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栄弥荘の魔女  作者: 石垣日暮
第1章 ファースト・ウィッチーズ
2/8

落ちてきた少女


 季節は春。四月の終わり。新たな出会いに一段落ついて、夏の気配が鼻先をかすめ始めた頃。



 彼女は落ちて来た。



 時刻はもうすぐ零時になろうかという時だった。その日、どうしても外に出る用事があったイヌガミは、急いでその用事を済ませた後、眠る街を歩いていた。


 取り壊し中の廃ビルから落下してくる彼女を見つけたのは、そんな時だった。


 突然の事態に頭が回らない。池の鯉みたいにポカンと口を開けたまま、それを見上げていた。


 しかし、すさまじい勢いで落下してくる女の子が、いよいよ地面に激突してドス黒い水たまりになろうというところに来て、背中を押されるように足を踏み出す。


 空を仰いだまま、両手を広げる。一歩、二歩、と自分の位置を調整していく。


 じりじりと痛む両の眼で、その姿をしっかりと捉える。いつもより速い心臓の鼓動のせいで、時間が止まっているようにすら思えた。


 そして──


*    *     *     *     *


 高校生・乾神遼(イヌガミ リョウ)の朝は早い。


 木造二階建てのボロアパート『栄弥荘』。その二階の一番西側の部屋、五号室に居を構えるイヌガミは、朝の支度にとりかかっていた。


 四人分の溶き卵をフライパンに注ぐ。ジュゥ、と心地よい音がこじんまりした台所に響いた。ちょうどこの時間に炊き終わるようセットしていた炊飯器がアラームを鳴らす。日が昇って間もない外を、涼しそうに小鳥が飛び回っていた。


──ボコリ。


 そんな朝の静寂を突き破るように、居間の方から明らかな場違い音が響く。居間の中央で畳が一枚、半開きになっていた。少し浮いた畳と床の間から、青白く細い女の腕が垂れている。


「ッッッ」


 びく、とイヌガミの体が震える。逃げ出しそうになる足を寸でのところで堪えた。


 やがて、畳が勢いよく上がる。中からは、見覚えのある少女が姿を現した。


「……おはよう、イヌガミ」


 辰巳スイは、おかっぱ頭の可愛らしい、一二歳の少女である。一号室──イヌガミの五号室の真下の部屋に住んでいるが、日中は基本的にイヌガミの部屋に入り浸っている。


「あ、ああ。おはよう」


 なお、一号室の天井と五号室の床にかけては、大きな穴が空いている。半年前にスイが空けたもので、彼女はそこに梯子を立て掛けることで二つの部屋を行き来していた。


「あのさ……明日から普通に玄関から入ってきてくれないか」


「? どうして?」

 心底理解できないと言った風にスイが首を傾げる。


その時、ガタンッと激しい音がした。ベランダの窓が勢いよく開く。


「おはよう、諸君! 今日は清々しい朝だ!」


 暑苦しい掛け声とともに窓から飛び込んできたのは体つきのがっしりとした初老の男である。


「だああ!! 毎朝毎朝、何でお前らはまともな入場が出来ねえんだ! 玄関から入ってこい!!」

「え、嫌だ」


 イヌガミの訴えを意にも介さないこの男の名は丑寅(うしとら)(じゅっ)(こく)。イヌガミの隣、六号室を住処とする六三歳。栄弥荘の中では最も年長であるが、最も落ち着きがないのもこの男であった。


「お、卵焼きか。甘いやつにしてくれよ。わしゃあっちのが好きじゃな」

「もう焼き始めたんだから黙ってろ!」


──ドンッ!!


 突如、世界をひっくり返したような轟音が響く。部屋全体が大きく揺れた。


「なっ、なに? 今度は何?」


 突然の物音に心臓バクバクのイヌガミが居間を覗き込む。見ると、十国が消えていた。

 困惑と不安の混じった表情を見せるイヌガミに、スイが一号室に繋がる穴を指さして言う。


「十国が落ちた」


 イヌガミが背筋を正す。そのまま何事もなかったかのように菜箸を握り、コンロに向かった。


「スイ、ちゃぶ台と座布団出しといてくれ」


「分かった」


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