めると、思考の帯域が狭まる。身体の苦痛が意識の容量を占め、母の顔が後退する。
高強度の運動による感情の退避。これが彼女の対処法だった。スタントの外でも。
港の端まで走り、折り返した。防波堤が見えた。子供の頃、リュカと座った場所。石が朝日を吸って微かに温かくなり始めている。
防波堤の上に、人影があった。
リュカだった。
早朝のランニング中に偶然出会ったというには、彼の姿勢はあまりに静かだった。座って海を見ていた。コーヒーのテイクアウトカップを持ち、もう一つのカップが隣に置いてあった。
偶然ではない。
エレナは走る速度を落とし、歩き、防波堤に近づいた。息が荒い。心拍百六十二。汗が額から流れ、こめかみを伝い、顎から落ちた。
「座って」
リュカが隣のカップを指した。
「なぜここにいるの?」
「毎朝ここでコーヒーを飲むんだ。犬の散歩のついでに」
足元に、中型の雑種犬が寝そべっていた。茶色い毛並みの穏やかな犬で、エレナの接近に対して尻尾をゆっくり振ったが、立ち上がりはしなかった。
「この犬は?」
「コスモ。三年前に保護した。後ろ脚の一本が不自由で、引き取り手がなかった」
エレナは防波堤に腰を下ろした。石の表面が太腿の裏に冷たく触れた。走行後の体表温度と石の温度の差異──約十四度。汗が蒸発し、皮膚表面の温度が急速に下がる。
リュカがコーヒーを渡した。受け取るとき、指先が触れた。刹那の接触。リュカの指の温度は体表温度としては高めで、手術中に血流が集中する指先の毛細血管が発達しているのだろう。エレナの汗で冷えた指に、その温度差が、わずかな刺激として登録された。
コーヒーを飲んだ。温かい液体が食道を通過する感覚に、走行後の体温調節が重なる。内部から温められ、外部から冷やされる。二つのベクトルが皮膚の下で交差する。
「ナディアのこと、心配だろう」
リュカは「心配?」とは聞かなかった。「心配だろう」と断定に近い形で聞いた。質問の形をした共感。
「対応できる。スケジュールを組んだ。医師の予約も取った」
「それは聞いたけど、僕が聞いているのはそうじゃない」
エレナはコーヒーカップを両手で包んだ。陶器の温度が掌に伝わる。この温度を数値で特定することは可能だ。しかしリュカが聞いているのは数値ではない。
「恐怖はデータ、ってママンが教えてくれた」
「覚えてるよ。ナディアの口癖だったから」
「そのママンが、データを失い始めている。記憶というデータを。私に恐怖の扱い方を教えてくれた人が、恐怖をデータに変換するためのデータベースを、失い始めている」
自分の口から出た言葉に、エレナ自身が驚いた。これはメタファーだ。感情をメタファーで語っている。つまり、直接言えない何かがある。
リュカは黙っていた。沈黙を埋めなかった。海風が二人のあいだを通過し、コスモの耳が風に揺れた。
「怖い」
その言葉が、防衛の層を全部すり抜けて、唇から出た。皮肉も、沈黙も、メタファーも経由せずに。
エレナは自分の声に違和感を覚えた。この声は管制に応答する声でも、メディアに対応する声でも、スタントの最中のガラスの壁の向こう側の声でもなかった。これは、ほとんど聞いたことのない声だった。
リュカはやはり黙っていた。しかしその沈黙の質が変わった。聴いている沈黙。空間を空ける沈黙。エレナの「怖い」がもう少し広がることを許す沈黙。
「成層圏から落ちるより怖い。だって制御できないから」
「うん」
それだけだった。リュカは分析も助言も共感の言語化もしなかった。「うん」と言った。それだけだった。しかしその「うん」の中に、エレナの言葉を受け取ったという事実だけが、静かに存在していた。
コスモがエレナの足許ににじり寄ってきた。後ろ脚の一本が不自由な犬。三本の脚でバランスを取りながら、エレナの足首に鼻先を近づけ、嗅いだ。犬の鼻の湿った冷たさが、ランニングシューズの上から皮膚に到達した。
エレナは犬の頭に手を伸ばし、触れた。柔らかい毛。体温。呼吸による胸郭の膨張と収縮が掌を通じて伝わってくる。生きているものの脈動。エレナの日常に、こうした温度と脈動は不在だった。
「三本脚でも走れるの?」
「走れるよ。速くはないけど、嬉しそうに走る」
その言葉は犬のことだけを語っていたのかもしれない。しかしエレナには、それ以上の何かが聞こえた。完全でなくても走れる。速くなくても嬉しい。それは、エレナの価値体系──完全な制御、最高の精度、極限の達成──とは異なる論理だった。
太陽が港の上に完全に昇った。光が水面で砕け、無数の小さな輝点になった。エレナはその輝点の一つ一つを視覚系が処理するのを感じながら、リュカの隣で、防波堤の石の温度が上がっていくのを太腿の裏で感じていた。
「究極のスタント、本当にやるの」
リュカの声に判断はなかった。肯定も否定も。純粋な質問。
「やる」
「マルセイユで?」
「ええ、ここで」
リュカは海を見た。港の向こうに、候補のビルが見えている。二十二階建てと二十階建て。約百八十メートルの距離。その間の空間を、エレナは歩き、落ちる。
「屋根を歩いていた頃と、何が違うの」
エレナは一瞬止まった。十二歳の夜の屋根。あれは逃避だった。家庭の息苦しさからの。高所でのみ得られる完全な現前への依存。今の自分は──。
「あの頃は逃げていた。今は……」
文が完成しなかった。「今は逃げていない」と言い切る自信がなかった。母の記憶の喪失から。右手の震えから。感情から。「究極のスタント」への没入は、これらすべてからの逃避ではないのか。
リュカはその未完の文を、補完しなかった。宙に残した。エレナ自身が、いつか完成させるために。
コスモが欠伸をした。犬の口腔が開き、湿った息がエレナの手の甲に触れた。温かい。生きている温度。
「行かなきゃ。ママンの朝食を準備する時間」
「うん」
エレナは立ち上がった。防波堤の石から体を離すとき、太腿の裏に石の温度の残像が残った。身体は接触の記憶を保持する。石の温度。犬の毛の温度。そしてコーヒーカップを渡されたときの、指先の刹那の接触の温度。
歩き始めてから、振り返らなかった。
しかし背中に、リュカの視線を感じていた。それは圧力として検知可能な視線ではなかった。物理的な計測ではなく、皮膚の下の、名前のない受容器が拾う信号。追いかけてこない視線。ただ、そこにある視線。
エレナは母の家に向かって歩きながら、左手首のブレスレットに右手の指先を触れた。革の温度。〇・八グラムの重み。
制御できるもの。まだ――。




