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【女性スタントマン短編小説】落下の法則 ── La Loi de la Chute  作者: 藍埜佑


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第十四章 地面にて――手を離し、重力に身を委ね

 ネットから降りるとき、足裏が最初に触れたのはボートの甲板だった。


 木製の甲板。表面が潮風で僅かに膨張し、繊維が立っている。スタントシューズの薄い底を通じて、木の温度と質感が足裏に到達した。ワイヤーの金属とも、ネットの繊維とも、空気とも異なる──固体の、安定した、動かない表面。地面に近い何か。


 レスキューチームが手を差し出したが、エレナは自力でボートに降りた。脚が震えていた。振戦ではない。三・七八秒の自由落下と着地の衝撃を吸収した大腿四頭筋が、乳酸の蓄積と微細な筋繊維の損傷を報告していた。正常な疲労反応だ。


 ボートが岸に向かった。

 マルセイユの港。朝の光が海面に反射し、水面が無数の小さな鏡面になって空を映していた。エレナは船尾に座り、遠ざかるネットと、その上空にまだ見えるワイヤーを見つめた。


 あの上を歩いた。

 あそこから落ちた。


 身体はまだ落下の残響を保持していた。内耳の前庭器官が「水平」を再確定するのに、着地後数分を要する。世界がまだわずかに揺れている。あるいは、揺れているのはボートであり、エレナの知覚が通常に戻りつつあるのかもしれない。区別がつかない時間帯だ。


 岸が近づいてくる。港の桟橋に人が集まっている。

 スタッフ、メディア、そして──


 人の群れの中に、一つの静止点があった。


 リュカが立っていた。


 桟橋の端。群衆の最前列ではなく、少し後方。走ってきたりしない。押し寄せたりしない。ただ、立っている。両手を体側に下ろし、少し前傾した姿勢で。風が彼の髪を揺らしている。


 ボートが桟橋に接岸した。ロープが結ばれ、タラップが渡された。マークが手を差し出し、エレナは桟橋に降りた。


 足裏が、石の桟橋に触れた。


 マルセイユの石。

 この町の石。

 二十七年前に父が落ちた港の石。

 十二歳の夜に裸足で歩いた屋根の石と、同じ地層から切り出された石。


 地面。


 メディアが殺到した。マイクとカメラが差し出され、質問が飛び交った。


「エレナ! 成功おめでとうございます! 今の気持ちは?」


「史上初の複合スタント達成、どのような感想ですか?」


「次の計画は?」


 エレナは微笑んだ。顔の左側が右側より〇・二秒先に動く、いつもの非対称な笑顔。


「荷物が少ないほうが、速く落ちるの」


 いつものセリフ。

 防衛の第一層。

 メディアはこのフレーズに慣れていて、笑いが起きた。


 しかし今日は、第一層の下に、いつもの空洞がなかった。いつもは皮肉の下に沈黙があり、沈黙の下にようやく正直がある。今日は、皮肉の直下に正直があった。壁が薄くなっていた。


「すみません。少し、一人にさせてください」


 メディアが道を開けた。マークが間に入り、取材をさばき始めた。エレナは群衆の間を通り抜けた。


 リュカが立っている場所に向かって。


 彼は動かなかった。追いかけず、引き留めず。ただ、そこにいた。


 距離が縮まっていった。十メートル。五メートル。三メートル。一メートル。


 エレナはリュカの前に立った。


 二人のあいだの距離は、〇・五メートル。防波堤の夜と同じ距離。しかし今、二人のあいだには石の防波堤はなく、ただ朝の空気だけがあった。


 リュカの目がエレナを見ていた。その目の中に、恐怖の痕跡があった。数分前まで、彼はエレナが七十メートルの高度から落下するのを見ていたのだ。父マルコと同じ恐怖。愛する人間が落ちることへの、制御できない恐怖。


 しかしリュカの目の中には、恐怖だけでなく、別のものもあった。それは──安堵と言うには強く、歓喜と言うには静かな、名前のない光。


 エレナが地面に立っていること。

 今、ここに、無事で立っていること。

 それを確認した目の光。


()()


 唐突に、エレナが言った。


 スタントのことではなかった。七十メートルの落下のことでも、ワイヤーの上の横風のことでも、右手の振戦のことでもなかった。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 この〇・五メートルの距離を越えることが。

 制御を手放すことが。

「ガラスの壁」なしで、誰かの前に立つことが。


 リュカが微笑んだ。

 いつものデュシェンヌ・スマイル。

 目の周囲の筋肉が完全に収縮する、嘘のない笑顔。


()()()()


 彼は知っていた。エレナの「怖い」がどこから来ているのかを。成層圏の高さからではなく、〇・五メートルの距離から来ていることを。三万九千メートルの落下より、この一歩のほうが怖いことを。


 リュカが手を差し出した。


 右手。大きな手。傷ついた生き物を縫合する手。母の買い物を手伝う手。十三歳の夜に屋根の上で震えていた手。コーヒーを淹れる手。エレナの右手を両手で包んだ手。


 掌を上にして、差し出された手。


 エレナはその手を見つめた。


 自分の右手を見た。今日、ワイヤーの上で震えた手。カラビナを震えながら操作した手。バランスポールを握り、空気を彫刻した手。二十年間、極限を追い、限界を更新し、空を支配してきた手。そして今、末梢神経の損傷を抱え、いつ震えるかわからない手。


 父の手が浮かんだ。クレーンを操作した手。事故後、動かなくなった手。革のブレスレットを娘の手首に巻いてくれた手。


 母の手が浮かんだ。バク転を教えた手。体操の生徒を支えた手。記憶を失い始めた脳の中で、まだ握る力を残している手。


 サラの手が浮かんだ。ギプスに覆われた手。六週間後には再び空に伸びるであろう手。


 そしてリュカの手。

 ()()()()()()()()()


「手」はずっと語り続けてきた。

 極限を追う手と、修復する手。

 震える手と、震えながらも止めない手。

 掴む手と、離す手。

 差し出す手と、受け取る手。


 エレナはついに、リュカの手を取った。


 接触。


 リュカの掌の温度が、エレナの掌に到達した。三十三度前後。安定した温度。エレナの掌は冷たかった。落下後の末端循環の低下。冷たい手が、温かい手の中に入った。


 指が絡んだ。リュカの長い指が、エレナの指のあいだに入り込み、手の甲の骨の間の谷間を埋めた。二つの手が一つの構造物になった。


 エレナの右手は震えなかった。あるいは震えていたのかもしれないが、リュカの手がそれを包含していて、振戦は二人の掌のあいだに吸収された。


 リュカの手の中で、エレナは別の振動を感じた。リュカの脈拍。橈骨動脈の拍動が、掌の接触面を通じてエレナの掌に伝わっていた。一分間に八十八拍。リュカもまた、平常時の心拍を超えていた。


 二人の心拍が、掌を通じて干渉し合っていた。同期はしていなかった。完全な同期は、生きている二つの身体のあいだでは起きない。しかし、同期していないことが、二つの独立した生命が同時にここにあることの証明だった。


 エレナの目が、リュカの目を見ていた。まばたきが少ない目。高所での訓練で身についた習慣。しかし今、まばたきが少ないのは訓練のためではなく、この瞬間を見逃したくないからだった。


 リュカの目。茶色の虹彩の中に、マルセイユの朝の光が反射していた。海の光と空の光が、彼の瞳の中で混ざっていた。


「リュカ」


「うん」


「屋根の上であなたの手を引いたのは、あなたを安全な場所に降ろすためだった」


「うん」


「今は──」


 エレナは言葉を探した。今度は防衛ではなく、正確さのために探した。正しい言葉を。感情を身体現象で語るのではなく、感情をそのまま手渡す言葉を。


「今は、あなたの手に引かれている」


 リュカの指が、エレナの指をわずかに強く握った。力は一ニュートン程度の増加。しかし意味は無限だった。


「上にでも、下にでもない」


 エレナが続けた。


「ここに。地面に」


 地面。

 母が言った場所。

 一番大事なものがある場所。


 リュカが頷いた。言葉は少なかった。彼はいつも、言葉が少なかった。しかしその少なさは空虚ではなく、凝縮だった。言わない言葉が、握った手の温度に変換されていた。


 マルセイユの朝が、完全に明けていた。太陽が港の上に昇り、石造りの建物群が白く輝いていた。海が光を反射し、空が青く、風が潮の匂いを運んでいた。


 桟橋の上で、エレナとリュカは手を繋いだまま立っていた。二人のあいだの距離は、もうなかった。〇・五メートルが消失し、掌と掌が接触し、温度が交換されていた。


 メディアのカメラが遠くで回っていた。マークがスタッフを指揮していた。海上のネットが回収され始めていた。ワイヤーはまだ二つのビルの間に張られたままで、朝日を反射して銀色に光っていた。


 エレナは空を見上げた。


 たった今、自分が落ちてきた空。

 歩いた空。

 成層圏の黒を知った空。

 音速を突破した空。


 そしてその空は、今、マルセイユの平凡な青だった。特別な何かではない。毎朝、この町の上にある空。リュカが犬の散歩をするときに見上げる空。母が体操教室に向かうときに仰ぐ空。父が車椅子の窓から眺める空。


 エレナは初めて、その()()()()()()()()()()()()()


 成層圏の黒よりも。

 音速の沈黙よりも。

 完全な現前の孤独よりも。


 リュカの手を握ったまま、空を見上げている自分の足が、マルセイユの石の桟橋の上にあることを感じていた。足裏の母趾球と第二趾の付け根の間──ワイヤーの上と同じ一点──が、石の表面に触れていた。しかしその一点にかかる荷重は、ワイヤーの上のそれとは異なっていた。ワイヤーの上では、その一点に全存在が凝縮される。地面の上では、その一点から存在が周囲に広がっていく。


 空を見上げていた目を、地面に降ろした。


 石の桟橋。マルセイユの地面。


 そして隣に立つ人の横顔。


 リュカが海を見ていた。穏やかな目。動物の心拍を聴くときの目。世界の微かな振動を聴き取ろうとする目。


 エレナは、この瞬間を、数値に変換しなかった。心拍を計測しなかった。呼吸数を数えなかった。気温も、風速も、手の温度差も、何も測定しなかった。


 ただ──()()()()()


 不完全な身体で。

 震える手で。

 損傷した左耳で。

 記憶を失い始めた母を持つ娘として。

 事故で落ちた父の子として。


 そして、リュカの手を握っている女として。


 制御を手放すことは、落下なのか、それとも飛翔なのか。


 その問いに、エレナはまだ答えを持っていなかった。しかし、答えを持たないまま地面に立っていることが、もう耐えられないことではなくなっていた。


 落下の法則。


 手を離し、重力に身を委ね、着地を信じる。


 物理的な落下も、感情の落下も、同じ法則に従っている。


 エレナは空を見上げた。

 もう一度。

 彼女がたった今、落ちてきた空を。


 それから、空ではなく、地面にいることを選んだ。

 リュカの手の温もりを感じながら。


 左耳が、マルセイユの朝を、少しだけ柔らかく聞いていた。精密さが欠落した場所に、何か別のものが入り込んでいた。


 それはそれだけいい、名前をつける必要のないものだった。


(了)

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