ドーピング
「ウウ……ウグ……ウぐしゃああああああ!!」
女が倒れてすぐ、異形の怪物が襲い掛かって来た。見て、イヌガミが足に力を込めた。
跳躍する。
異形の突進に対し、避けた先は頭上。走高跳における背面飛びのように、全身で綺麗な弧を描きながら、天井と異形の頭頂部の合間をするりと抜ける。
そうして見えた異形のうなじに、イヌガミが素早く腕を伸ばし掴みかかる。
「ウッ……ウウッ!!」
頭に絡みついたイヌガミを異形が必死に引き剥がそうとするが、短い腕は頭上まで届かない。
右往左往する異形の上で、イヌガミがベルトに仕舞っていた椅子の残骸を取り出す。
玄関で異形が食い破ったものである。その尖った先端を、思い切り異形の喉に突き立てた。
「…………ッ」
しかし、通らない。
レンガのような皮膚が、鉄棒の刺突を拒んだ。
「グギャアッ!!」
異形が激しく頭を振る。遠心力に引っ張られ、堪らずイヌガミが異形から離れる。猫のように空中で一回転した後、トン、と小さな音を立て、床に着地した。
(何か……)
カルロスは、十メートル手前の安全圏から、神妙な面持ちでイヌガミの動きを観察していた。
違和感。
さっきからイヌガミがやたら動けている。身体能力が、並大抵のそれではない。
「何か、したのか……?」
カルロスには知る由もなかった。イヌガミの心臓が二つあることを。そして、その効能を。
二つの心臓を用いたドーピング。
それこそが、イヌガミの奥の手であった。
心臓を二つ駆動することで、体内を流れる血液量は倍になる。これにより、全身の細胞のエネルギー生成を促進させ、身体能力を飛躍的に向上させる。
あまりにも原始的なドーピングの手法。これによる、最終的なイヌガミの身体能力は──。
常人の二倍である。
「──フッ!」
息を吐いて、イヌガミが地面を蹴る。異形に向け一直線に距離を詰めた。
異形の反応が遅れる。その隙を見逃さず、イヌガミが異形の膝関節を撫で蹴りにした。
異形の体勢が崩壊する。
異形が倒れるまで〇・五秒。瞬きほどの間にイヌガミは椅子の残骸を再び握り、その切っ先を異形の口にねじ込んだ。そのまま異形の後頭部に腕を回す。
「オェッ、吐キマ……セ……!!」
(……見覚えがあると思ったんだ、こいつの体──)
さっきまでは腰が引けて見えるものも見えなかった。しかし、今はよく見える。
この怪物は、巨大な頭に対して、体が不釣り合いなほど小さい。二足歩行向きではないのだ。
こんなバランスの悪い体で、よくここまで歩いて来れたものだ。この体は、まるで。
(──まるで、赤ん坊じゃないか)
力任せに異形の顔面を地面に叩きつける。瞬間、口内に突き立てられた鉄棒が、異形の喉奥に勢いよく押し込まれた。先端はそのまま粘膜を突き破り、気管を抜けうなじを貫通する。
「~~~ァ……~~~~~~ッ……」
「さっきの食い残しだ……しっかり味わえ」
喉を貫かれ、か細い断末魔を絞り出すようにした後、異形が事切れた。
立ち上がる。その視線をカルロスに向けた。遂に、二人の間を阻む障壁はなくなった。
「……目が、赤いな」
一対一になって、先に口を開いたのはカルロスだった。
「指先にも鬱血している……どうやって身体強化を図ったのか知らないが、体への負担が大きいようだ。私が思うに、その状態は長く持たないのではないか?」
実際、彼の見立ては正しい。二つの心臓による急激な血圧上昇は、全身の血管へ強烈な負荷を掛ける。目の充血は、眼球の毛細血管が破れたことによるものだ。
しかし、イヌガミは何も言わなかった。そのまま目の前のカルロスを睨みつける。
「……跪け」
小さく呟く。が、カルロスはまるで聞こえないように、不貞腐れた顔でイヌガミを見返した。
「跪けぇ!」
イヌガミが絶叫する。校舎の窓がガタガタ鳴った。
「地面に頭擦りつけて懺悔しろ! お前が殺した、早乙女明の魂に!!」
「……君が謝ってほしいのは君自身に対してだろう」
「……ああ、分かった。もう、いい」
殺してやる。異形の喉から椅子の残骸を引き抜き、唱えた。カルロス自身に戦闘能力がないことは、イヌガミの奇襲に対し、部下に自分を守らせようとしたことから明らかである。
明への手向けだ。殺してやる。武器の切っ先をカルロスの首元に定め、足を踏み出した。
「──どうやって私が君をこの校舎に誘い込んだか、気にならないのかね?」




