カイチョー
学校が終わった。
放課後間もない教室には、部活動の準備や友人と談笑をする生徒の姿がぼちぼち見られた。
そんな中、イヌガミは窓際の席に一人腰掛け、頬杖を突く。帰って夕飯の支度をしなければ。そう思うけれども、窓から流れ込んでくる春風は存外心地よく、なかなか動く気になれない。
外では水泳部がプールの中でバシャバシャやっている。まだ夕方は肌寒い季節だが、五月に地区予選を控える水泳部の為に、本校では一足早いプール開きが為されていた。
機能性の高そうな水着に身を包んだ女子部員が、機械でも埋め込まれているのかと思えるほど規則的な水かきで推進する。その姿を目で追いながら、頭では全く別のことを考えていた。
──誰にも言うな。
昨晩の話。廃ビルから落下してきた女の子を、ギリギリのところで受け止めたイヌガミが、真っ先に浴びせられた言葉が、それだった。
「……は?」
さっきまで巾着袋のように身を丸め目と口を引き結んでいた少女が、自分が抱えられていることに気づいた途端イヌガミの腕から飛び降り、何事もなかったかのように毅然と命令してきたのだ。開いた口が塞がらないイヌガミをよそに、少女はビシッと人差し指を突き出して、
「は? じゃない。いい? 今起きたことは誰にも言わないこと。分かった?」
しゃらん、と、腰の長さまで伸びた、きめ細かい髪を靡かせる。一瞬だけ、車のライトで照らされた少女の顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。
少女の勢いに圧されて何も言えないイヌガミ。それをよそ目に、少女が踵を返す。
「え……あ、ちょっと」
イヌガミの制止に一瞥もくれずに、少女の姿はそのまま夜の街に溶けていった。イヌガミは、その後しばらくは狐につままれたような表情のまま、瞬きをすることしか出来ないでいた。
*
*
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陽光が目の高さにまで落ちてくる。網膜を西日に焼かれたことで、春空を徘徊していた意識が教室まで引き戻される。気が付くと、教室には人がいなくなっていた。
いつの間にか取り残されていたことに薄ら寒さを感じ、イヌガミがそそくさと帰り支度を始めた、そんな頃合いであった。何者かに肩を叩かれた。
人がいたのか。若干の違和感を覚えながらも、イヌガミが振り返る。
「いぃぃぃぃぃぬぅぅぅぅぅがぁぁぁぁぁぁみぃぃぃぃぃ…………」
飛び込んできたのは、ピエロの顔。
泥色に淀んだ肌からは眼球が飛び出し、血走った状態で小刻みに揺れていた。
「うぎゃああああああああああ!!」
飛び上がる。つま先立ちで教室中を跳ね回った後、黒板横のゴミ箱に頭を突っ込んだ。
「……アッハハ~、イヌガミ君面白過ぎ~」
ゴミ箱を被って震えているイヌガミの背後から、女子生徒のコロコロした笑い声が響く。
聞き覚えのあるその声音に、イヌガミが徐にゴミ箱を外した。
「……趣味悪ィですよ。会長」
「え~、女子水泳部の練習風景をいやらしい目で鑑賞してたイヌガミ君に言われたかないよ」
「うへ……違……」
あらぬ容疑を掛けられ、否定しようとあたふたするイヌガミを置いて、ピエロは徐にその仮面を外した。仮面の下から、小動物のような丸い瞳が覗く。
太陽を背に飼っているような人である。クリムゾンとでも呼ぶのだろうか、鮮烈な赤色の髪を後頭部てっぺんで一つ結びにし、我が校の生徒会長はいつにもまして輝きを振りまいていた。
「イヌガミ君、イヌガミ君。ちょっと頼みごとがあるんだよ」
「今日という今日は無理です。アパートの連中の飯作らないといけないんで帰ります」
あいつら俺の帰りが遅くなると心配するんすよ。そう言って、鞄を手に取りそそくさと退散しようとしたところ、会長にがっしりと腕を掴まれる。
「そう言うと思ったよ~。でも大丈夫! 栄弥荘の人たちには、私から連絡入れてあるよ!」
「いやもう本当に今回は……は?」
「やっぱり良い人たちだね~。私がお願いしたら、『そうですか……いやっほぅ! 今日は水道光熱費浮かし放題だ!』って喜んでたよ」
「その台詞のどこから〝良い人たち〟判定出したんですか!?」
本人に確認する前に家人に連絡を入れる会長の恐ろしさもさることながら、住人たちの堂々のインフラ泥棒宣言にイヌガミが目を剥く。
「会長、俺帰ります! 俺の部屋の水道光熱費を守るために戦います!」
「待って!」
呼び止められる。悲痛な響きに、会長を振りほどこうとする手が止まる。
「……生徒会、今、繁忙期なんだー。みんな、自分の仕事でいっぱいいっぱいなの。だから、緊急で入ったこの仕事を、みんなに手伝わせるわけには……いかないの」
ぽつりぽつりと、胸中を小出しにするような会長の語り口に、イヌガミがぐっと目を瞑る。
「他に手伝ってくれる人を探してここまで来たんだ。けどね、イヌガミ君の他に、もう誰も残ってないみたいなんだー。イヌガミ君しか頼れる人いないの。今、君に帰られると、私、一人で仕事を片付けなくちゃいけない……それは、すごく寂しいなって……」
分かっている。この人は一人が寂しいだとか、そんなことを気にする人ではない。
つまるところ演技だ。イヌガミの手を借りるために、わざと健気な少女を演じている。
構わず帰ればいい。言うことを聞く道理はない。別に自分はこの人に惚れているわけでも、何か個人的に弱みを握られているわけでもないのだ。
「そっか……イヌガミ君が無理なら、仕方ないよ、ね……」
無言で硬直するイヌガミに対し、会長の萎れた声が響く。力なく、掴んでいた手を離した。
「変なこと頼んでゴメンね。やっぱり、一人でやるね……何時間かかるか分からないけど……帰るのは深夜になるかも知れないけど……それでも、私、頑張るね」
「…………ッッッ」
当てつけのように捻り出された会長の言葉を聞いて、一瞬、その景色が脳裏を駆け巡る。
夜の校舎、人っ子一人いない部屋で作業を続ける、孤独に押しつぶされそうな小さな背中。
ありありと思い描けた。思い描けてしまった。
「~~~~ッッッ」
しゅんとして背を向ける会長を振り返る。イヌガミは咄嗟に、その腕を掴んでいた。
瞑っていた目を開く。イヌガミの顔は、梅干を口いっぱいに頬張ったように歪んでいた。
「ありがとう! そうだよねっ、それでこそイヌガミ君だよね!」
会長が振り返る。全てを見透かしていた少女は、心底嬉しそうに目を細め、そう言った。




