変人アパート・栄弥荘
「──スイちゃんや」
ちゃぶ台を挟んで向かいに座る少女に、十国が呼びかける。口調は老人然として温厚なものであったが、痛々しいたんこぶと内出血の跡を見れば、内心穏やかでないのは明白だった。
「あんた、そろそろイヌガミに依存するのやめにせんか。こんな穴なんか開けてみっともない」
自分も散々みっともない場所から出入りしておいて都合の良いものである。出来上がった卵焼きを皿に乗せながらイヌガミが内心呟いた。
「余計なお世話。依存というのならあなたたちも大概。毎日ご飯たかりに来るくせに」
「おーっと、『たかる』なんて表現は聞き捨てならんな。儂はちゃんとお金払ってるもんね」
「食材費分だけ。人件費が入ってない」
「う……どこでそんな言葉覚えたんじゃ……」
この頃から下の階がうるさくなってくる。ガチャガチャと扉を強引にこじ開けようとする音。時々聞こえてくるのは、舌打ちと癇癪を起こした声。
「おうおう。やっと帰って来たわい」
十国が呟くのと同時、玄関扉が壊れるのではないかと思うほどに激しく開く。
「イヌガミぃ! どういうことだこりゃあッ!」
男の怒声が部屋の中に響く。見ると、玄関の先に、見るからにガラの悪い男と、
『キャンキャンッ!』
小犬、三匹。それらが並んで立っていた。
「オレの部屋の鍵が開かないんだがッ!? お前何しやがったァ!?」
イヌガミが腰を落として身構えながら、ゆっくりと玄関の方に向き直った。
「……俺が代わりに鍵かけたんだよ。お前がいつも閉めずに犬の散歩行くから」
「何ィ!?」
頬についた古傷をクシャクシャにしながら、男がイヌガミを怒鳴りつける。通常のイヌガミなら間違いなく怯んでいるところであったが、
──キャンキャンッ!
呼応して吠える子犬三匹で何とか中和されていた。
「何勘違いしてんのか知らんが、お前にオレの部屋の鍵をどうこうする権利なんてねえんだよ」
「そりゃ、お前の部屋が空き巣の巣窟になろうが知ったこっちゃねえがな、お前の階には他にスイが住んでるんだ。それでもしスイの身に何かあったら、お前どう責任取るつもりだ」
「……起こってもねえこといちいち気にするバカがどこにいるってんだ! あァッ!?」
「……いいから、もう鍵開けたまま犬の散歩に出ませんって約束しろ。じゃなきゃ鍵は返さん」
「クソガキがァ! ビビりのチキン野郎の分際でイキがってンじゃねえぞ!! 分かってんだよなァ? オレがその気になりゃあ、お前みたいなガキ……」
「……お~い、その辺にしとけよ、コンドー。今回ばっかりはお前が悪いぞ」
居間に寝転んだままの十国が横やりを入れる。
「ジジイは黙ってやがれッ!! おい、イヌガミぃ……オレは絶対そんな約束しねえぞ。約束をすることが気に入らないんじゃない……オレがお前に屈したという事実が気に入らんッ!」
ガキか。顔を引き攣らせながら、台所に準備していたミニトマトを三つ手に取る。
「ほらっ、ムサシ! ヨイチ! シンパチ! こっちだ!」
イヌガミが呼びかけると、男の足元にいた三匹の犬が一目散に走り出した。ものの数秒でイヌガミの元に駆け付けると、カタカタと床を爪で弾きながら落ち着きなく跳ね回る。
「待て、待て、そう、良い子だ」
自分たちを散歩に連れて行ってくれた男にもはや目もくれず、尻尾をグルングルン振り回してイヌガミの手の中のトマトを見つめている。
その背後。愛犬たちの掌返しを唖然として眺めている坤堂の姿が目に入った。
「……てめぇ……汚ねえぞ……オレの犬を、人質に取りやがって……」
「へっ……もともと俺が拾ってきたんだもんねー」
この男の名は坤堂新月。おそらく二〇代前半。顔面についた無数の傷から言葉遣いに至るまで全てにおいてガラが悪いが、反面、極度の愛犬家であった。住んでいる部屋は一階の三号室。
「イヌガミ……お腹すいた」
子犬の足を布巾で拭ってやっていると、居間の扉からスイがヌッと頭を出す。
「ああ、悪い。今準備するからもう少し待っててな」
坤堂が面白くなさそうに舌打ちしつつ、ぞろぞろと靴を脱ぎ捨てる。そして、さも当然であるかのようにキッチンを抜け、居間にどっかり腰を下ろした。
* * * * *
柔らかな春の陽射しが差し込む中、一部屋に入れるギリギリの人数で食卓を囲む。
傍から見れば異常な光景であるが、栄弥荘にとってはこれが日常であった。
「なあ、イヌガミよお。卵焼きには砂糖を入れるのをデフォルトにせんか?」
「うるせー、しょっぱい方がご飯と一緒に食いやすいだろ。なあ、スイ」
スイが頷く。そら見たことかと十国の方を一瞥すると、十国が身を乗り出して喚いた。
「ご飯のお供は納豆で十分なの! 全く分かっておらんわ。これだから最近の若いのは……」
不服そうにぶつくさ言いながら、納豆のパックを乱暴に掻き混ぜる。
「おい、坤堂。お前はどうなんだ。甘いのか、しょっぱいのか」
十国に流れ弾を喰らい、坤堂は心底鬱陶しそうに視線を明後日の方向に向かわせた。
「どっちでも。強いて言うなら味付けなし。そうしたら犬も食べられる」
「論外じゃな」「論外だな」
坤堂の犬好きはブレない。イヌガミと十国で、初めて意見の一致が見られた。
「ま、何にせよ、二対一だ。ジジイは諦めて、しょっぱい卵焼きに甘んじてるんだな」
そう言い捨て、味噌汁を啜る。十国はしばらく不服そうにぶつぶつ言っていたが、しばらくして相手にされないことを悟ったのか、話題を変えた。
「あっ、そういやイヌガミ。お前、この間の学校検診、大丈夫だったのか?」
十国の唐突な問いかけに、イヌガミが怪訝な表情をすると、老人は呆れたように息を吐いた。
「心臓だよ、心臓。二つあること、バレなかったのか?」
あまりにもあけすけに訊いてくるので、少々面食らってしまう。
「……まあ、うん。大丈夫だったよ」
気を取り直して頷く。十国は「ふーん」と喉を鳴らした後、それ以上の追及はしなかった。
「イヌガミ」
軽い沈黙が続いた後、今度はスイが口を開いた。
「昨日の夜、どこ行ってたの?」
卵焼きを突こうとした箸が止まる。
「何じゃイヌガミ、お前夜出かけとったんか」
「……ああ、まあ、ちょっとな……野暮用があって」
──誰にも言うな。
「……? どうした? イヌガミ」
十国に呼びかけられて、ハタと顔を上げる。無意識のうちに体がフリーズしていたらしい。
「いや、……何でもない」
そう言うと、イヌガミはさっきまでの遅れを取り戻すかのように勢いよくご飯をかき込み、麦茶で一気に流し込むと、ちゃぶ台を叩いて立ち上がった。
「何じゃ、もう行くのか?」
箸を舐めながら首を傾げる十国に背を向け、イヌガミが空の食器をシンクにぶち込む。掛けてあった学ランを羽織ると、カバンを持って玄関に向かった。
「ああ、行ってきます」
「んあ、気を付けて行って来いよ」
十国の声に背を押され、イヌガミは逃げるように栄弥荘を飛び出した。




