待ち伏せ少女
「行ってきます……」
十国たちにそう言い残して、今日も今日とて学校に向かう。足取りは重かった。一歩踏み出す度、頭蓋の中を脳が浮遊しているような錯覚が襲う。明らかに寝不足だった。
『『あああああああああああああああっ!!』』
昨晩聞いた二人分の絶叫は、今も鼓膜にこびりついてこだましている。
結局あの後、二人が会話を交わすことはなかった。お互いにぎこちない態度を散々見せつけた後、最後は明が急用を思い出したとか言って、逃げるように帰って行ったのだった。
何を、しに来たのだろうか。
あの夜の口封じ。
真っ先に思いついた来訪理由に、イヌガミがぶるりと身を震わせる。ビルからの転落が彼女にとって知られたくない秘密であったなら、それもあり得る話だった。
……いや、考え過ぎだろう。
それなら、イヌガミを見た後の、彼女のぎこちない態度の説明がつかない。あれは完全に、イヌガミが栄弥荘にいることを想定していなかった者の反応だ。
昨晩布団の中で散々思案したことが、相も変わらず頭の中をぐるぐると回る。
悶々としながら栄弥荘の敷地を出ようとしたその時、ふいに若い男の声が聞こえて来た。
「君、すごい可愛いね。ハーフか何か?」
顔を上げる。大学生くらいの男が複数人、道脇で若い女を囲み、熱心に話しかけていた。
「今から俺ら遊びに行くんだけどさ。暇だったら一緒にどう? ってか、日本語分かる?」
ナンパだ。朝っぱらから精が出るものだと感心しながら、耳を澄ませて女の反応を探る。
「ねえ、どうせ暇なんでしょ? 良いじゃん。ちょっとだけだって。アフューミニッツ」
「……暇じゃない」
「え……?」
「暇じゃないって言ってんの」
突然、沈黙を破った女の、ぴしゃりと言い捨てる声がした。
「黙って聞いてりゃ、私が暇とか決めつけて……失礼よ。分かる? し、つ、れ、い」
突然流暢に話し始めた女に、大学生たちが一転、明らかに尻込みし始める。
「そもそも、初対面の人と話す時は名前を名乗るのが礼儀ってもんでしょ。あんた、名前は?」
「……え、あ……錦山大学一回生……豊田海斗と言います」
「よろしい」
「えと……き、君の名前は……」
「は? 何で私が名乗らなきゃいけないのよ」
「そ、そんなぁ……」
困っている風だったら何とか助けようと思ったが、この様子なら大丈夫そうだ。苦笑しつつ、ナンパ師に説教をかますような骨太女のご尊顔を一目見てやろうと、イヌガミが首を伸ばす。
「……ひゅっ」
瞬間、横隔膜が一気に収縮する。悲鳴にも似た吐息が漏れた。
早乙女明。ナンパ学生に囲まれ、昨晩の来訪者は赫々としてふんぞり返っていた。
「……あ」
そして明の方もイヌガミの存在に気づく。山吹色の大きな瞳が、こちらの姿を捕捉した。
「…………」
しばらく真顔で視線を交わし合った後、先に動いたのはイヌガミであった。硬直したまま転回し、何とか明に背中を向けると、瞬間、エンジンをふかしたように一気に走り出す。
「あ! 待て!!」
待ち伏せされていた。栄弥荘の前で、早乙女明はイヌガミが出てくるのを待っていたのだ。
であれば、やはり口封じだ。あの夜のことを口外されないために、自分を殺しに来たのだ。そう思ったが最後もう止められなかった。イヌガミは一心不乱にその場から逃げ出していた。
しかし、そのまま五〇メートルほど駆けた頃、順当に回していた足が突然動かなくなる。
「……!?」
比喩ではない。両足裏がまるでアスファルトと一体化したように、全く浮き上がらなくなった。前方向に働いていた慣性は行き場を失い、前のめりになった体が地面と激突する。
「……ハァ……ハァ……捕まえた」
何が起こったのか全く分からず、イヌガミが目を白黒させているうちに、明が追い付く。背中を押さえつけられて、一瞬忘れていた恐怖心が再び覚醒する。
「うああああああああ! 殺さないでくれぇぇぇぇぇぇ!!」
「こ、殺さないわよっ!」
人聞きの悪いこと言うなっ、と一喝され、イヌガミが正気に戻る。へえ、と間抜けた声を出しながら亀のように首を後ろに捻ると、少女は困惑した顔でこちらを見下ろしていた。




