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栄弥荘の魔女  作者: 石垣日暮
第1章 ファースト・ウィッチーズ
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サオトメ・メイ


 明に捕らわれた後、イヌガミは彼女に言われるがまま、近くにあった公園のベンチに腰を下ろす。イヌガミが座ったことを確認した後、そのすぐ横に明が腰を下ろした。


「…………」


 ベンチに座ってしばらく、明は何も喋らなかった。気になって、明の方をちらりと見る。顎に手を当て、何かをじっと考えている彼女の姿があった。


「早乙女……さんは、ハーフか何か、なん……ですか?」


 沈黙に耐えられずイヌガミが漏らすと、澄んだ瞳がぎろりと動いて、こちらを見据えた。


「……タメ口で良いわよ」溜息交じりに前置きした後、明がゆったりと胸を張った。


「まあね。父が日本人で、母がヨーロッパ人…………今は、トルコに住んでる」

「トルコ? 何だってそんな遠くからはるばる日本まで……」


 というか、何で栄弥荘に。イヌガミの疑問に対し、明が躊躇するように顔を俯ける。絹糸のような髪を前に垂らし、しばらく思案した後、ゆっくりと顔を上げた。


「……ちょっとね、殺人事件の捜査に」

「さ、殺人?」


 穏やかでないその響きに、聞き間違いを疑ったイヌガミが再び訊ね返す。


「そう、連続殺人事件。被害者の一人が私の姉でね。その真相を探るために、この街に来た」


 いよいよイヌガミの眉根が寄る。この町で殺人事件が起こっているなんて聞いたことがない。


「……じゃあ、一昨日ビルから落ちてきたのは……?」


 イヌガミが訊ねると、明の顔が見る見るうちに赤くなった。


「いや……その……捜査中に足滑らせて…………そのまま」


 転倒したと。もじもじと落ち着かない動きを見せた後、消え入るような声でそう言った。


「め、めちゃくちゃドジだな……」

「うるさいっ」


 口をついて出たイヌガミの本音に、明が声を荒げる。唇を戦慄かせながら、イヌガミの方をピンと指さして詰め寄って来た。


「あんたっ! あの時のこと誰にも言ってないでしょうね!?」

「い、言ってない……」

「本当に?」


 念押しする。威圧しているつもりなのだろうが恐ろしさはなかった。それが羞恥心を紛らわせるためのパフォーマンスだということは、イヌガミの目からも明白だった。


『誰にも言うな』 今となっては、あの言葉も単なる照れ隠しだったのではないかと思える。


「というか、なら、昨日うちに来てたのも調査の一環なのか」


「……栄弥荘に行ったのは、そう。でも、あんたがあのアパートにいたのは、偶然」


 何の気なしに尋ねたつもりだったが、ここで明の表情が変わった。


「あのアパートね、一年前、私と同じように殺人事件の捜査に来ていた姉が、最後に住んでいた場所だったの。昨日私がお邪魔したのは、生前の姉の手がかりを探すため。そして、皆さんに話を聞いていたら、一年前からあそこに住んでるのはイヌガミってやつだってことを知った」


 それで、そのイヌガミとやらが帰ってくるのを待っていたところ、満を持して登場したご本人は、昨晩ビルから転落した自分を受け止めた少年その人だった、という流れである。


「言っとくが、俺にもその……お前のお姉ちゃん? と面識はないぞ。俺は越してきたのがちょうど一年前だから、入れ違いになったんじゃないか?」


 そこまで言って、明がこちらの顔を覗き込んで凝視しているのに気づいた。息を呑む。琥珀のように美しい光を放つ双眼に捕えられて、何故か緊張してしまっている自分がいた。


 な、なんだよ。言い返そうとして、その前に明が口を開いた。


「……あんた、何者なの?」


 風が吹いて、植え込みの金木犀が揺れる。カサカサと乾いた音が、二人きりの公園に響いた。


「いきなり、何だ……」


「……あの夜ね……私はビルの五階から落ちてたの」


 言って、徐に息を吸った。朝陽が雲の影に隠れて、辺りが西から順に暗くなる。


「……高さ十数メートルからの自由落下。それを受け止めるとなると、一瞬でも五〇〇キロを超える衝撃に耐えないといけない。普通の人間にそんなこと出来ると思う?」


「……………………」


「私ね、魔術師なの」


 突拍子もない言葉に、イヌガミの顔が上がる。


「……頭でも打ったんか?」


「正気よ。逃げてる時、あんた、いきなり足動かなくなったでしょ」


 生唾を呑む。


「そういう魔術なの。物体の状態を変化させる魔術。あんたの足元のアスファルトを一度液状にして、その後すぐに固めた。だから、あんたの足裏は地面に引っ付いたってわけ」


 バカな。そう言おうとして声が出ない。明の黄金色の双眸が、こちらを凝視して離さなかった。まるで、一挙手一投足、微妙な表情の変化まで見逃さないとでも言わんばかりである。


「さっき話した連続殺人事件……その犯人も、魔術師と同じく特別な力を持っていて、日本の警察じゃ解決どころか認知すらできない。だから、私たち魔術師が代わりに捜査してるの」


 言って、明が言葉を区切った。見つめ合う。二人とも、微動だにしなかった。


 木々の擦れる音、鳥の飛び立つ音、通勤通学途中の人々の喧騒。その全てが、世界の隅に追いやられてフェードアウトしていく。辺りは、時間が止まったみたいに静かだった。


「……なかなか、想像力が豊かなんだな」


 先に沈黙を破ったのは、イヌガミ。


「ふざけないで、私は……」

「で、俺を疑ってるわけか。俺が、普通じゃない……特別な力を持った犯人なんじゃないかと」


 言うと、明はイヌガミから目線は逸らさないままに、ゆっくりと頷いた。


「そう思ってた……けど、今あんたと接してみて、必ずしもそうじゃないんじゃないか、って」


 明が顔を俯ける。ようやくイヌガミも、彼女の視線から解放される。


「ねえ、私は私のこと、正直に話した。だから、あんたも洗いざらい全部話して。そうすれば」


「……疑惑が薄すぎだ」


 イヌガミがポツリと呟いた。その意味を掴みかねている明を置いて、イヌガミが続ける。


「もし、今の早乙女の話が本当だったとして、魔法使いなんだろ? 何らかの方法で体を軽くしたり、衝撃を緩和したり出来たのかも知れない。箒に乗って空飛んだりなんてことも……」


「それ、は……」


「それに、あの時は真夜中で、周りに明かりもほとんどなかった。早乙女はビルの五階から足を滑らしたつもりが、実は二階でしたって可能性もない訳じゃないだろう」


 言われて、明はずっと何か言いたげだったが、明確な否定の言葉は最後まで出てこなかった。


「……じゃあ、あんたは」

「はいっ、悪ノリはそこまでっ。今の話は思春期特有の中二臭い設定と台詞ってことにして忘れてやるから、もう他の誰かに公言したりするんじゃないぞー」


 イヌガミが手拍子をして立ち上がる。太陽がいつのまにか顔を出し、辺りを照らしていた。


「嘘じゃないっ、私は……って、どこ行くのよ!」


 明が気づいた時には、イヌガミは鞄を持って、公園の出入口に向かって駆け出していた。


「学校があるんだよっ! もうそろそろ急がないと遅刻しちまう!」

「ふざけんな! まだ話は全然終わって……」


 明が言い終えるのを待たずに、イヌガミは公園を出た。そのまま逃げるように公園を出る。


 正直、勘弁してほしかった。明の話が本当であれデマカセであれ、平穏そのものである今の生活を邪魔されるのは何としても避けたい。まして、殺人の冤罪などまっぴらである。



──命大事にね。



明から逃げる途上、ふと、懐かしい声が脳裏をよぎった。


「…………まさかな」


 徐々に駆け足を緩め、元来た道を振り返る。明は追いかけて来ていなかった。


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